第十話:魔王の粛清
レッドドラゴン退治から一週間後の休日、フェルマ国立学園のとある一室。
学園長であるルルアナは早朝から書類の処理に追われていた。
徹夜などという作業効率の落ちるようなことこそしていないものの、山のように積み重ねられた書類の束を前にして、ルルアナの顔にはありありと苦労の色がにじみ出ていた。
そんなルルアナには最近、一つの悩みがあった。
言わずもがな、グランのことである。
ネクロマンサーであるアリサの使い魔として日々の生活を送るグランの一挙一動を、ルルアナは常に意識を向けていた。
それこそ神経質とも思えるほどに、だ。
結果として、グランは特に何か問題行動を起こすこともなく平穏な毎日を送っていた。
とはいえ、かつて魔王と恐れられたグランを果たしてこのまま放置していても良いのだろうか、とルルアナは常々考えていた。
なぜなら、魔王の力が学園の生徒たちに向けられないとは限らないのだ。
現にグランは一度、自分のご主人様に突っかかってきたという一人の生徒を大勢が見ている前で返り討ちにしたという。
また次にいつグランの不興を買ってしまう生徒が現れるかと考えると、思わずゾッとする。
その未来は、正直あまり想像したくなかった。
現段階で魔王が蘇ったということを知っている者は数少ない。
グランが眠っていたという墓地を厳重管理していたネクロマンサーならともかく、アリサやジャルベドのような当事者以外には、それこそ王族くらいしか知り得ぬ情報だ。
しかし国王を始めとする王族たちは、魔王が蘇ったというにも拘わらず、基本的に危機感が全く足りていない。
確かに常識的に考えて、魔王という存在がそもそも物語の登場人物の一人という程度の認識しかないのは仕方ないだろう。
だがそれでもルルアナは「せめてもう少し危機感を抱くべきです!」と声を大にして進言したかった。
その間にも、どうやらネクロマンサーたちは魔王としてのグランを利用していくという方針に定まったらしい。
今思えば先日のレッドドラゴン退治も、何かしらの意図があったのだろうとルルアナは推測する。
色々な問題が立て続けに発生する中で、その中心にいる人物がグランであることはもはや疑いようのない事実だった。
やはりグランをどうにかしない以上、事態が収束することはないだろう。
しかしそこまで考えて、ルルアナはグランと初めて対峙した時のことを思い出す。
あの時のグランは別に威圧してきていたわけではない。
ただ一瞬、笑みを消しただけだ。
だが、その一瞬でグランの底知れぬ闇を垣間見たルルアナは、それまでに感じたことがないような死の気配をはっきりと感じた。
「命を惜しんだから、前線を離れて学園長職に就いたはずなんですけどね……」
歴戦の英雄として知られるルルアナにとっては、こんな弱気な発言は他の誰にだって聞かせられない。
しかし学園長として書類の処理に追われながらも色々と心労が多い現状を、一人の時くらいは愚痴りたいと思うのも無理はなかった。
だから部屋の中に人の気配を感じた時、心臓が止まりそうなほど驚いた。
「おっと、これはまた随分と忙しそうだな」
「……グ、グランさん」
突然部屋に現れたグランは、まるで遠慮という言葉を知らないような我が物顔で部屋のソファーに腰を下ろす。
「い、一体いつの間に……」
そんなグランに、ルルアナが呆然と呟く。
声を掛けられるまで、全くその気配に気付くことが出来なかった。
「ん? 俺が今ここにいることが、そんなに不思議か?」
「っ……!?」
グランの言葉に、ルルアナは目を見開く。
確かに、そう言われれば不思議なことではないのかもしれない。
驚くべきことに、これくらいのことならむしろ当然とさえ思えてくる。
それが――魔王なのだ、と。
ルルアナは改めて、その存在の理不尽ぶりを身をもって理解した。
「……今日は学園は休みのはずですが、何か御用でしょうか?」
ルルアナの声は僅かに震えている。
しかしグランはそんなこと気にする様子もなく頷いた。
「実はあんたに教えてもらいたいことがあるんだ」
「わ、私に答えられる範囲でしたら、お答えしますが……」
