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春告げの魔法

作者: 如月このは

 吹き抜けた冷たい風の中に、淡くやわい生命の気配。かすかな春を感じて、木の葉の陰からひとりの妖精が飛び立った。

 小さな身体の背にある羽根は、極上の糸で織ったように輝きを帯びて透き通り、葉脈にも似た虹色の紋様が刻まれている。自在に風を掴む美しき羽根はシルフの証で、彼女の自慢だった。

 

 スノードロップの花びらで作られたドレスの裾を揺らし、妖精はとある家へとたどり着く。普段は木々に隠され、目くらましの魔法に守られている。

 窓ガラスをすり抜けた先、暖炉で暖められた部屋でたくさんのクッションと毛布に包まれて少年が眠っていた。

 

「いつまで眠っているの。起きなさい、ヴァイオレット!」

 

 そよ風に揺れた鈴のように愛らしい声とはいえ、耳元で怒鳴られては少年も目を覚まさずにはいられなかった。

 ゆっくりとまばたきを繰り返す、その名の通りのスミレ色の瞳。残雪を思わせる銀の髪はふわふわと乱れている。

 上体を起こした彼が差し出した手の上に、シルフは降り立つ。

 

「おはよ、セフィア。時間なんだね、ふあ……」

「そうよ、もう冬が終わるわ」

「んぅ……、まだ寝てたい。眠い……」

「駄目よ。貴方が喚ばなきゃ、春が来ないじゃない」

 

 眠気にとろけていても神秘的な、スミレの紋様が浮かぶアメジストの瞳は、彼が特別な存在であることを物語っている。

 ヴァイオレットは春告げの魔法使いだ。冬の間に眠って力を蓄え、雪解けと共に力を解放し春を喚ぶ。春告げの魔法は彼だけが使える魔法にして、特別な力だった。

 

 風を操り、セフィアは毛布もクッションも吹き飛ばす。部屋の中は色を撒き散らしたようになった。

 

「セフィアの言う通りですよ、ヴァイオレットさま。さあ、ご準備を」

 

 と、ドアを開けて入ってきた女性がうながす。

 白を基調としたエプロンドレスを纏う彼女もまた、シルキーという妖精だ。家に憑く妖精である彼女は、ヴァイオレットとの契約で彼の面倒から屋敷の管理までをこなす。今も、セフィアが散らかした室内を手際よく片付ける。

 

「んん、わかったよ……」

 

 ふわふわとした夢心地のまま、ヴァイオレットはベッドから降りた。彼がパチンと指を鳴らせば一瞬で着替えは終わる。

 あくびをする彼のまわりを、セフィアがくるくる飛びながら小言を言う。片付けを終えたシルキーは、魔法使いの前で次の指示を待つ。

 

「フラン、頼んでたものは出来てる?」

「帽子とローブですね。いずれもこちらに」

「今年のも綺麗ね。良い魔法の香りがするわ」

 

 ヴァイオレットの背後に回り、フランが紺のローブを羽織らせた。かすかに細かな銀が散るシンプルなデザインに、金糸の刺繍が映える。


「春の夜を織り出した生地に、刺繍には日だまりから紡いだ糸を用いております。帽子も同じです」

 

 説明しつつ正面に戻って襟を整え、ローブと揃いの三角の帽子も被せる。帽子の広いつばにも刺繍が施されていた。

 

「よく似合ってるわ、ヴァイオレット」

「当然です、わたしが仕上げたのですから」

 

 されるがままのヴァイオレットをよそに、妖精たちは楽しげだ。セフィアは周囲を飛び回り、フランは全身を眺めて満足げな微笑みを浮かべる。

 

 春告げの魔法を行使する時には、いくつか特別な装飾品が必要になる。昨年もたらした春を素材に、毎年新しく仕立てるのだ。そうすることで、前回よりも良い春を喚べるという。

 フランに任せている刺繍のモチーフ一つ一つにも、全て意味と術式が縫い込まれている。シルキーはこうした家事を手伝ってくれる妖精でもある。

 

「ねえフラン、杖はどこに仕舞ったっけ」

 

 最も重要な杖を探して、ヴァイオレットは視線をさまよわせる。彼が目覚める時が春が来る時だ。すぐに魔法を使えるよう、準備は済ませてあるはずだった。

 

「内緒です」

 

 どうやら、フランがどこかに隠したらしい。妖精はいたずら好きなものである。ほとんど本能のようなもので、セフィアもフランもこうした他愛ないいたずらをよくする。

 それを知っているヴァイオレットも怒ったりはしない。まだ少し緩慢な動作で部屋中を見回し、わかりやすく隠してあった杖をとる。

 

 魔法使いの伝統を踏まえ、枝で作られた愛用の杖はヴァイオレットの手にしっくりと馴染む。

 上部で浮く大きな紫の結晶が印象的な杖は、翼が結晶を守るような意匠になっている。結晶は魔力の集束、瞳と同じ色は魔法の制御に役立つ。

 

「こちらはわたしから。外はまだ、寒いですから」

 

 フランがヴァイオレットにふんわりと巻きつけたのは、新緑の色をしたマフラーだった。緑の中のところどころに、春の花の色彩が散っていて、触れるとほんのり暖かい。

 

「これは……。春風で作ってくれたんだね」

「はい。春の野を駆け抜けて染まった風の毛糸を使いました」

「ありがとね、フラン。じゃあ、行ってくるから留守はよろしく」

「成功をお祈りしております。いってらっしゃいませ、ヴァイオレットさま」

 

 深々と頭を下げるフランに見送られ、ヴァイオレットは杖を構える。

 

「本番前に試しておかなくちゃね。……風を纏いし者。我が身を風とし、約定の地へと導け」

「任せてちょうだい。さあ、飛ぶわよ!」

 

