08
通りすがりの乗客に大丈夫ですかと声をかけられ、ようやく顔をあげる。なんでもないと笑ってやりすごそうとしたそのとき、その人の背の向こうに瑛主くんがひょこっと顔を覗かせた。作り笑いがすっと引いた。
親切な乗客は振り返り、瑛主くんが私の連れとわかると、安心したようにその場を去っていった。
「あーもしかして、探させちゃったかなっ?」
私は急いで立ちあがった。顔はあげられなかった。
「うん」
瑛主くんは真面目に答える。
「心配させやがってこのやろ、とか思った?」
「……少しは」
少しかあ、と私は不満げに口を尖らせる。うつむいた顔をあげられない。姫里、と呼ばれてもあげられなかった。
声を聞いたら気が緩んだ。涙腺が潤んで涙が落ちそう。こういうのってどうしたら収められるんだっけ。目元に手を持っていこうものなら瞬時にばれる。鼻をすすってもばれる。
「姫里。泣かないで」
なんとかしないと焦っていたら、ずばり言われてしまった。
半端に差し出された気遣いの手を払い、私は瑛主くんを睨みつけた。
「もうやだ。やだ。やだ」
見あげた途端、ぼろぼろと涙がこぼれ落ちる。
「面倒な女と思われたくなかったし、勝手に立ち直るつもりだったのに。なんでのこのこ、こーんなところまで探しにくるの」
「心配だったから当然だろ」
「でも少しなんでしょ!」
さっきは認めるのに時間をかけたくせに、今度はあっさり心配だと口にするとか、調子のいい。
かっとなって語気を荒げた私に向かって、振り払われたはずの手が戻ってくる。
「俺『心配させやがってこのやろ』なんてキャラじゃないし。普通に心配してたよ。で、言いたいのはそれだけ?」
「それだけじゃ、ないけど……わかんない」
好きって言えたらどんなにいいだろう。異動して間もないから仕事を覚えるのが先、と瑛主くんは言った。誰のことも相手にしないって意味だと思う。
でも峰岸さんを見たときの瑛主くんは、らしくないほど動揺していた。そんなところを見せられて、冷静でいられるはずがなかった。
「じゃ、触るよ」
「はっ!?」
ぐるぐる考えていたせいで反応が遅れた。私はこちらに来た手にふわりと抱き寄せられた。頭が瑛主くんの肩口に触れる。伺いをたてられたことで無性に腹が立つような、逆に私を慮った優しさともとれるような、複雑な気持ちになりつつも、悪い気はしなかった。
そっと包み込むだけの抱擁だった。私はおとなしくじっとしていた。瑛主くんはなにも言わなかった。
やがて私はいくらか落ち着きを取り戻した。面倒でも、泣いていてもなんでも、この人はこうやっていつも私を気にかけてくれる。困っていたら助けてくれる。
その腕に甘えてじっとしていると、頭のうえでふっと小さく笑うのがわかった。
「席に戻ってこれでも食べよう」
瑛主くんは車内販売のアイスを持っていて、もうだいぶ溶けかかっていた。固くて食べるのに難儀するはずのそれがそんなになるまで私を探してくれたのかと思うと、まだ目元が潤みそうになる。また買ってあげると言った昨日の今日で実行に移すとか、律儀さも笑える。
「瑛主くんもこれから先、カップ入りのちょっといいアイスを食べるたびに『そういや昔、アイスに目がない子がいたなあ。同期で部下だったなあ。それに結構かわいかったなあ』ってしみじみ思ったりするのかな? 人並みに」
「それはないな」
「ひどっ」
瑛主くんの即答ぶりにひっそり傷つく。私は思い出にさえしてもらえないのか。
茶化したのは私のほうで、雑に返されるのはいつものこと。だけど別れても峰岸さんは未だに瑛主くんのなかにミント水で気配を残している……将来、思い出してもらえないだろう私と違って。
圧倒的な差を感じずにはいられなかった。
出張の翌日は、溜まった仕事をやっつけて報告書をまとめただけで終わった。瑛主くんは午前は私と同じデスクワーク、午後は外出だった。
お互い忙しい一日で、目先の仕事が最優先。気まずさも切なさも後回し。こうして私は枯れてくのかな、と半笑いで旅費精算を済ませにいった戻りに見慣れない光景を目にした。
自動販売機のあるフロアで瑛主くんとあきちゃんが立ち話をしていた。瑛主くんの表情は硬く、雑談をしているようには見えない。対するあきちゃんはこちらに背を向けているからどんな様子かわからなかった。
なんの話だったのかあとで聞いてみよう、と職場に帰ると、入り口のところで瑛主くんに追いつかれた。
「昨日出張だったから疲れているだろ。今日はもう帰れば? 一週間は長いよ」
