第11話
これから結婚しようという男女の間に妊娠が発覚したら、それは当然、祝福されるべきもののはずだ。むしろ、これ以上なく幸せな状況のはずだろう。
隆之介は記憶の糸をたぐりよせようとする。あの頃、遼子に変化はあったか。言われてみれば若干ふっくらとしていたような気もするし、そうでないような気もする。隆之介は、7年の間に、自覚していたより薄ぼやけてしまった自分の記憶に焦れた。
ただ、ひとつ言えることがある。避妊を怠ったことはなかった、ということだ。もちろん、避妊に100%などないにしても。
「なんで……」
隆之介はつぶやいた。長い眠りから急に起こされたように、頭にもやがかかっている。
紫野が目をふせる。長く黒い睫毛が、白い肌に影を落とした。
「『私、結局、お母さんと一緒だった』」
「え?」
「そう言って泣くお姉ちゃんを、私は呆然と見てるだけでした」
紫野の脳裏に、あの日の姉の姿がよみがえる。
隆之介に出会う前から、姉には好きな人がいるのではないかと、紫野は漠然と感じていた。はっきり聞いたことはなかったが、一緒に暮していればなんとなくわかる。時がきたら、自分にも紹介してくれるのかもしれない。そう思っていたところで隆之介との婚約を聞かされたのだから、紫野が驚いたのも無理はなかった。
私、お母さんと一緒だったのよ――。
その言葉を思い出すたび、この7年間、紫野の胸は疼いた。姉はどんな気持ちでそう言ったのだろう。許されない相手の子を宿す辛さを、母を見て知っていたはずなのに、自分がその被害者だったはずなのに、母のようにはならないと誓っていたはずなのに。
遼子の恋の相手は、既婚者だった。出会ったとき、貧しい生い立ちを告白した遼子に対し、逃げ腰になるでもなく、薄っぺらい同情をよこすでもなく、下世話な想像を働かせるでもなく、そして泣くでもなく、彼は黙って頭をなでてくれたのだという。
本当に、嬉しかったのよ。さんざん泣きはらしたあと、どこか遠くをみつめながら遼子はぽつりとつぶやいた。
「つまり要約すれば」
女にしては低めの紫野の声が、夜の空気を震わせる。もう午前1時を回っているだろうか、周囲の灯りは消え、風も冷えてきたが、ふたつの影はそこに立ちつくしたままだった。
「妹を育てなきゃいけない、身寄りのない貧しい女が既婚者を好きになっちゃって、でも諦めなきゃと思って、そしたら都合よく御曹司に求婚されて、不毛な恋を振り切るためにそれを受けて、これでようやく苦労することもないと思ったら、やっぱり彼のことが忘れられなくて、最悪のタイミングでデキちゃって、それが妹にバレて、切羽詰まった挙句、何もかもを置いて逃げたっていう……」
少し強い春の夜風が、ざわざわと木々を揺らした。風の音が鳴るほどに、隆之介の目には、妹の姿が不気味なほどくっきりと白く浮き上がっていくように見えた。
「たった、それだけの話だったんです」
紫野の顔が奇妙にゆがんだ。笑っているのか、情けないのか、恥じているのか、怒っているのか、それともそのすべてが入り混じっているのかもしれない表情。
「全部知ってて、お兄さんのこと、ずっと騙していたんです」
それが7年間におよぶ風変わりな兄妹関係の、お粗末なカラクリだった。
隆之介は思い出す。遼子に一目ぼれした日。その後のトントン拍子な展開。常に明るくふるまっていた遼子。姉妹とはじめて会ったファミリーレストラン。浮かれていた自分。薄汚れたアパート。ずっと疑り深く自分を見ていた、セーラー服姿の紫野。
気付くべきだった。
生活のすべてを支えていた、たったひとりの身内を失ったとき、15の少女にできることなど何があるだろう。紫野は聡明な子だった。自分の置かれた絶望的な状況で、どうすることが一番賢明かを瞬時に考えたとき、取るべき行動などひとつしかないではないか。
「そりゃあ、そうだよねぇ……」
沈黙を破り、隆之介はくすくすと笑いだした。予想外の展開だったのか、身構えていた紫野が一瞬ビクッとする。
隆之介は顎に手を添えて、思い出し笑いするように身体を震わせた。
「我ながら、ほんと間抜けだね。とっくの昔に捨てられてたのに、気付かないで」
「な、なんで笑うの!?」
「誘拐とか事件とか、夢みたいな想像をふくらましては自分を納得させてたけど、ちょっと冷静になって考えれば、すぐわかることなのにさ。あーあ、周りのみんなは呆れてたんだろうなあ」
隆之介は肩の荷が下りたように、レンガ床にどさっと腰を下ろし、くしゃくしゃと後頭部をかいた。紫野は彼の思わぬ行動に困惑しながらも、ためらいがちに、ポーチの段に膝をつくようにして向い合せになる。
「失恋、したって認めたくなかったのかなぁ」
紫野は思わず隆之介の顔を見た。兄はポーチの扉にもたれかかりながら、静かな笑みを浮かべてこちらを見下ろしていた。そんな表情の彼を見るのははじめての気がして、紫野は何故だか心臓をグイッと掴まれたような感覚を覚える。
隆之介の口調には、ずっと前から答えを知っていたような響きすらあった。
「……怒らないんですか?」
「むしろ、ごめんね。僕がもっとはやく気付くべきだった。紫野ちゃんに余計な気を使わせてしまった」
「そんなんじゃない。私は騙してて……」
「君のせいじゃないよ」
「私のせいだよ!」
紫野が突然大声で叫んだ。同時に隆之介の左手首を掴んだ彼女の右手が、小刻みに震える。
「私にみつかりさえしなければ、お姉ちゃんは中絶するなり、お兄さんに相談するなり、別の方法を取っていたと思う。少なくとも失踪なんてしなかった。でも私が気付いちゃったから……。お姉ちゃんが必死に築いてきたものは、全部私のためだったんだよ。そもそも私が生まれてなきゃ、お姉ちゃんはこんな目に遭うことなかった。それでも妹が可哀想だって、お母さんを反面教師にして、良き姉としてひたすら頑張ってきたのに、それを当の私がぶっ壊しちゃってどうすんの!? 妊娠なんて気付かなきゃよかった。そしたらお姉ちゃんはいなくならなかった。何もできない子供のくせに。私はあのとき」
憑かれたようにまくし立てていた紫野が、言葉を止めた。
浅く息を吸う。埋もれていた記憶を引き上げるように。その瞬間、けわしかった紫野の顔から波が引くように感情が去り、虚無に近い哀しみの表情だけが残った。隆之介は思わず息をのむ。それは紫野の、自分自身に対する深い失望だった。
痛いほどの力で、紫野は隆之介の手首を握った。
「お姉ちゃんに、だいじょうぶだよって言えなかったの」
夜に舞う桜の花びらのように、その言葉は儚く闇に消えていった。