 瞬間、ヴァイオレットとセフィアの姿は風に変わった。巻き起こった風は部屋を再び荒らして、外へと飛び立っていく。暖かくも激しい、春の嵐そのものだ。魔法使いはこうして妖精の力を借りることで、強力な魔法を行使できる。

 

 ヴァイオレットたちの風はあっという間に、とある雪原にたどり着いた。ところどころ雪が溶け、地面が覗いている。

 ふわりと降り立ったヴァイオレットの元へ、そこかしこから妖精たちが寄ってきた。この野原に住み着いている小妖精である。

 

「おはよう、春告げの魔法使い」

「やっと春が来るんだね」

「これは、わたしたちからの贈り物」

 

 何人かで花冠を運んでくる。まだ咲いている花も少ないだろうに、ヴァイオレットのために作ったらしい。スミレやパンジーの紫、スノードロップの白の少ない色味がかえって上品だ。

 帽子のつばに、妖精からの祝福が乗っかる。これは彼らからの親愛の証だ。ヴァイオレットの魔法が喚ぶ春を、届ける手伝いをしてもいいと申し出てくれている。

 

 春告げの魔法を行使するための場所を探すヴァイオレットの視線が、あるひとところで止まった。

 

「あそこ、フェアリーリングがあるね」

「ああ。昨日は満月だったから、ピクシーたちが舞踏会を開いたのよ。この辺りの小妖精たちはみんな集まってたわね」

「ちょうど良いから、使わせてもらおうかな」

 

 フェアリーリングは、妖精たちが輪になって踊った痕跡だ。人がその中に立ち入れば、妖精の世界に連れ去られてしまうという。

 魔法使いの瞳には、ひそやかにうねる妖精の魔力と残存する月の魔力が映る。利用すれば、妖精たちと協力して魔法を使うヴァイオレットの助けになるだろう。

 

「謡い、踊れ、妖精の輪。月の魔力をなぞり、顕現せよ春告げの陣!」

 

 呪文を唱えたヴァイオレットが、杖をフェアリーリングの中心に突き立てると、複雑な紋様を描く魔法陣が現れた。陽炎のように揺らぐ、スミレ色の魔力が溢れ出す。

 杖でそれを絡めとり、ヴァイオレットは魔力の渦を作る。ローブの裾が魔力に反応して宙を踊り、金の刺繍が輝きだした。

 

「みんな、手伝ってくれる?」

「協力には対価を」

「申し出は拒まないけれど」

「引き換えに何をくれる?」

 

 ヴァイオレットの周囲でくるくると舞い、代わる代わる小妖精たちは囁きかける。妖精との関わりは取り引きが基本だ。彼らの力を借りる引き換えに、ヴァイオレットも春を喚ぶのだ。

 野原の小妖精たちの力は小さいが、必要なのはそれぞれの要素。ここに咲く花や息づく植物、降り注ぐ太陽や月の光などあらゆるものが姿をとったのが彼らだ。

 

「フランの作ったクッキー。好きでしょ?」

「甘いお菓子!」

「ハーブとスパイスのクッキー!」

 

 小さな妖精たちは、はしゃいで歓声をあげる。ヴァイオレットの目の前を横切るたび、きらきらと軌跡が残る。

 

「取り引き成立だね。さあ、始めるよ」

 

 魔法使いが杖を一振りすると、渦巻く魔力に色とりどりの光が混じる。ヴァイオレットの合図で、セフィアがそれを風に変える。

 すると、野原の小妖精たちとはまた違う妖精がヴァイオレットの肩に止まる。セフィアと同じシルフである。

 

「いい風ですわね、ヴァイオレット。わたくしたちにくださる?」

 

 彼女は渡りのシルフたちの長だ。風に乗って、季節の移ろいと共に各地を巡る。

 

「いいよ。君たちがこの春を運んでくれるのなら」

「引き受けましょう」

 

 そろそろ渡りの時期で風を必要としている彼女らと、春を届けるべきヴァイオレットとは利益が一致するため、協力関係にある。

 

「春告げの魔法使いの名といにしえの盟約において、春を散らせ!」

 

 ヴァイオレットが最後の呪文を唱え終わると、ぶわりと強い風が巻きおこる。シルフの風は春と共に、遥か遠くまで飛んでいく。春一番だ。

 ほんのり暖かい風が吹いた後には、かすかな光がふわふわと舞い降りる。残雪は溶け、その下から新緑が芽吹く。早咲きのものだけではなく、じきに色とりどりの花が咲くだろう。

 

「春が来たわね」

 

 ヴァイオレットの肩に座り、セフィアが嬉しそうに足を揺らす。

 

「うん。これで気持ちよく眠れそう」

「もう、貴方って人は。そればっかりなんだから」

「春ほど気持ちよく眠れる季節はないよ。だから僕は春が好きなんだ」

 

 柔らかな陽光にアメジストの瞳を煌めかせながら、ヴァイオレットは呟いた。そこへ先ほどまで魔法の光と戯れていた小妖精たちが、勢いよく集まってくる。

 

「その前にぼくらにお礼!」

「交換したんだから、早くお菓子ちょうだい!」

「わかったよ。さあ、帰ろうか」

 

 春一番を追って風が吹く。ヴァイオレットは杖を振り、それに春の祈りと妖精の祝福を込めた。真白だった季節を、きっと鮮やかに彩るだろう。

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― 新着の感想 ―
[良い点] いろいろな風が出てきて面白いです。 特に「風をつかむ」ところが自由自在を強調しているようで気に入っています。 結びの言葉がキラキラと彩るようで良いですね。 [一言] お茶目なフランの物語も…
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