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昼食後、私はカイルのすすめで、神官様の元へと向かった。
カメリア学園の東棟には、あの聖水ラクアティアレントの噴水がある。奥には、神官様が働く場所があり、中では貴族や庶民が使用する薬剤の浄化をしたり、お守りを作ったり、この王国の書物の管理をしている。
東棟は神聖な場所とされているので、あまり生徒の立ち入りを良しとしていない。奥にある内官部という所にいるからか、神官様もこの場所はあまり通らない。昨日、ここにリースが飛び込んだとしたら、どのようにして飛び込んだのだろう?私は噴水をじっと見ていた。
「リース嬢」
私は声をかけられたので、振り向く。
上からざっくりとかぶれそうな、ポンチョのような形をした真っ白な式服に、白く細長い帽子をかぶった神官がいた。
「どうぞ、こちらに」
案内されるがまま、私はついて行く。
そして、書物がたくさん敷き詰められている部屋に通された。学園の高い天井まで、届きそうだ。
「カイル様より、学長を通じて、リース嬢をちゃんと診てやるようにとのお申し付けがありまして」
「えぇ」
昨日伝えてくれていたんだわ。と私は思った。
「お身体やお気持ちに変化はございませんか?」
神官様は確認する。障りがあれば、何かしら変化があるかもしれないからということなのかも。
「特には身体はないのです。でも…………」
私はこれまで自分にあったことを、神官様に話した。自分は三十代の事務員で、オタクで、きせきみの乙女ゲームが大好きなこと。そしてオタク仲間の友人にお願いされ、聖地巡礼で旅館に行ったこと。温泉に入ったら、転んで浴槽で溺れたことーーーーーーーー信じてくれるか微妙だったが、神官様は目を逸らさず、時折不思議な表情もしたが、私が話す度に、えぇ、と繰り返す様に、聞いてくれた。
「……では、結論から申し上げますと、貴女はリース嬢ではなく、人格としては玲那嬢だと?」
一通り話し終えると、神官様は言った。
「…………信じて下さるのですか?!」
普通に話を取りあってくれた事に私は驚く。
さすがこの国で神事を取り仕切っている方だと思った。
「だいたい百年、二百年に一度の少なさではありますが…………稀に次元の違う者が迷い込む事があると、書物にはいくつか書かれた物があるのです」
「そうなんですか」
私は目を瞬きせずに、神官様を見つめる。神官様は紙を持つ。紙にはリース……と書いてあった。
百年二百年に一度ということは、私はその一人ということなのね。
「……………どうしてこちらの世界に来たのか……これは私の仮説ですが、いくつか考えられることがあります。
ひとつめは、次元の違う世界に住んでいた貴女が、温泉で溺れた時に亡くなってしまい、何かのはずみで、リース嬢の身体に転移してしまっているという説。
もうひとつは、貴女が前世として生きていた記憶を、リース嬢が聖水に飛び込んだ事により、目覚めてしまった説。
貴女自身がリース嬢の一部で、聖水に飛び込んだ事により、心が二つに分裂してしまった説。
そして、リース嬢と貴女が入れ替わってしまったという説。……………色々考えられます。
後者の二つの可能性は、玲那様の話からすると、少し違うのかもしれません。考えられるのは、…………転移か転生したか、どちらかが濃厚でしょう」
転移か転生か……そんなことがあるのか…………。もし、転移か転生だとしても、温泉に浸かっていた私は、恐らく生きていない可能性が高いってことかしら。もし、生きていたとしたら、ーーーーーーーー今私の中はどうなっているの?
「私と言う存在がラクアティアレントにリースが溺れてしまった事で、目覚めてしまったか、リースに憑依している…………。どちらにしても、私には昨日とそれ以前の記憶がありません! 学園に来たら、記憶喪失とか自作自演で済まされているし……あんまりです」
「そうですよね。リース嬢の以前……玲那嬢が温泉で亡くなったとしても、どの程度の時間経過でリース嬢になっているかわからないですからね…………」
神官様は言う。はぁ……思ったよりも、事は大ごとだわ。
「私がどんな理由でここに来たのかは、神官様でもわからないですか?」
「申し訳ありません。残念ですが、それは、私にもわからないのです。異世界から来た者を受け皿はあっても、その理由は神や貴女のような呼ばれた者の運命が決めたことなのです」
「…………そうですか。もし、ここに来る前の私が、まだ生きていたとしたら、私はいつ元に戻れるでしょうか?」
「申し上げにくいのですが……。おそらく……………この場合は、貴女がリース嬢として生きていくしか方法はないかと思います」
神官様は辛そうな顔で言う。
「私が……………このまま、リース・ベイビーブレス・ティルトとして生きるってこと?」
須藤玲那としてではなく、リースとして生きる……。きせきみの世界で、悪役令嬢として生きるしか方法がないってこと?!
嘘ーっ?!
「えぇ。これは私達神官のあくまで見解でしかありませんが……………次元を越えて、この世界にやってきた者が、元の世界や自然な形におさまるには…一度、こちらで暮らしているリース嬢として生きて、リース嬢、もしくは玲那様が望むものをこの世界で手に入れることが必要かと思います」
神官様はゆっくりと言う。
「転生されたのか、転移されたのか…それ以外か……私には判断することは難しいですが、……どちらにせよ、今貴女方は何かが繋がっているのです。求めるものが手に入ったとき、繋がりは解かれ、元に戻る可能性があります。……私には過去の文献を読む限りでは、これくらいしか言うことはできないのですが…………」
「望むもの……」
「思い当たることはありますか?」
「いえ、私にはわかりません…………」
侯爵令嬢のリースが望むもの……。美貌にもお金にも環境にも恵まれている彼女が望むものなんてあるのだろうか? ダナ様の心? だとしたら、それは破滅への結末に向かっている。ーーーーーールートはそういう風にできているのだから。
「どうなされました?」
私が考え混んでいると神官様が伺う。
神妙な面持ちをしていたのだろう。
「いえ。このままリース嬢として、私がしばらく生きることはわかりました。しかし、気になることがあるんです」
「なんでしょう?」
「不思議なんです。昨日から、私自身に時々不思議な映像が見えるんです」
あの映像や声は……リースではないかと思う。転移だったら、記憶は見えないよね? だとしたら、やっぱり私はリースの前世?
「あれは、リースの記憶なのかなと思うんです。異世界から来た私に、どうして時折そのような映像が見えるのでしょうか…………」
ふうむ、と神官様は顎に手を当てて考えた。
「ラクアティアレントの力かもしれません」
ラクアティアレント? の力?
私は神官様を見つめる。
「力…………」
「こちらに来てご存知の通りかと思いますが、あの水には強い魔力があります。断定はできかねますが、恐らくラクアティアレントの力が呼び起こしていることなのかと思います」
「そうですか…………」
私は呟いた。
「私にはこれくらいのことしかできず申し訳ありません」と神官様は言った。
「いえ、ありがとうございます。……でも、リースは本当に飛び込もうとしていたのでしょうか」
「うむ…………それはわかりませんね」
リースがラクアティアレントに本当に身投げをしたなら、自殺しようとしていたのか。本当にダナ様の気を引くためにしたのか。いくらリースでも考えられない。彼女は悪役令嬢だけれど、けして無知ではないし、ラクアティアレントのこともわかっていると思うし…………。もしリースなら、もっと着飾ったりフィオレに近づいて嫌がらせしたりするだろうし。いや、もうやっていたけど。とにかく自殺するようなキャラじゃない。
「…………滅多にしてはいけないことになっていますが、何が起きたのか、魔法で確認してみましょうか」