第13話
「紫野ちゃん、待って!」
隆之介の呼ぶ声もむなしく、紫野は振り返ることなく駆けていく。ヒールの硬質な音が響いた。深夜とはいえ、坂を下ればタクシーがつかまえられる。乗ってしまったら、さすがにもう追いつけない。隆之介は唾を飲み込む。今、追いかけなければ。
しかし足を踏み出すことを、隆之介は一瞬躊躇した。
弾かれたようにまっすぐ走る紫野。その後ろ姿には、何かを必死で振り切ろうとする頑なさが滲んでいた。
紫野の性格のことだ、きっと二度と戻らないつもりで、用意周到に今夜を迎えたに違いない。実際、紫野の思惑も、引っ越しの準備を進めていたことも、そして彼女がひた隠しにしてきた秘密も、隆之介はちっとも気づけなかった。
紫野がラクになるというのなら、立ち去ることを止める権利など、自分にあるだろうか。彼女の言うとおり、もはや紫野と隆之介の間には何のつながりもない。それどころか、隆之介と暮らすことが、間接的に紫野を苦しめてすらいたのだ。兄失格と罵られても仕方がない。もう紫野も大人なのだから、今夜で全てを終わりにするというのなら、その意志を尊重してやるべきでは――。
洪水のように溢れかえった理性は、そこで途切れる。
「なんだ、そりゃ」
思わず口をついて出た。それが隆之介の答えだった。
次の瞬間、勢いよくアスファルトを蹴って、隆之介は走り出していた。一つ目の角を左に曲がる。カーブする際の、ほんの少しの時間のロスでも今は惜しかった。勢いをつけたまま、両腕を動かして走り続ける。ネクタイがバタバタと動くのが邪魔で、右肩に放り投げる。携帯も捨ててくればよかった。前髪と額の間からじんわりと汗が流れ出す。ひゅう、というかすれた息が喉から漏れた。
通い慣れたはずの道順なのに、はじめて見る景色のようだった。ひんやりとした街並みのなかで、隆之介の身体だけが熱を放っている。突き放されているような異物感が、かえって心地よかった。汗を手の甲でぬぐいながらも、足は止めない。息があがる。これほど全力で走ったのは、遼子が失踪した日以来だった。
この姉妹だけだ、自分をこんな気持ちにさせるのは。
隆之介はバス通りに出る角を曲がった。視界が開ける。と同時に、数メートル先に紫野がいた。
「紫野ちゃん!」
後ろ姿の紫野の肩が、ビクッと跳ねた。まさかここまで追いかけてくるとは思っていなかったのだろう、速度を少しゆるめていたらしい紫野は、しかし振り返ることなく、再び大股で走り出そうとする。隆之介はもう一度、かすれる声で叫んだ。
「紫野!!」
7年一緒に暮らして、はじめて呼び捨てで名前を呼んだ。
紫野の動きが止まる。
両膝に手を置き、隆之介は肩で息をする。むせそうになるのをなんとか押さえながら、紫野の背中に呼びかけた。
「言い逃げなんて、子供っぽいこと、しないでよ」
珍しく語気を強めた隆之介の声は、しんとした夜の空気に、糸電話の糸のように振動した。
「自分さえいなくなれば全部解決するとか本気で思ってるの? バカだよ。身勝手すぎる」
紫野はぴくりとも動かない。
「似てないとか言ってさ、そういうとこ……遼子そっくりじゃん」
額から溢れた汗が、眉の先を辿り、目頭に垂れた。塩の味が眼球に沁み込む。その刺激に隆之介が顔をしかめるのと、紫野が横顔だけで振り返ったのはほぼ一緒だった。
紫野の眉はへの字にゆがんでいた。こちらを睨みつける瞳からは、相変わらずぼろぼろと涙がこぼれている。上気した桜色の頬。固く結ばれた唇。
まるで叱られた子供の表情だった。同時にそれは、かつて隆之介に見せたことのない表情だった。
うるんだ瞳が大きく揺れた。
黙っていた紫野が、ゆっくりと口を開く。
「なんで、そんなに怒るのよ……」
隆之介は虚を突かれる。それは、普段の紫野からは想像できないほど無防備な声音だった。次の瞬間、隆之介は苦笑していた。
「さっき、怒れって言ったの紫野ちゃんじゃん」
言いながら、隆之介の肩の力がほどけていく。口元に自然と笑みが溢れた。固く閉じていた心臓に血液が流れ込むのを感じる。
隆之介は確信して、紫野へと歩んだ。思ったとおり、紫野は逃げなかった。困ったような怒ったようなすねたような表情を浮かべながらも、大きな力に足首を捉えられたように、その場に立ちつくしていた。紫野はそこで待っていた。
駆け寄りたかったが、そうすれば紫野が逃げてしまうような気がして、隆之介はゆっくりと歩いた。確実に、大股で紫野に近づく。ちゃんと触れるまで安心はできない。五歩、六歩、あと一歩――。