魔王ともあろう方が一体自分に何を、とは思わなくもない。
しかしだからこそ余計にとんでもないことを聞かれるのではないかとルルアナは緊張しながら言葉を待った。
「アリサに処罰を課してきたネクロマンサーたちのアジトを教えてくれ」
だが、告げられた言葉は意外にも特に驚くようなものではなかった。
とはいえ、ルルアナとしてもそう易々と情報を渡すわけにはいかない。
確かにルルアナは、ネクロマンサーたちのアジトの場所を知っている。
しかしもしここで情報を教えたとして、考え得るそれからのグランの行動は少なくとも褒められるようなものではないはずだ。
それに、ネクロマンサーのアジトの場所だってグランがその気になれば見つけるのは難しくはないだろう。
ネクロマンサーたちに対して何か行動を起こすにしても、その原因の一つになるようなことを学園長であるルルアナが担うわけにはいかなかった。
するとグランもそんなルルアナの考えを悟ったのだろう。
それまで浮かべていた笑みをスッと消した。
「なあ学園長、あんたは誰の味方なんだ?」
答えを間違えば即刻殺されてしまうのではないかという死の気配に、ルルアナの頬を冷や汗が流れる。
しかしその答えは、ルルアナが自分でもびっくりするくらいにすぐに浮かんだ。
「……学園の生徒たちの味方です」
その答えが果たして正しかったのか、ルルアナは気が気でない。
だがグランの反応を見るに、少なくとも即刻殺されるような展開にはならなさそうだとホッとする。
しかしそれも束の間、グランは僅かに目を細めて言う。
「それが本当なら、今俺たちが敵対する意味も理由もないと思わないか?」
「っ……!?」
グランの言葉に、ルルアナは息を呑む。
それは裏を返せば、いつでも敵対する用意は出来ているということに他ならない。
更にたちが悪いことに、捉え方によってはグランの敵対する対象がルルアナ個人ではなく生徒たちにまで向く可能性さえある。
それはルルアナが一番望まない結末だ。
つまり「それが嫌なら早く情報を寄越せ」と言外に言っているのだろう。
グランの言葉が冗談などでは決してないことは、ルルアナが一番よく分かっている。
だからルルアナに残された選択肢は、もはや一つだけだった。
ルルアナは顔を顰めながら、街外れにあるネクロマンサーたちのアジトの場所を教える。
グランはとくにメモを取ることもなく、静かに聞いていた。
「……あの、どうして今なんでしょうか」
詳しい場所まで教え終えたルルアナが、気になっていたことをぽつりと呟く。
その顔は場所を教えてしまったという罪悪感からか、俯けられている。
ルルアナは、これからグランがしようとしていることを何となく察している。
だからこそ、どうしてあの一件から一週間も経ったこのタイミングで事を起こそうとするのか分からなかった。
するとグランは、そんな質問をするルルアナを鼻で笑うと、軽い口調で言う。
「ばーか。むしろ今だから良いんだろ?」
「そ、それはどういう――」
————意味でしょうか、とルルアナが顔をあげた時、既にそこにグランの姿はなかった。
どうやら既に別の場所へ向かってしまったらしい、とルルアナは察する。
緊張感から解放されたルルアナはどっと息を吐く。
因みにその頭の中には、たった一瞬の間にどうやっていなくなったのか、などという疑問は一切ない。
魔王という存在を常識の中にある物差しで推し量ること自体がそもそもの間違いなのだと、ルルアナはこれ以上ないくらいによく理解していた。
◇ ◇
『————!』
今、ネクロマンサーたちの集まる広間には度重なる衝撃音が響き渡っていた。
「しゅ、襲撃です!」
するとそのタイミングで若いネクロマンサーの男が広間に飛び込んでくる。
しかし意外なことにテーブルを囲むネクロマンサーたちはその報告を聞いてもそれほど慌てた様子はない。
何故なら、ネクロマンサーというのは常日頃から敵を作りやすい。
こんな風にアジトを襲撃されるということは頻繁でこそないにせよ、これまでにも少なからずあった。
