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第12話

※6月21日、後半を大幅改稿

 ときどき、紫野は夢を見た。

 ダイニングテーブルで、ジャガイモの皮をむいている。隆之介の実家から大量に野菜の差し入れがあったので、今日はポトフをつくるのだ。昨日の晩に漬けておいたマリネも、今頃いい感じに味がしみ込んでいるだろう。

 隆之介はリビングのソファに寝転んで、読みかけの雑誌を開いたまま、うとうとしている。今週は仕事が立て込んでいたらしく、ちょっと疲れ気味のようだ。そうでなくとも、日曜の夕方ほどまどろむのに適した時間帯もないのだが。

 そのとき扉が開いて、遼子がひょっこりと顔をのぞかせた。

「ただいま~。わ、すごい量のジャガイモ」

「おかえり。なんか無農薬のいいやつなんだって。お兄さんのお母さんから送られてきたよ」

「あはは、無農薬って、自分んちは製薬会社なのにね。これ、おみやげだよ。留守番ご苦労さまでした」

 遼子は笑って、プリンの入った箱を差し出した。紫野の好きな店のものだ。

「彼は?」

「あそこで寝てるよ」

「あー、相変わらず子供みたいな寝顔」

 起こさないように遼子は忍び足でソファに近寄り、満足そうに隆之介を見下ろした。紫野も自然と顔がほころぶ。

「幸せな夢でも見てるんじゃない?」


――夢を見ているのは、自分じゃないか。

 いつも、そこで気付いた。夢はまだ続いていて身体もぼんやりとしているのに、意識だけが、突然冷水をかけられたように覚醒してしまうのだ。

 紫野は起きたくなかった。かといって、もう一度眠り直すこともできそうにない。そんなときは、ただ死体のように横たわったまま、ベッドの上で、強烈な自己嫌悪と絶望的なむなしさを持て余すだけだった。このまま本当に死ねたらいいのに、と紫野は思った。

 無意識とはいえ、都合のいい妄想をいつまでも捨てられない自分を紫野は呪った。姉はきっと戻らない。彼女を追い詰めたのは、他でもない自分なのだから。

 わかっている。それでも待ってしまうのは、この家に住んでいるからだ。隆之介との“兄妹ごっこ”が長引けば長引くほど、妄想が真実のように思えてきてしまう。ある日、何事もなかったように姉が帰ってきて、たった今夢で見た暮らしが現実になるんじゃないかと、まだどこかで期待してしまう。

 紫野は目を閉じて、奥歯をかみしめる。はやく、はやく、ここから出ていかなければ。何度もそう思っているのに、ベッドから動くことすらできない。体温がなじんだシーツは、やわらかく、なまぬるかった。

 

「兄妹ごっこ」

 紫野が唐突につぶやいて、握っていた隆之介の手首を離した。同時に、唇の端を持ち上げて笑顔をつくる。さっきまでの表情が嘘のように、見慣れた、いつもの紫野の薄い笑みだった。しかし隆之介は笑えなかった。床に尻をついて扉にもたれかかけ、何か言いたげな目で紫野をみつめている。

「それも今日で終わり。……実はね、昼間のうちに荷物を出しといたの。この家にはもう、私のものは何も残ってないよ」

 それまで隆之介ににじりよる姿勢で静止していた紫野は、身体を起こすと、膝の土を払いながらゆっくりと立ち上がり、道路側を向いて伸びをした。

「まあ、荷物なんてほとんどなかったけどね。家具も家電も食器も全部。最初から、この家には私のものなんて何ひとつなかった」

「出てくって、本気で言ってるの?」

 声を裏返させながら、隆之介は尋ねた。

「本気だよ」

 振り返った紫野は、静かな笑みを浮かべていた。白い月の光が頬を照らしている。それはなぜか、ひどく神聖な印象を隆之介に与えた。

「今日を、ずっと待っていたんだから」

 紫野は再び隆之介の目の前に戻ると、しゃがんで目線を同じ高さに合わせる。迷子になってへたりこんだ小さい子どもに語りかけるような構図になった。

「……民法第30条、失踪の宣告」

 隆之介の喉から、あ、という音が漏れた。

「『不在者の生死が七年間明らかでないときは、家庭裁判所は、利害関係人の請求により、失踪の宣告をすることができる』。民法第31条、失踪の宣告の効力。『前条第一項の規定により失踪の宣告を受けた者は同項の期間が満了した時に、同条第二項の規定により失踪の宣告を受けた者はその危難が去った時に、死亡したものとみなす』。これ、お兄さんも知ってるでしょ?」

