粉挽きの娘と軍靴を履いた忠犬
昔々、あるところに年老いた粉挽きがおりました。粉挽きには三人の子があり、一番目の兄さんはおかみさんをもらって父親の仕事を手伝っておりました。二番目の兄さんは別の町でパンを焼く職人として働いておりました。年の離れた小さい妹は大きい兄さんを手伝って仲良く暮らしておりました。
しかし、ある年の冬のこと、父親の粉挽きは重い病気にかかってしまいました。冬中ずっとベッドで過ごしましたが、良くなりません。とうとう最後のときが訪れそうになり、おかみさんは妹をやって神父さまを呼んでこさせることにしました。
父親の粉挽きは三人の兄妹にそれぞれ、粉挽き小屋と、ロバと、犬を残すと言い残し眠りにつきました。神父さまは苦しげな息の父親に終油の秘蹟を施し、兄妹にお別れを言わせたのです。小さい兄さんだけは父親の最期に間に合いませんでした。
これからは父親なしにやっていかなくてはなりません。大きい兄さんはこのまま仕事を続けることになりました。小さい兄さんはロバをもらいましたが、ロバは粉挽きの仕事に必要ですし、それにパン工房に連れて帰ってもどうしようもありません。小さい兄さんは代わりにお金をもらって町に戻りました。
妹には犬が残されるはずでしたが、粉挽き小屋には猫はいても犬はいません。大きい兄さんは妹にもなにかやろうと言いましたが、出ていくお金が惜しいおかみさんは、うんと言いませんでした。それどころか、妹を追い出せば余計な食い扶持を払わずに済むと思ったのです。おかみさんは妹に言いました。
「春の祭が来たら、ここを出ていってもらうよ。自分で花でも売って暮らすんだね」
妹は困って泣き出してしまいました。大きい兄さんは妹を不憫に思い、背中を撫でて言いました。
「誰か旦那さんになってくれる男を探してみよう。きっと面倒をみてくれる人が見つかるよ」
しかし、この村には妹よりもうんと年寄りの男しかいないのでした。ですので、レアという名前のこの妹は、小さい兄さんを頼って町に行くことに決めたのです。
★ ☆ ★ ☆ ★
暖かい春が来て、とうとうレアが村を去る日がやってきました。見送りに来てくれるひとは誰もありませんでした。荷物はレアの持ち物をすべて集めても包みひとつにしかなりません。小さい兄さんのいる遠くの町までは歩いて行かねばならなかったので、それで良かったのだと彼女は自分に言い聞かせました。
途中で何度も休みながら道を進みます。とある場所に泉がありましたので、レアはそこで水を使って体を綺麗にすることにしました。
ところが、よい気分で水浴びをして戻ろうとすると、荷物も服もなくなっていました。誰かが持っていってしまったのでしょう。このままではレアは裸のまま、途方にくれるしかありません。
泉の水が涙でしょっぱくなるのではないかと思われる頃、誰かがやって来ました。それは粗末な格好をした荒々しい男たちでした。山賊たちはレアの脱いだ服を持っています。中の一人が叫びました。
「ほら、言った通り、本当に女の子がいただろう?」
どうやら彼らはレアをどこかへ連れて行くつもりのようです。しかし、下卑た笑いを貼りつかせた悪者の手が触れるより先に、まるで風のように現れた黒い影が男たちを薙ぎ倒します。二人がその場に倒れ込み、残りの男たちはみな、散り散りに逃げていってしまいました。
「大丈夫か?」
黒い影がレアの方に振り向きます。鉄の被り物のせいで顔は見えませんが、低い声で男の人だとわかりました。驚いたことには、その被り物は犬の頭の形をしていたのです。
犬の人は手拭いと落ちていたレアの服を渡してくれました。レアが身支度を整えるのと、犬の人が山賊をふん縛るのとは、どちらが早かったとも言えません。ちょうどそのとき、道の方から別の男の人が現れました。その人は立派な服を着た貴族さまでした。
「カラバ侯爵、どうやらこの近辺には賊がはびこっているようでございます。二人捕らえましたが、残りを逃がしてしまいました。どこを根城にしているか聞き出しましょう」
「ふむ。もしや、我々の目指す城にいるやもしれん。そうなると厄介であるな。して、この娘さんはかような場所に一人でどうしたことかな?」
カラバ侯爵と犬の人と、その両方から目を向けられたレアは、恥ずかしがりながらもスカートの裾をつまんで礼をしました。
「カラバ侯爵さま、おめもじかないまして光栄にございます。わたくしはこの先の村の粉挽きの娘でございます。父が亡くなり、住むところがなくなってしまったので、町でパン焼きをしている兄のところへ参る途中だったのでございます。
