第1話
横断歩道を小走りで渡り終えたところで、紫野の横顔が、隆之介の目に飛び込んできた。20時の約束に、すでに15分以上遅れていた。彼女が指定したのは、駅裏にあるフレンチ・ビストロ。家と反対方向なので隆之介はこれまで知らなかったが、確かに紫野の好きそうな、こじんまりと温そうな店構えだった。
その窓際の席に、紫野はじっと座っていた。携帯電話をいじるでもなく、文庫本を読むでもなく、ただそこに静かに座って、一点を見つめている。ぼんやりしているというより、バリアを張っている、という表現がふさわしいように思う。
ひとりで何かを待っているときの彼女は、いつもそんなふうだった。まるで野生動物のように、ぴんと意識を張りつめている。賑やかそうな店内で、そこだけ静寂が訪れていた。こんなときの紫野が何を考えているかは、7年一緒に暮らしても、隆之介にはまだわからなかった。
キッ、と音を立てて、自転車が隆之介の真横をすり抜けていく。気付けば、自分は道の端で立ちっぱなしだった。慌てて謝ろうと自転車を目で追ったが、あっという間に夜道へと消えてしまう。店のほうに振り返ったところで、窓越しに紫野と目が合った。またドジな兄だと思われたに違いない。隆之介がばつの悪い笑顔を浮かべると、紫野は小さく会釈した。出会い頭に会釈するクセは、昔から変わらない。家族にしてはよそよそしい気がするが、それでも、うっすら微笑んでくれるようになっただけで、大した進歩と言えるかもしれない。
「ごめん、お待たせしました。先に飲んでてよかったのに」
ようやく席に着き、スーツの上着を脱ぐ。謝る隆之介に、紫野は小さく首を振った。シックな黒いワンピースが、白い肌によく似合っている。
「こちらこそ、年度末の忙しい時期に、無理に誘っちゃってごめんなさい。私は、今、ニートみたいなものだからね。時間は有り余ってるの」
「卒業旅行、行けばよかったのに。友だちに誘われてたんじゃないの?」
「まあ、いろいろ片付けとかあったし……」
そうこうしているうちに、白ワインのボトルが運ばれてきた。紫野は家ではめったに飲まないが、実は結構な酒豪であるらしい。トクトクトクと、心地よい音を立てて、ワインがグラスに注がれていく。面子が揃い、杯が満ち、ディナーの準備が整った。腹は充分に空いていた。
「それに今日、お兄さんと話したかったから」
その言葉の意味を、隆之介はわかっていた。だが今はあえて触れずに、笑顔でグラスを持ちあげる。
「じゃあ……紫野ちゃんの大学卒業に、乾杯」
ふたつのグラスが、チン、と冷たい音を立てた。
「このレバーペースト、ワインによく合う。チーズも美味しいなあ」
「そうでしょう。私も来るのは今日で2回目なんだけど。一度お兄さんを連れて来たいと思っていたから、よかった」
「紫野ちゃんが気に入る理由、よくわかるな。美味しいし、雰囲気もいいし、なにより……適正価格だ」
「そう、適正価格。良い言葉だわ」
ニヤリと口角を上げて、紫野がワイングラスに口をつける。なかなかいいペースだ。15歳の彼女を引き取ったのがつい最近のことのように思い出されるのに、こうして酒を酌み交わせるようになるとは。自分も年をとるわけだ。いつまでも若造のような気持ちでいたが、隆之介ももう30歳。立派な三十路のサラリーマンになっていた。
それにしても、兄妹ふたりで改まって外食することなど、あまりなかった。最初の頃は、紫野の誕生日やクリスマスは出かけていたものだが、紫野が大学生になった頃から途切れてしまっている。家ではときどき朝食や夕食を一緒に摂っているとはいえ、互いに忙しく、その機会も減っていた。こと紫野から外食に誘うとなると、はじめてのことかもしれない。隆之介はこの状況を少し新鮮に、そして同時に、奇妙に感じる。
(周りからは、どう見えるだろう)
もしここにいるお客にアンケートを取ったら、兄妹より、他人に見えるという答えが多いんじゃないかという気がした。黒髪で、涼やかな顔立ちの紫野と、色素が薄く、やわらかい雰囲気の隆之介はあまり似ていなかった。
当然だ。兄妹といえど、血のつながりはないのだから。いや、法律上のつながりすらない。本当は、ここにもうひとりいるはずだった。紫野と隆之介をつなぐ女性が。7年前、忽然と姿を消したあの人が。
「でもお兄さんとこうやって食事してるなんて、不思議な気分。初対面のときは、あんなにぎこちなかったのにね」
ふいに紫野が言った。思わずギクリとする。ふたりして、同じことを考えていたのか。紫野が目を細めながら、窓の外を見やる。つられて隆之介も外を見た。春の宵にふさわしく、少し湿ったなまぬるい風が、夜の街をゆらしている。ビーグル犬を散歩させる中年女性や、紫野と同い年くらいの大学生のグループが、目の前の道を行きかっていた。
そのとき、ゆるいパーマをかけた小柄な女性が通り過ぎた。似た姿を知っている気がして、一瞬隆之介の動きが止まる。まさか、彼女のわけがない。同じような背格好の女性を見るたび、心臓がトビウオのように跳ね、すがるような目で追い、そして自嘲気味に落胆する――。7年間、ずっとこれを繰り返してきた。結果はわかっているのに、それでも彼の目は、彼女を探すのを止められない。隆之介の一連の動きを見て、目の前の紫野が口元をきゅっと結んだことにも、気付かないほどに。
さざめく店内の音が、急速に小さくなっていく。当時の記憶に吸い込まれる。セーラー服姿の紫野。駆け出し社会人だった隆之介。紫野がかつて住んでいた下町の、アパートの近くにあるファミリーレストランで、彼らは向かい合っていた。中学生の割に物静かで大人っぽい紫野は、警戒するような目つきでこちらを見ていた。隆之介はというと、8つも年下の女の子と何をしゃべっていいのかわからず、マンガやヒット曲の話を、むりやりねじり出そうとして、暖房が効いていたにも関わらず、背中に汗をかいていた。そして、切羽詰まった彼は思わず、こう叫んだのだ。
「お姉さんを、僕にください!」
いっそう怪訝な顔をする紫野の横で、何それ、新しすぎる、と大笑いしたのが三崎遼子だった。23歳で、昼間は工場の事務員で、夜は場末のホステスで、紫野の唯一の肉親で、隆之介の婚約者だった。
その遼子が入籍直前に失踪してから、今日でちょうど7年だった。