 隆之介は訴えるような目で首を振った。もちろん知らないという意味ではない。

「私の中で、お姉ちゃんは、今日、死にました」

 かみしめるように、紫野は言った。

「これで法律上、お姉ちゃんは死ねる。そしたらお兄さんと結婚することはできなくなる。つまり、私とお兄さんの間に何の関係もなくなる」

 隆之介もその内容は知っていた。遼子がいなくなった当時、失踪に関する書籍を読みこんだからだ。だが、有り得ないと思っていた。

「まさか、請求するつもりじゃないよね?」

「お兄さんが望むなら、するよ」

「望まないよ!」

 思わず、強い声が出た。

「そう言うと思ってた」

 だが、紫野は満足そうに笑った。顔を隆之介に近づけ、ささやく。

「でも、理由としては充分でしょう? 7年も帰ってこなかったら、世間的にはそれは死んだも同然ってことだよ。周りの人だって理解してくれる。なんなら、私が本当に請求したことにして話してくれてもいい。きっとみんな、しょうがないね、今までよく頑張った、ってなぐさめてくれると思うから」

 紫野は、両手をポーチの扉にかけた。カシャン、という硬い音が響く。これ以上なくふたりの距離が縮まり、隆之介は紫野の両腕に包まれているような形になった。隆之介はめまいをおぼえる。深夜に、こんな場所で、こんな姿で、紫野とこんな話をしていることが、とても現実とは思えなかった。しかし首筋にかかる紫野の吐息が、幻ではないことを証明していた。なまあたたかった。

「今まで、本当にごめんなさい。嘘ついて、騙して、こんなふうに裏切って。許されることじゃないと思ってます。お兄さんのやさしさにつけこんで、つい甘えてしまった。だから、もう行きます」

「そんな、もうちょっと待って……」

「待ちたくないの、これ以上」

 紫野の鋭い声が、ゆらぐ隆之介の視線を切った。

 言葉を吐き捨てた唇は静かに結ばれ、紫野の黒い瞳が翳っていく。紫野は隆之介に身体を寄せた姿勢のまま、強張った表情で、虚空をみつめた。ふたりの呼吸が止まる。空気がぴんと張り詰める。

 それがひとりで何かを待っているときの、紫野の表情――。


 隆之介はようやく理解した。

 なぜ今まで気付いてやれなかったのだろう。

 紫野はただ、ずっと怖れていた。

 誰も帰ってこないことを。

 自分が不要になることを。

 それが現実になることを。

 その怖れを封じ込めようとするとき、人はこんな表情になるのではないか。


「……それじゃあ」

 紫野が急に立ちあがった。隆之介の身体に触れていた重みと温もりが消える。かわりに、冷えた夜の空気が流れ込んでくる。ひやりとした空気が、隆之介を我に返らせた。

「紫野ちゃん!」

 慌てて立ちあがり、紫野に手を伸ばす。だが紫野はするりと身体をひねり、隆之介の指先から逃れた。そのまま軽く跳ぶようにして、後ろ歩きで数歩下がると、ぴんと背筋を伸ばして立った。

 月を背にした紫野の視線は、まっすぐ隆之介をとらえていた。

 不意に紫野が身体を曲げ、深々と頭を下げた。ゆるやかに時間をかけながら、完璧な弧が描れていく。それは、これ以上ないほどの最敬礼だった。一連の動きがあまりにもなめらかで、隆之介は立ちつくしたままだった。音のないスローモーションの舞台に紛れ込んだ観客のように、紫野の姿にみとれていた。


 ゆっくりと、紫野は上半身を起こした。

 再び隆之介と視線が絡み合う。その視線の強さに、隆之介は一瞬ひるんだ。だが意外なことに、次の瞬間、紫野は思いきり笑った。これまで隆之介が見た中でも、とびきりの笑顔だった。

「さようなら」

 このたった一言を言うために、長い長い時間を費やしてきたのかもしれない。満面の笑みをつくりながら、紫野は思った。

「7年のあいだずっと、妹でいさせてくれてありがとう」


 紫野は笑っていた。笑いながら泣いていた。

 立ちつくす隆之介の前で、ぼろりぼろりと涙が生まれては落ちる。鮭の産卵のごとき勢いだった。7年間溜めこまれた分を一気に放出するかのように、とめどなくこぼれ落ちる涙の粒は大きく、透きとおっていた。

 紫野は小さく息を吸うと、くるりと振り返った。そして隆之介の呼ぶ声を後に、夜の闇へと駆け出した。


異常に苦労して、更新が遅くなりました。すみません。

次回で終わる・・・かな?

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