山賊に襲われて困っていたところを、こちらの軍人さんに助けていただきました。彼がカラバ侯爵さまの軍人さんでいらっしゃいましたら、ご配慮、誠にありがたく存じます。深く感謝を申し上げます」
レアは父親の粉挽きが偉いお役人や貴族さまにお声掛けしていただいているのを見て育ったので、なんとか見よう見まねでそつのない言葉を並べることができました。レアの利発な様子にカラバ侯爵も嬉しそうに頷きました。
「これはこれは、立派な挨拶をする賢い娘さんであることだ。礼には及ばないよ、彼は私の部下ではなく、この近くにあるはずの私の城まで道案内を買って出てくれた若者だ。彼もこの先の村に用があるらしい。そうだね、アドン」
今まで脇に控えていた犬頭の軍人アドンは、カラバ侯爵の言葉に応えるように一歩前に踏み出すと、レアに向かって話しかけた。
「粉挽きの娘というと、もしや君がレアなのだろうか?」
アドンはずいぶん昔に命を救ってくれた恩人からの手紙を受けてここまでやってきたのだということでした。話を照らし合わせてみれば、なるほど、その恩人は父親の粉挽きに間違いありません。レアは父親の遺言を聞いておらず、また、兄夫婦も伝えておりませんでしたが、父親の粉挽きは娘のために事前にちゃんと手を打っていたのです。
アドンは自分がレアの親代わりになって、町で一緒に暮らすつもりでいると言いました。レアは驚き、神と父親の粉挽きに感謝の言葉を捧げました。そして、親切なアドンのためになることなら何でもすると誓いました。その様子を見ていたカラバ侯爵は、ひとまずはレアも一緒に自分の城へ来るようにと二人を招きました。
★ ☆ ★ ☆ ★
カラバ侯爵は最近になってこの土地へ封ぜられたので、そのすべてを検分して回っている最中でありました。ここにある城に移り住み、そこで国のために仕事を始めるつもりだったのです。荷物がたくさんあったためお供の人たちはゆっくりと、カラバ侯爵は馬で先に、休憩場所を目指していたのでした。
さて、やるべきことをすべて終えると、一同そろって城を目指します。アドンが先頭に立ち、侯爵とそのお供が三十人と馬が十頭、驢馬が十頭、牝牛が三頭、鷄が十五羽、犬が二頭、吟遊詩人、料理人、神父さま、それに召し使いも六人、捕まえた山賊二人も。最後にレアが加わって大所帯でドンガラがちゃがちゃ進んでいきます。
しばらくすると、うんと高い森の木々の、そのまた上にお城の塔の先端が見えてきました。カラバ侯爵の新しい城は崖の上に立っていたのです。せっかく目的の場所が見えているというのに、ならされていない獣道を越えて崖の下へ行くのはひと苦労でした。
見上げればレアを十人ほど集めて縦に並べたほどの高さの崖がそびえ立っています。そして、アドンの言った通りに山賊が勝手に住んでおり、レアたちに向かって矢を射掛けてきました。幸いにも誰もひどい怪我をすることはありませんでしたが、カラバ侯爵は望みを絶たれたように嘆きました。
「なんということだろう。我々だけではあの城を取り返すことなどできはしまい。そうなればおしまいだ! 城のない私は領主として認められず、このまま住む場所もなく朽ちていくしかない!」
お供の軍人たちも相談を始めましたが、城を取り返すためにこのまま攻め上るのも、一度みやこへ戻るのも難しいあり様だということがわかっただけでした。カラバ侯爵たちが決死の覚悟を決めて、荷物をまとめようとしていたその時、それまで黙っていたアドンが口を開きました。
「自分一人ならば、城へ上って山賊の頭領を倒せるかもしれません」
その言葉に、カラバ侯爵とそのお供たちは歓声を上げました。アドンは続けて言います。
「これは自分にとって大変な苦痛を伴うのです。それに、無事に戻ってこられるかどうかもわかりません。
カラバ侯爵、どうか、自分が帰ってきてもこられなくても、レアのことを貴方の娘と同じように世話してくださると約束してください。そうすれば自分は、貴方のためにこの命をかけて山賊たちと戦いましょう」
カラバ侯爵は頷き、レアを侯爵の継娘として迎えて大切にすると、アドンに約束しました。レアは驚いて言いました。
「ひとりで行くなんて危険すぎます。わたしのことはどうでもいいのです、命を無駄にするなんて、そんなことはしてはいけません」
アドンは応えて言いました。
「貴方の父親である粉挽きに助けられたあの日から、この恩をいつか返そうと思って生きてきたのだ。今こそ、それを達成できる絶好の機会。どうか止めないでおくれ」
「でも……!」
なおも食い下がるレアにアドンは言いました。
