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第4話

「ね、来たよ、鴨のコンフィ。はやく食べないとなくなっちゃうよ」

 紫野の声がして、隆之介はハッと我に返る。状況を理解するのに、数秒かかった。ここは……現在だ。ここにいる紫野はもうおかっぱではなく、髪を伸ばして、すっかり大人っぽくなっていた。いたずらそうな笑みを浮かべ、フォークをわざと隆之介の目の前でブラブラしてみせる。

 白い大皿に、鴨のもも肉がどんと鎮座していた。横にはマッシュしたポテト。皿を横断するように、ソースが芸術的にかかっている。こんがり焼けた皮の匂いが、香ばしく鼻をついた。途端に、感覚が冴えてくる。隆之介は一度頭を振った。

「ごめん、ボーっとしてた」

「いえいえ、いつものことですから。お兄さんの天然にはもう慣れてます」

 紫野が笑いながら、鴨を切り分けてくれる。なかなかのボリュームだ。隆之介はたちまち腹が減ってきた。我ながらおめでたいやつだ。


 口をもぐもぐさせながら、そう言えば、と紫野が言った。

「一番はじめの頃、鶏肉買ってきてくださいって頼んだら、お兄さんさ、鴨を買ってきたことあったでしょう」

「ああ、そんなこともあった気がする」

「絶対あった。私、お金持ちの人はいつもこんなの食べてるの?って、すっごく驚いたんだから。結局、週末に来たお手伝いさんに、ちゃんと焼いてもらったんだったかな」

 隆之介の頭に、憮然とした表情の幼い紫野が浮かんだ。そのときは、彼女が一体何が気に入らなかったのか、わからなくておろおろしたが、今考えれば本当に世間知らずだった。かつてのことを思い返すたびに、隆之介は頭を掻きむしりたくなる。

「ほかにもバカ高いフルーツトマトとか、南国の珍しい果物とか、よく買ってきてたよね」

「恥ずかしいからこれ以上言わないで、ホント」

「でも、言えばちゃんと直してくれたから、そういうところは素直で助かりました」

「……その発言、妹とは思えないなあ」

 隆之介が苦笑する。


 実際、その頃の兄と妹の関係は、どちらが上で、どちらが下か、怪しいものだった。新生活に対する憧れだけは豊富にあったが、生活能力が追いついていない隆之介に対し、すでに長い家事のキャリアを持つ紫野は、しっかり地に足つけていた。彼女はいつも淡々と家事をこなした。ある日、台所で野菜を刻む紫野のうしろを、「何かすることある?」「足りないものとかない?」とちょろちょろしていたら、だしぬけに紫野が振り返った。右手に包丁、左手に大根を握りしめ、水玉ピンクのエプロン姿で、思いきり仁王立ちしていた。思わず隆之介は、後ずさりした。

「できないことを無理にしようとしなくていいですから」

 つとめて冷静に、紫野が言った。

「お義兄さんは、『適正価格』って言葉を覚えてください。要らないものは、要りません!」

 その威容は、ちょっと忘れられそうにない。


 紫野は媚びない少女だった。何も持っていなくても、ねだったり、おもねったりするような、下卑た性質は持ち合わせていなかった。情緒不安定になって、泣いたり甘えたりすることもなかった。大人たちに対して、常に等しく冷静に接した。その等しさのせいで、「可愛げがない」という疎まれることも少なくない。だが、それがなにかと言うかのように、さりげなく振る舞った。わずか15歳だというのに、すでに人生の理を知ってしまったような、どこか醒めた視線の持ち主だった。


 遼子に関しては、手がかりも痕跡もほとんどないまま、ただ日々だけが過ぎていった。アパートに特に変わった形跡はなく、普段通りに出かけるようにして、そのまま消えてしまったのだ。探せるところを探しつくしたが、手紙の一枚も出てこなかった。事件か、事故か、それとも――。

 やつれきった隆之介が、未練がましく紫野を見たときでさえ、彼女は顔色を変えなかった。「紫野ちゃん、心当たりはない?」。それは既に何百回も繰り返された質問だった。紫野はじっと隆之介を見返す。底の深い黒い瞳は、隆之介の姿をとらえながら、同時に別の情景を見ているような印象を与えた。

「なにも、わかりません」

 何百回も繰り返された答えだった。


 それでも隆之介にとっては、紫野の存在が最後の光明だったと言える。想定しうる最悪の事態をすべて思い浮かべ、脳内で押したり引いたりの激しい闘いを繰り返した結果、たどりついた答えは、やはり「遼子が帰ってくるのを信じて待つしかない」というものだった。それに、遼子が今どこで何をしているにしろ、あんなに妹思いだった彼女が、ひとりになった紫野を心配していないはずがない。「責任を持って面倒みる」と誓ったのだ。紫野を守って、再び無事に遼子に会わせることが、己の貞潔の体現だという気がした。


 もちろん、下心がなかったわけではない。紫野を手元に置いておくことで、遼子とのつながりを絶たずにいられる。空白の席を待ち続ける口実ができる。


「紫野ちゃん、準備できた? 車を待たせているから、荷物を持ったら行こう」

 3月最後の日は、よく晴れていた。下町に似合わない高級車が、アパートの前に停まっている。隆之介が紫野を迎えに来ていた。

 この家に来るのは3度目だが、何度来ても驚くほど狭く、あらゆるところが傷んでいる。さっきも外階段の裏にネズミの死体をみつけて、隆之介は「ヒッ」と情けない声を出してしまった。若い娘ふたりが暮らすには、なにもかも剥き出されすぎている環境だと思ったが、ここも今日で明け渡すことになる。身の回りのものだけ紫野に持たせて、あとの処分は業者に頼む手筈だった。

 玄関から出てきた紫野の荷物は、驚くほど少なかった。背負ったリュックと、手提げ袋ふたつ。以上が、三崎紫野という女の子の構成物だった。


 隆之介が先導して、外階段を降りていく。彼が先に地面にたどり着いたとき、上から「あ」と、めずらしく紫野の驚いた声が降ってきた。

「冷凍庫に……」紫野が口の中でつぶやく。「アイスがまだ」

 なんで、アイス? そう思いつつ、「取りに戻ろうか?」と隆之介は紫野を見上げた。

 逆光だった。一瞬、紫野の顔が笑ったように見えた。

「いいんです。一緒に処分してもらいます」

 いつもより跳ねた声でそう答えると、紫野は猫のように身軽に、階段のステップを降りてきた。思わず、転ばないように、隆之介がさっと手を出す。彼にとっては習慣、男のたしなみのつもりだったが、紫野が瞬間、身構えた。

(このくらいの女の子は、こういうの嫌がるんだっけ)

 しかし出してしまった手を引っ込めるタイミングも難しく、「えーと」と、隆之介がもごもごしていたら、紫野がさっと手を握り、さっさと車のほうへ歩き始めた。

 意外なほど強い力だった。

 隆之介は反射的に紫野を見たが、彼女は下を向いたまま、ずんずんと歩き続ける。隆之介も大股で追った。

 紫野は一度も振り返らなかった。ふたりを乗せた車は静かに、南の方向へと滑り出した。


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