そしてその度に持ち前のアンデッドを使役して返り討ちにしてきたのだ。
「……この衝撃音、一体何人が攻めてきたのじゃ?」
「そ、それが……」
最年長者であるディルの問いに対して、若いネクロマンサーの男はどういうわけか言い淀む。
しかし他のネクロマンサーたちの無言の圧を受けて、気まずそうに報告する。
「襲撃者は……ひ、一人です」
「なっ!?」
それまで落ち着きを見せていたネクロマンサーたちだったが、さすがにその報告には目を見開く。
どこの世界に、敵のアジトに一人で乗り込むような馬鹿がいるというのか。
もはや自殺志願者と思われても仕方がないレベルだ。
何かの冗談かとも思ったが、報告に来た男の焦りの表情を見る限りでは、どうやら冗談の類ではないらしい。
だとしたら一体誰が……と、ネクロマンサーたちが当然の疑問に行き着いた時――。
「お? ここがボス部屋か?」
突如として、一人の見知らぬ男が現れた。
そしてそれと同時に、今まで報告を務めていた若いネクロマンサーがバタンと音を立てて倒れる。
その身体には大きな風穴があいており、床には男を中心とした血溜まりが広がっていく。
「……っ!?」
突然の事態に、その場にいる全てのネクロマンサーがそれぞれ使い魔を呼び出して臨戦態勢に入る。
「……お前は、何者じゃ」
ネクロマンサーたちを代表して、ディルが低い声で尋ねる。
その目は細められ、油断なく男を射抜いていた。
すると部屋の中の視線を一身に受ける男はわざとらしく肩を竦めたかと思うと、隠したりすることなくあっさりと正体を明かした。
「俺はグラン。お前らが厳重に管理してくれていた墓から蘇った魔王だよ」
「ま、魔王……ッ!?」
誰かが驚愕に声をあげた瞬間、グランに近かったネクロマンサー二人の首が飛んだ。
「ひっ……!?」
あまりに唐突な仲間の死に、ネクロマンサーたちは慌ててグランから距離をとろうと試みる。
しかしその間にも一人、二人と容赦なく命の灯を消されていく。
「ま、待ってくれ! ど、どうして我々を襲うのじゃ!?」
叫んだディルの声で、ようやくその動きを一度止めたグランは面倒くさげに首を傾げる。
「これから死ぬ奴がそんなことを知ったところで何になるんだ?」
そしてまた一人、床に倒れた。
「……くそっ!」
ディルは憎々しげに呟くと、「こうなったら……」と数いる使い魔の中で一番の大物を呼び出す。
それは、先日グランが退治したレッドドラゴンだった。
「お、一週間待ってみたがやっぱり使い魔にしてたか。正直なところ期待半分だったんだが、レッドドラゴンを使い魔にできるってことは意外に優秀なんだな」
「ふんっ、油断したな! 儂のレッドドラゴンさえいれば貴様なぞ――」
ディルの言葉はそこで途絶えた。
レッドドラゴンの首から先がなくなっていることに気が付いたのだ。
今しがたレッドドラゴンを呼び出してからその間、ディルは一瞬たりとて視線を外したりはしていない。
それこそ瞬きすらしていなかった。
それなのに、グランは容易く何かをやってのけたのである。
もちろんその何かを理解できたものは誰もいなかったが、しかしそれがグランの手によるものだということだけは半ば本能的に察することができた。
そしてその瞬間、レッドドラゴンが呼び出されたことによって少なからず勢いを取り戻していたネクロマンサーたちの希望が見事に砕け散った。
「ほんと、興ざめするようなこと言わないでくれないか?」
グランのひどく冷たい声が広間に響き渡る。
「それともお前は馬鹿なのか? そもそも俺が倒したレッドドラゴンなのに、アンデッド化した程度でどうして一瞬でも勝てると思ったんだ?」
「そ、それは……」
確かに、グランの言う通りだった。
ディルはこれまでの長いネクロマンサー歴の中で初めて手にしたレッドドラゴンという大物に、年甲斐もなく興奮していただけに過ぎなかった。
「俺はあくまで最後の悪あがきとして出してきたそれを容赦なく叩き潰す予定だったのに、まさか無謀にも俺に勝つための一手として呼び出すとは……これまた随分と下に見られたものだなぁ?」
不快感を露にするグランの声色に、ディルは無意識のうちに一歩後退った。