「これを見れば君の考えも変わるだろう。ずっと隠してきた鎧の下の、醜い身体を見れば……」
アドンが兜を外すと、みな一様に息を飲みました。そこに現れたのは、兜のかたちそのままの、犬の顔だったのです。アドンはどんどん鎧を脱いでいきます。篭手も、肩の覆いも、胸甲も、すべてです。身分の低い雇われ人たちからは、嫌悪の呻き声が上がります。手伝わされている召し使いは泣きそうになっていました。
最後に長靴を脱いだとき、アドンの姿は完全に犬の姿になっていました。
艶々と濡れたような真っ黒な毛皮はまるで上等の布地のよう、大きな三角の垂れ耳と尻尾はふさふさで、丸い茶色の目が悲しげにぱちぱちとまばたきを繰り返しています。アドンの正体はとてつもなく大きな犬だったのです。
アドンはひと声低く吠えてから、城の立つ崖へ向けて走り出しました。
「アドン! 待って、アドン!」
レアの叫びが空しく風に消えてゆきました。
それからどれくらい経ったでしょうか。レアはずっと跪いて神さまにアドンの無事を祈っておりました。アドンがどんな姿だろうが、彼はレアのために危険な場所へ赴いたのでした。
カラバ侯爵もレアの側へやってきて、励ますようにその肩を叩くと、同じように祈り始めました。最初は気味悪がっていた者たちも、二人のそんな姿に心を打たれ、共に祈り始めました。
神父さまは言いました。
「アドンは敬虔なる神のしもべです、きっと役割を果たして戻ってくるでしょう」
レアは涙を拭いて神父さまに尋ねました。
「アドンに神さまのご加護があるでしょうか」
「もちろんです。ここまでの旅の中で、アドンがいちばん神に忠実でした」
この言葉に何人かがさっと顔を赤らめました。
「神父さま、それではどうして、アドンはあのように呪われた姿をしているのでしょう?」
「いいえ、アドンは呪われてなどいません。彼は高貴なる者の願いと神の赦しによって人の子としてあったのです。しかし今、彼はその加護のある長靴を脱いでしまいました」
「アドンは、もう、元には戻れないのでしょうか? ずっとあのままなのでしょうか? わたしはアドンになにか報いてさしあげたいのです」
「それは、カラバ侯爵の娘としての願いですか? 高貴なる者が願い、彼がそれを望めば、神はきっとまたお赦しくださるでしょう」
その場にいた全員がカラバ侯爵に目を向けました。カラバ侯爵は頷き、厳かに宣言しました。
「彼女の願いは私の願い、彼の望みは私の望みである」
「ならば、待ちましょう。我々にできることはそれしかありません」
遠くでオォンとひとつ遠吠えが聞こえました。
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やがて、様子を見に行っていた軍人たちが、アドンを担いで戻ってきました。ぐったりしたその体には、何本もの矢が刺さっており、血にまみれていました。彼らの話では、アドンは崖の上から山賊を振り回して落としたり、吠えて追い払ったりして勇敢に戦っていたそうです。すべてが終わり、彼らが城へ上ると、山賊の頭領はアドンに倒されていたということです。
すぐに料理人と召し使いが傷の手当てに移りました。レアが泣きながらアドンの名を呼ぶと、弱々しいながらも返事があります。簡単な手当てを終え、みなはアドンを大きめの板に乗せて城まで運びました。
山賊から城が取り戻されたことで、カラバ侯爵はさっそくこの地を円滑に治めるための準備に移りました。山賊たちを捕らえ、裁きにかけるのです。新しい領主の仕事ぶりを近くの村人たちは褒め称えました。
レアは与えられた部屋でずっとアドンの看病をしておりました。決められた時間ごとに薬湯で傷口を洗い、清潔な包帯に換えました。水を口に含ませてやったり、時々体の向きを変えてやったりしました。栄養のあるスープを作り、飲ませてやりました。常にアドンの側で祈り、すべてに気を配っていたのです。
その甲斐あって、アドンはすぐに元気を取り戻しました。そしてすっかり傷が癒えた頃には夏になっていました。レアはアドンに長靴を差し出して言いました。
「アドン、どうかこれを履いてください。そして、カラバ侯爵の継娘の婿になってはくれませんか?」
カラバ侯爵も神父さまも、優しく二人を見守っていました。それから、アドンとレアは楽しく日々を過ごし、幸せに暮らしました。
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これで粉挽きの娘と長靴を履いた犬のお話はおしまいです。そうそう、欲をかいた粉挽きのおかみさんは侯爵に叱られてえらい目にあいましたとさ。
~おわり~