隆之介は紫野の手首に腕を伸ばした。細く、しかし温かい白い手首がそこにあった。隆之介の手の中に収められる。
つかまえた。
安堵の息を吐こうとしたそのときだった。
グギ、という鈍い音がした。正確には、身体の中の骨を通して振動が響いた、という言い方が正しいかもしれないが、隆之介にそんなことを考えている余裕はなかった。左足首に激痛が走る。マズい。痛みの正体を悟るのと、紫野の手首を掴んだまま、仰向けに身体が崩れ落ちるのは同時だった。突然の展開に、紫野がぽかんと口を開くのがスローモーションで見えた。その彼女を思いきり引っ張りつつ、隆之介の視界は反転した。
永遠にも思えた刹那ののち、なす術なく背中から倒れた隆之介は、後頭部を見事にアスファルトに打ちつけた。
頭の中に釣鐘を無理やりはめ込まれたような振動、そして鈍い痛み。ただでさえ足首が砕かれたように痛いのに、そのうえ後頭部までもとは。閉じたまぶたの前がぐわんぐわんと揺れる。一瞬、意識が飛びかけた。
「いったぁ……」
だが、紫野のうめき声がそれを許さなかった。手首をつかまれたまま隆之介の転倒に巻き込まれた紫野は、彼の胸を横断する形で覆いかぶさっていた。右半身からコケたらしく、右腕を支柱にし、よろめきながら隆之介の上で上半身を起こす。
「なに? なんなの? なんでこのタイミングで転ぶの!?」
ぶっ倒れたままの隆之介の頭上から、紫野の罵声が降ってくる。朦朧とした意識のなか、目を閉じたまま隆之介は力なく返事した。
「ごめん、なんか、足挫いたみたい……」
はぁ!?と紫野が叫ぶ。
「信じらんない。お兄さんって、ほんっとドジ!」
呆れ果てた紫野の声が遠くから聞こえた。相変わらず頭はガンガンと痛むが、なぜだか隆之介の口元はほころんだ。
「だって、あんなに走ったの久しぶりだったんだよ……。ほんとごめんね。怪我、ない?」
「私のことより、自分のこと心配するべきでしょう。ねえ、大丈夫? ものすごい音したよ?」
自分を覗き込む気配を感じ、隆之介はゆっくりとまぶたを開けた。ぼんやりとかすむ視界。その向こう側で、よく知った姿が、憮然とした表情を浮かべている。
黒髪で、色白で、遼子とはまるで似ていない女の子。なんの運命のいたずらか、投げ出された者同士、7年間もふたりきりで暮らし続けた。大人っぽいのに変なところで幼くて、器用がゆえに不器用で。血のつながりも姻戚関係も何もなくても、それを家族と呼ばないなら、いったいなんと呼ぶのだろう。
すべての焦点が合った。
そこにいるのは、他の誰でもない、妹。
――紫野。
隆之介は両腕を伸ばし、紫野の背中に回した。そのままぐいと胸に引き寄せると、紫野が抵抗する前に、あらん限りの力でその細い身体を抱きしめた。
「な……」
あまりにも予想外の展開だったのか、紫野はそれきり言葉を失っていた。抱きしめられた姿勢のまま、狼狽しているのが伝わる。
彼女の体温を感じつつ、隆之介は空を見た。夜空を背景に桜がはらはらと舞って、自分たちに向かって落ちてくる。時を忘れさせるような光景だった。
夜空を見たまま、隆之介はぽつりと口を開いた。
「本当に出て行きたいなら、止めないよ」
腕の中で、紫野が少し身を固くする。
「というか、紫野ちゃんも社会人になるわけだし、いつまでも一緒に暮らしてるほうが逆に不自然なんだよね」
こんな夜中に路上に寝転がって妹を抱きしめている兄のほうもたいがい不自然だろうが、今はもうすべてがどうでもよかった。
心臓の鼓動がどんどん早まっていくのを、布越しに感じる。紫野の心臓の音か、それとも自分の心臓の音か。あるいは両方かもしれなかった。
「この7年間は、本当に紫野ちゃんのおかげだったと思う。少なくとも僕はそう信じてる。……もっとはやく、ちゃんと伝えていたら、紫野ちゃんがここまで悩むこともなかったのかもしれないけど」
紫野がふるふると頭を振った。細い髪が隆之介の手の甲の上で踊った。
「だから、愛想尽かされても仕方ないし、新しい人生を歩むなら、それは止められない。だけど……」
声が震え始める。それに呼応して、隆之介の指先にも力が入らなくなってくる。もう一度だけ、彼は腕に力を込めた。
「たまには遊びに帰ってきてよ。実家だと思ってさ。……待ってるから」
中途半端なところで切って申し訳ありません。
次回確実に完結します。
それにしても、「抱きしめる」って書くだけで緊張しますね・・・