第3話
予想していたことではあったが、隆之介の結婚は、とにかく猛反対された。その勢いといったら、台風と地震と津波がいっぺんにやって来たようだった。もっとも、隆之介の家族にとっては、彼の突然の結婚宣言はそれ以上の衝撃だった。
母は泣き、だまされていると叫んだ。父は興信所を使って、三崎姉妹がいかに貧しく、身寄りがなく、香田家と釣り合わないかを語った。すでに結婚していた年の離れたふたりの兄は、「若いときにそういう気持ちになるのはわからんでもないけど、焦ってもいいことなんかないぜ」と諭した。それでも、隆之介の決意は固かった。
製薬会社の御曹司だというのに、生まれつき身体が弱かった。母やお手伝いさんが身の回りのことをなんでもやってくれるものだから、自分で選ぶということを身につけないまま育ってしまった。大きくなる頃には健康になっていたが、その習慣はすっかり身に沁みていた。人に勧められればNOとは言えず、これといってこだわりもない。小学校から大学までエスカレーター式の私立一貫校。さらには一族の経営する会社に就職するところまで、道は完璧に整えられていた。
「この生き方でいいのだろうか」という不安や疑問が、皆無だったわけではない。ときどきそれは頭をもたげ、隆之介の喉の奥をぷすぷすと焦がすこともあった。ただそう思ったとしても、じゃあ具体的にどうしたいということが、今ひとつピンとこなかった。若い人間にありがちな感情だと、なんとなく自分を納得させていた。
そんなとき遼子に出会って、突然何もかもわかってしまった。自分がすべきこと、守るべき人、まっとうすべき人生が。遼子以前に付き合った彼女も何人かいたが、まるきり違っていた。それはまるで、見えない手で、瞼をこじあけられたような衝撃だった。
あんまりにも隆之介が強情なので、ついに家族たちが折れた。「もう、好きにしなさい」と母が肩を落としたとき、神妙な顔で聞いてはいたが、内心は、溢れてくる笑みを押しとどめるのでせいいっぱいだった。新居は、実家から少し離れたところにある白い一軒家に決めた。土地ごと香田家の持ち物で、ずっと人に貸していたのだが、ちょうど最近空きになっていた。母の最後の希望でもある。身近な場所に住まわせることで、せめて安心したかったのだろう。家賃もいらないというので、お言葉に甘えることにした。それを聞いた遼子はちょっと複雑な表情をしたが、「これからいろいろお金がかかるから」と言うと、わかった、と頷いた。
遼子と話し合って家具を注文したり、結婚式場の下見に行くのは、隆之介にとって本当に楽しい日々だった。仕事のモチベーションもあがった。遼子のクラブに連れて行ってくれた先輩が「この幸せ者! 俺のおかげだろ?」と、背中をバシッと叩いてきたとき、飲みかけのコーヒーをスーツにこぼしたが、「スピーチはお願いしますよ」と、笑って返す余裕すらあった。
年が明けて、紫野が第一志望の高校に無事合格した。難関の都立高校である。遼子がまっさきに電話してきて、ほんとすごいでしょ、自慢の妹なの、とはしゃいだ。隆之介は、電話の向こうにいる彼女をほほえましく見つめる。遼子は結婚を決める前、こう言っていた。自分が中卒なのは気にならないが、紫野はすごく頭がいい。本人は定時制高校に行って働くつもりみたいだけど、できることなら才能を活かしてやりたい……と。なんと美しい姉妹愛だろう。相変わらず会うたびに警戒され、目を細めるようにしてこちらを見てくる紫野のことは得意とは言えなかったが、きっと何もかもうまくいくと、隆之介には感じられた。
まったくもって、何もかもうまくいくはずだった。その日まで、本気でそう信じていた。その日は朝から曇っていて、強い風が吹いていた。意地の悪い人格が取り憑いていて、なまぬるい息で、せっかくの桜の花びらをバラバラに散らしてしまう。そんな風が吹いていた。
オフィスビル1階の受付から、怪訝な声で電話がかかってきたのは、16時を回った頃だった。「ちょっとよくわからないんですが」と、受付嬢は切り出した。「中学生の女の子がひとり、ロビーでお待ちです。おそらく、香田さんのことだと思うのですが……」。
紫野は当時、携帯電話を持っていなかったし、隆之介の連絡先も知らなかった。もちろん会社の場所だって知らないはずだった。あとで聞けば、紫野が結婚式で着るドレスを探しに、このあたりに買い物に来ていたとき、あの高いビルが彼の会社だと、遼子に教えられたらしい。そのかすかなヒントをたよりに、ひとり電車を乗り継いで、紫野はこのビルまでたどり着いていた。とはいえ、部署名などもわからない。突然現れて、「香田隆之介さんいますか」としか言えない制服姿の少女に、受付嬢が驚いたのも無理はなかった。それでもなんとか取り次がれたのは、創業者一族の息子である隆之介の名前を、受付嬢が記憶していたからだ。
慌てて隆之介が上階から降りてきたとき、社員や客が多く行きかうロビーで、紫野は明らかに目立っていた。モダンなデザインのオフィスにそぐわない、やぼったい黒いセーラー服の、おかっぱの女子中学生。皆がチラチラと彼女を見ていく。しかし紫野は、そんな視線などないもののように、微動だにせず、ただじっと座っていた。ぴんと張り詰めた横顔は、近づくのを躊躇させるほど、静けさをまとっていた。
ふと紫野が立ちあがり、ゆっくりとこちらを振り向いた。何故そんなふうに思ってしまったのだろう、隆之介自身にも理由はよくわからなかったが――。その瞬間の紫野は、まるで、冥府からの使者のようだった。ただでさえ白い肌が、青ざめるように透き通っていた。隆之介は直感的に、ああ、良くないことが起きた、と悟った。
小さく会釈した少女は、無表情のまま告げた。
「姉が、いなくなりました」