11
私は自宅へと戻ると、侍女が迎える前に母親のジューリアがやってきた。
「おかえりなさい、愛しいリース」
ぎゅっとジューリアが私を抱きしめる。
薔薇の香水の強い香りが、立ち込めた。リースは、思わず息を止めたくなったが、にこやかに母親に挨拶する。
「ただいま戻りました」
「変な噂を聞いたのよぉ」ジューリアは私の肩にそっと手を置いて言う。そして、私の顔を見て、震えた子鹿を慰めるような目で言った。
「噂?」
私が言うと、ジューリアは、ふくみを持たせた笑みをする。
「貴女が聖水に身投げしたって。貴族達の話では噂になっているわ。一体、どういうことかしら?」
私はハッとする。ここまで噂が来てしまうのかと思った。でも、貴族社会では噂話は付き物。十八の小娘がした単なる事でも、次期王太子殿下の婚約者ともなれば、貴族達も黙ってはいない。噂はすぐに広まっていたようだ。
どうしよう……どう伝えれば…………
私は返事に困っていると、ジューリアが言った。
「貴女の事だから、ダナ王子の気を引きたかったのね」
「えっ! あ、うん!!」
私は必死にそうそう、と肯定する。
「でも、少しやり過ぎよ、貴女。もう少しやんわりと気を引かなくちゃね」
ジューリアは肩をポンと優しく叩く。
私ははホッとする。母親ジューリアが、上級貴族と結婚する事が、女の本当の幸せと考える人で安心した。お父様がこの事を知ったら、どんな処罰を与えるだろう。恐ろしくて考えたくもない。
私は部屋へと戻る。
「リースお嬢様、聖水に身投げしたっていうのは本当ですか?お身体は大丈夫ですか?」
ロゼッタは確認してくる。母親ジューリアとの先ほどのやりとりを聞いて驚いたのだろう。
家族の誰よりも心配してくれている。信頼できる相手……。
「大丈夫よ。でも……本当は身投げじゃないのよ」
「どういう事ですか?」
私はロゼッタに、気がつくと水の中にいたこと、記憶がないことを話した。ロゼッタは、ひとつひとつの話にまぁっ!とかそうでしたの……と反応する。
「大変な事態になっていたのですね」
今日は珈琲を用意してくれた。
コーヒーセットがサイドテーブルに置かれる。
「ダナ王子はさぞかし心配なされたことでしょう」
「いいえ、それが全く違うのよ。私が演技で気を引くためにやったと思っているわ」
気を引くどころか、彼はフィオレと仲睦まじいのよ、と私は呟く。本来なら主人公と相手役だから当然の形なのだが、話の当事者になってしまったらそうも言えない。自分の保身に必死になる。だけど、私にはどう切り抜ければいいのかわからなかった。恋愛など中学生のむず痒いもので終わっている。ましてや、社会人になってからは干物化が進んでいた。部屋でスウェット着ながら、酸っぱいするめとビール飲みながら、ダナ様を愛でている私に一体何ができると言うのだろう? どうして私の性格は、キラキラ女子じゃないのかしらと思った。会社でつまらない親父ギャグに乾いた笑いを提供する干物じゃなくて、恋愛上級者だったら…………ダナ様の心を取り戻せるのに。
「ダナ様に話されましたか?」
「言ったわ。でも、信じてもらえなかったの。今までの報いかしら……」
私は座って、珈琲をひと口飲んだ。ロゼッタは、小さなお菓子をお皿に置きながら、
「どうにか上手くいきませんかね……」と言った。
「婚約破棄……」私はポツリと言う。
「リース様! そのような事は心配しない方がいいかと思います」
「あっ……えぇ、わかっているわ」
「私はリース様のために出来ることは身のまわりのお世話くらいですが、リース様にはフィオレ様にはない良さがあるはずです。リース様の気品と美しさは誰にも真似できませんよ!」ロゼッタは、ねっ!と言った。
部屋に置いてあった姿見に近づいて、自分の姿を見る。
整った顔に溶けそうなミルクティーヘアにピンクの目。長い手足と恵まれた体系を見つめる。この見た目なら、何でも手に入りそうなのにな……。
フィオレみたいな清楚な雰囲気じゃなくて、全体的に華やかだけど。美人じゃん、私。なのに、全然上手くいかないんだもんなぁ…………
私はわかりやすーく大きなため息をついた。