第10話
それでも、紫野には遼子がいた。
仕事で手いっぱいの母にかわって、紫野の実質的な世話は遼子が行っていた。母が弱っていくのと反比例して、遼子は強く、前向きに振舞った。遊びたいざかりの年頃だったはずなのに、嫌な顔ひとつしない姉を、紫野は慕った。
だから正直なところ、ある冬の日に姉妹を残して母が死んでしまったとき、紫野はどちらかというと安堵する気持ちのほうが大きかった。もちろん、口にはしなかったが。傍から見れば救いようのない状況だというのに、「今後どうなるんだろう」という不安より、「どうにでもなるだろう」という思いが不思議と勝っていた。それは自暴自棄ではなく、静かな解放感と呼ぶほうがふさわしかった。これ以上、外で働くのが向いていなかった母に無理をさせることもない。目が合うたびに、ためらうような表情をさせることもない。大人だが感情の振れ幅が大きく、不安定な母のもとで生きるより、姉とふたりで生きることのほうが、ずっと地に足付いたことのように思えた。誰に教えられたわけでもないのに、そんなふうに感じてしまう自分は、やっぱり親不孝な子供なのだろう。
紫野の気持ちに気付いたのか気付かなかったのか、ひとしきり泣いたあと、遼子は紫野を抱きしめた。ささやかな祭壇が片付けられ、大人が去ったあとの公民館は、がらんと静かな空洞が広がっていた。姉が毅然とした声でささやく。私たち、だいじょうぶだよ――。耳に直接姉の息がかかった。その生温かさに、紫野は感じた。ああ、きっと生きていける。小さな腕で、紫野は姉を抱きしめ返した。
「不倫とかの詳しい話を知ったのは、さすがにもっと後だけどね」
トレンチコートのポケットに手を入れ、皮肉めいた笑みを口元に浮かべた紫野が話す。真正面にいるというのに、隆之介には、彼女の言葉が天からのナレーションのように聞こえていた。ゆらゆらと視界が揺れて、紫野の表情が闇夜にぼやけて見える。彼女の美しい黒髪は、夜の繊維のようだ。
「不倫の子を産むなんて大それたことをしておきながら、ずっと夢の中にいるような母だった。身体を張って生きていくってことに、向いてなかったの。じゃあ最初から不倫なんてしなきゃよかったのにね」
紫野は目を細めた。彼女の淡々とした語り口は、隆之介に向かって話すというより、だんだん独白に近づいてくる。
「だからこそ、お姉ちゃんに強く惹かれたのかな。顔も性格もあんまり似てない上に、母があんなだったから、姉というより、憧れの先輩みたいな感じだった。本当によくできた人でね。理想的な存在だった。この人なら間違いない、この人に着いていけば大丈夫……。陰は陽に惹かれる、って言うでしょ?」
見上げるような紫野の目が、ふいに隆之介の視線をとらえた。思わず隆之介の心臓が跳ねる。
「私、陰気だから」
ふふ、と紫野は笑った。そんなことはない、と否定したかったのに、何故か隆之介の喉からは言葉が出ない。
しばらく面白そうにしていた紫野だが、右手でくしゃくしゃと髪をかきあげてから首を一振りすると、潮が引くように真顔になった。姿勢を伸ばして改めて隆之介をみつめる。そのまなざしの強さに、一瞬隆之介はたじろいだ。
「でも今考えれば、お姉ちゃんだって高校生だったんだよ」
紫野の脳裏に遼子の姿が浮かぶ。高校を辞め、働き始めた遼子。やさしく、苦労を厭わず、辛い顔を見せず、立ち止まったら死ぬと思い込んでいた節さえあった姉。
実際、思い込んでいたのだ。正確に言えば、思い込まざるを得なかった。自分で自分に暗示をかけなければ、あんな労苦は無理だった。
「母が死んでから、いえ、きっと私が生まれたときから、お姉ちゃんはずっと無理してた。なのに私、お姉ちゃんが元々そういう人なんだと信じ込んでたの。本当は、お姉ちゃんはいろんなものを犠牲にしていたのに」
だからその糸が切れたとしても、いったい誰が非難できるだろう?
「お姉ちゃんの様子がなんだかおかしいのは気付いてたけど、結婚前ってそういうものなのかなと思ってたし、私は受験に気を取られていて、自分のことばっかりだった」
当時、食料品やシャンプーといった日用品の買い出しは紫野の仕事だったが、受験シーズンに入ると、それは免除されていた。年が明けて仕事を辞めた遼子は、結婚の準備のかたわら、甲斐甲斐しく妹の世話をしていた。
「一時、お姉ちゃんがだるそうにしてて、風邪がうつったらいけないからって、3日くらい新居へ寝泊まりしに行ったけど……」
「え」
思わず隆之介が声を出した。そんな記憶はない。それにその頃はまだ、家具が家に運び込まれていなかったはずだ。寝泊まりできるはずがなかった。
隆之介の反応を見て、紫野は満足そうにうなずいた。
「やっぱりそうよね。あれも嘘だったんだ」
「いったい、どういうこと?」
隆之介の質問に直接答えず、紫野は昔語りを続ける。
「受験が終わって、私も久しぶりに掃除とかしなきゃなって、ドラッグストアに買い物に行こうと思ったの。で、棚をチェックしてたら、明らかに減りが少ないものがあることに気付いた。その1~2か月、私しか使った形跡がなかったの。おかしいじゃない?」
「……?」
「それで私、まさかそんなわけないと思いながら、帰って来たお姉ちゃんに訊いたよ。いつもみたいに笑ってくれると思ったのに、お姉ちゃんは見たことないくらい傷ついた顔をして、私、全部わかってしまった。体調が悪かったのも、妙に上の空だったのも、そもそも結婚の話が出たときからぬぐい切れなかった引っかかりの正体も、全部」
一息で紫野は語る。過去の情景が、すぐそこで繰り広げられているかのように。静かで低い彼女の語り口は、何かに怒っているようでもあった。置いてきぼりをくらった隆之介が、慌ててその空気に飛び込む。
「ご、ごめん。言ってる意味がよくわからないんだけど……」
紫野がふらりと視線をあげ、隆之介を見た。困惑している彼を目に捉えると、数秒間息を止め、そしてゆっくり息を吐いた。
「お兄さんは、やっぱりぼんやりしてるね」
紫野はやわらかな苦笑を浮かべた。しょうがない人、というふうに。
この秘密ひとつを言うことができずに、7年間ずっと逃げとおしてきた。叶うなら兄が自分で気付いてくれればいいと願っていたが、そんなのは都合のいい妄想だったらしい。自分のツケは自分で払わなければならないのだ。
紫野は一呼吸置いて、口を開いた。
「減ってなかったのは、生理用品だよ」
こんなによくしてきてくれた彼を最後の最後に裏切る自分は、本当に不孝者だ。母にも、姉にも、そして兄にまでも。
「お姉ちゃんは妊娠していました」
せめて目を見て伝えることが、自分の義務だと紫野は思った。
ベタな展開ですみません・・・!