そして気付いてしまった。
既に自分以外のネクロマンサーが誰一人として息をしていないということに。
若いながらもネクロマンサーとしての才に溢れるザシュも、ネクロマンサーとしては珍しい剛気な性格の持ち主であるアグも、これまで共にネクロマンサーとして生きてきた仲間が皆、屍となって床に倒れている。
そして今、その屍を超えて、グランが一歩ずつ近付いて来る。
「ま、待ってくれ! い、いや待ってください! な、何か望みがあるなら聞きます! だ、だからどうか命だけは……っ」
圧倒的な恐怖を前に、ディルは情けなくも膝をつき、頭を床に擦りつける。
しかしそれが功を奏したのか、不意にグランの足音が止まる。
「お前に一つ聞きたいことがあるんだが……」
「な、何でもお聞きください!」
この際、殺されずに済むのであれば何でも良かった。
それこそ相手が靴を舐めろというのであれば、ディルは喜んでそうするつもりだった。
「お前はアンデッドが自然発生しないということを知っているか?」
「…………?」
「いや、知らないならそれで良いんだ」
しかし、グランからの質問の意味はディルにはよく分からなかった。
グランもさほど期待していなかったのか、ディルの反応を見て、すぐにそう言う。
だが、これで少なくとも命だけは……というディルの淡い期待は、再び近付いて来るグランの足音によって一瞬で消え失せる。
「い、命だけは勘弁してくれるんじゃないのかっ!?」
「俺は一言でもそんなことを言ったつもりはないんだが」
何を言ってるんだこいつは? という視線で見下してくるグランに、ディルは小さく悲鳴をあげると後退る。
しかし無情にもディルの背中には冷たい壁の感触が伝わってきた。
「だ、誰か! 誰かいないのか!?」
迫りくる死に、ディルは大声で叫ぶ。
広間のネクロマンサーたちは自分以外には死んでしまったが、外にならまだネクロマンサーたちが残っているはず。
ディルは藁にも縋る思いで、彼らを呼ばずにはいられなかった。
しかしいくら待っても、広間に誰かが来る気配はない。
まさか……と思い、ディルは恐る恐るグランに視線を向ける。
するとグランはどこか自嘲ぎみに肩を竦めながら言う。
「外には新鮮なアンデッドの素材がたくさん転がってるぞ?」
「っ……!」
その言葉の意味するところを理解したディルは愕然とした。
「ど、どうして、我々に手を出すのじゃ! お前を蘇らせたのもまたネクロマンサーだというのにッ!」
「……まあ強いて言えば、誰だって降りかかる火の粉は払いたくなるもんだろ? それに、なまじ知識がある奴っていうのはかえって面倒なんだよ」
「そ、そんな理由で……っ」
冥途の土産だとばかりに告げるグランに、ディルは拳を震わせる。
「こんな……! こんなことが許されていいはずがないッ!」
ディルの怒りに震える声を、グランは鼻で笑う。
「お前は一つ勘違いをしている。俺は自己犠牲の精神を持った善人じゃなければ、誰かに裁かれるような悪人でもない。だから、慈悲だとか罪悪感なんてものは初めから存在しないんだよ。何たって俺は――」
————魔王だからな。
初めてその口の端を吊り上げるグランに、ディルはようやく自分の死を悟る。
「……化け物が」
グランを睨みながら、ディルは憎々しげに呟く。
対するグランはというと、その笑みを消して、まるで糞虫を見るかのごとくディルを見下ろしている。
「ほんと、興ざめだわ」
それが、ディルが耳にした最期の言葉だった。
「……はぁ。面倒なことはやるもんじゃないな」
広間でたった一人佇むグランは、周りに転がる死体の数々を見ながらうんざりしたように呟く。
「ネクロマンサーが見たら発狂して喜びそうな有様ではあるんだが……」
僅かばかり、その可能性も考慮したグランだったが、すぐに首を振る。
「俺の後輩にするには、ちょっと汗臭いな」
そう呟くグランがパチンと指を鳴らすと、辺りが一瞬にして炎の海と化す。
それを見届けたグランがその場を後にしてからしばらくの間、肉の焦げるような嫌なにおいが壁の窓から抜け出していた。