第2話
それは、絵に描いたようなラブストーリーだった。年の離れた妹を養う勤労ホステスが、人の好い御曹司に見初められ、瞬く間に求婚される。女はホステス仲間たちに玉の輿ともてはやされたが、男は親戚中から大反対を受けた。そりゃ当然だろうと、さんざん疎まれた側の紫野ですら思う。彼らにしてみれば、私たちはどこの馬の骨とも知れない、ちっぽけで薄汚い姉妹だった。
遼子と紫野の両親は、紫野が生まれてすぐ離婚した。娘たちを引き取った母親も、何年後かに、借金を抱えたまま病に倒れ、あっさり死んだ。頼れる親戚も知り合いもいなかったから、生きていくには、遼子が高校を辞めて働くしかなかった。ウェイトレス、クリーニング店、掃除、ビラ配り、引っ越し手伝い……あらゆる仕事を経て、今は工場の事務員と場末のクラブのホステスをかけもって、どうにか生活を成り立たせている。といっても給料のほとんどは、紫野の学費や、借金返済に消えていた。ごくたまに客が貢いでくれるブランド品――といっても、パチンコの景品レベルのものだが――もすぐに質屋に持って行き、遼子自身はきらびやかな装飾品など、何一つ持っていなかった。住んでいるのは、築30年の狭い木造アパート。夏は暑く、冬は寒い部屋で、姉妹は文字通り、肩を寄せ合いながら生きていた。実際のところ、その姿はまさしく「貧乏」だった。
こんな環境でよくグレなかったね、と遼子が紫野に茶化したことがある。そのとき素直には言えなかったが、心のなかではひとえに姉のおかげだと、紫野は思っていた。昼も夜も身を粉にして働いているというのに、遼子は疲れた顔を見せたがらない。小柄で可愛らしい容姿のくせに、とにかくよく働いた。妹に心配されるのを嫌がり、「だいじょうぶ」が口癖だった。立ち止まったら死ぬ、と思い込んでいる節さえあった。そんな姉を見ていれば、グレるなんてつまらないことをするわけがない。夜中に帰ってくる遼子のために、紫野は狭い台所に立ち、毎晩料理を作り置きした。明るい姉に似ず、小さな頃から感情を表現するのが苦手だったが、そうすることで、言葉にはできない何かを、共有できている気がしていたのだ。
隆之介が姉妹の生い立ちを聞いたとき、ジャズが流れる小洒落たバーだったというのに、気にも留めずにおいおいと泣いたという。逃げ腰になる男、薄っぺらい同情をよこしてくる男、下世話な想像を働かせる男たちは山ほどいたが、そんなふうに泣いたのは彼がはじめてだった。もっとも、遼子が勤めるクラブに社会勉強と称して連れてこられたときから、隆之介は変わっていた。細い体にフィットした、皺ひとつないスーツ。さりげなく揃えられたブランド小物。店内を興味深そうに見回す、まぶしそうな瞳。どんなときも微笑みを絶やさない口元。年増のホステスが冗談半分で迫っても、焦ってはいたが、けして相手を傷つけたり、場の空気を壊すようなことは言わない。人の好さそうな、少し困った笑顔が印象的だった。育ちがいい、その一言に尽きる。香田製薬の三男坊だと聞いて、赤茶けたソファに座って接客していた遼子は納得した。なるほど、生きる世界の違う人だ――。
その隆之介に妙に気に入られ、しぶしぶ出かけたデートで、断るつもりで赤裸々な貧乏話をしたはずだった。それが、上記のような反応をされたものだから、番狂わせにもほどがある。ぎょっとしている遼子の手を取り、隆之介はハンカチで涙をふきながら訴えた。
「同い年のあなたが、そんなにも苦労しながら、しっかりと生きているというのに、僕は自分が恥ずかしい。これからは、僕に守らせてほしい。心配しないで、妹さんのことも、僕が責任もって面倒みます」
花束を抱えて帰ってきた姉の口から顛末を聞かされたとき、紫野は思わずのけぞりながら言ったものだ。
「お姉ちゃん、その人大丈夫?」
変わってるわよねえ、気の迷いよねえ、と姉妹は笑い、ちゃぶ台でバニラアイスを食べた。タイムセールで77円のアイスクリームが、日常のささやかな楽しみだった。隆之介にもらった花束は大きすぎて、100円ショップの一輪ざしには到底入らなかったから、紫野がビニールを外して、風呂場のバケツに入れておいた。
だから、結婚しようと思う、と遼子に告げられたとき、紫野は隆之介の存在などすっかり忘れていたので、本当に驚いた。驚きすぎて、なめていた飴が口の中からこぼれ落ちた。中学校で進路面談を受けた帰り、秋の道を並んで歩いているときのことだった。実は隆之介とは、あれから何度か会い、そのたびに真剣なアプローチを受けていたのだという。確かにお坊ちゃんで、常識がないところもあるけど、真面目でピュアな人だから、きっと紫野ともうまくやれると思うの。入籍は、早ければ来年の春になる。新居も、素敵なところになりそうで――。まるでハミングするように、ごくなんでもない楽しいことのように、彼女は話した。
でも、あまりにも急すぎるじゃないか。紫野が反論しようと口を開きかけた瞬間、察したかのように、遼子が紫野のほうを向いて、だいじょうぶだいじょうぶ、と笑った。うしろに暮れかけの太陽があって、金色の光が包み込むように輝いていた。
その笑顔を見たら、紫野はもう何も言えなくなってしまった。