「ですね。帰ります」
顔を合わせていたくないのかな、と一瞬ネガティブなことを考えてしまったけれど、考えてしまうほど思考が悪循環するのならなおさら帰ったほうがいいと思った。
長い一週間を乗り切ろう、体力温存しようというのは瑛主くんにもそのまま当てはまる。自分がそうしたいんだな。がむしゃらに働くタイプじゃないもんな。
そちらもほどほどに、と声をかけて支度を整え、部屋を出る。立ち寄ったトイレにあきちゃんがいた。洗面台でコンタクトレンズを構っていて、そばに立ったのが私とは気づいていない様子。
「お疲れー」
「あ、お疲れさま。もう帰れるの?」
あきちゃんはこれから残業らしい。
「目の調子、悪いの?」
「ううん、これはさっき葉月ちゃんのとこの主任に呼び出されてね。谷口主任の顔を至近距離で見るのが怖かったんで、コンタクト外して会ってきただけ」
「待って、意味わかんない」
さすがに嘘だと思ったけれど、あきちゃんならやりかねない。
「会ったのは本当。会ってるときにコンタクトがズレちゃって」
ですよね。
なんの話だったのか聞かせてもらいたかったけれど、出張土産のお礼を言われたり、出張中の出来事を追及されてそれをトイレでできる雑談レベルに落とし込んでしゃべったりしているうちに聞きそびれてしまった。
のろのろと一階に降りると、社屋の自動ドアのそばで男性社員ふたりと大久保さんが立ち往生していた。
「どうしたの? 変な組み合わせだね」
雨でも降っていて傘を持っていない同士が出るに出られなくなっているというのならわかる。でも雨の降る気配はないし、終業後の待ち合わせにしては顔つきが神妙すぎた。変と言われて誰も反応しないのもおかしい。
「そうだ、姫里なら知ってるかも」
「あの人、谷口主任の知りあいらしいんだけど、約束してなかったらしくてさ」
「あの人?」
助けを求めるように私に食らいつく男性社員に、大久保さんは冷めた視線を流す。
「外で女の人が待っているみたいなんだけどね。この人たち、聞かれるがまま谷口主任が在籍していることを言っちゃったみたいなの。訳ありだったらどうするのよ」
だって、なあ、と男性社員ふたりは顔を見合わせ、背後を気にする素振りをみせる。
「あれだけの美人が親しげに言うから。なあ?」
「で、谷口主任が出てくるまで、俺らもしゃべっちゃった責任上、こうして状況を見守ってるってわけ。あー谷口主任、早く来ないかな。絶対、大久保さんの取り越し苦労だと思うけどな」
「もしかしてその美人って、目がぱっちりしてて色白の、胸を大きくしたアンティークドールみたいな?」
私が聞くと、そうそう、と三人は異口同音に応じた。
「それ! その人!」
「姫里、知ってるのか。ってことは、あの人、谷口主任と本当に知り合いなんだ」
「すごい気になるー。これはもう、谷口主任が来るまで待たなくちゃ!」
「……大久保さん、もう帰りたいって嫌そうに言ってなかった?」
「今日は旦那いないから急ぐ必要ないし。第一、気になるじゃない! ここで帰れないじゃない! あれだけの美人と谷口主任だなんて、どういう関係なのか見届けるしかないよね」
わいわい騒ぎ出す大久保さんたち。同じクラスのカップルを街で見かけてはやしたてる中学生か!
そっと外を伺うと、確かに扉の外にこちらに背を向けて立つほっそりとした女性の姿が見える。間違いなく峰岸ありささんだ。
「なにしてるの」
瑛主くんがやってきて私たちに声をかけた。そのまま帰れる格好だったので、てっきり峰岸さんを門前払いするものと思っていた私は嫌な予感がした。
「外にいる人が気になってしまって、主任が来てくれるのをみんなで待っていたんです。主任はこのあともうお帰りですか」
どこか非難するような口調になってしまったけれど、構っていられなかった。建物のまえで瑛主くんの在籍確認をしたというのなら、会う約束なんてなかったはず。峰岸さんは招かれざる客だ。相手をする必要なんてない。
ところが、だ。
「うん。じゃ、お先です」
瑛主くんはみんなに軽く会釈をして、するりと出ていった。峰岸さんが駆け寄るのが見えた。瑛主くんは峰岸さんを突き放したりはせず、そのまま隣にいさせた。ふたりは駅の方角へ消えていった。
はあー、と誰のものともつかないため息が聞こえた。
「マジかー。あんな美人と」
「雰囲気できあがってたな。言葉もいらない仲なのか」
「ため息しか出ねえ。あんな女とどこで知りあうんだ」
「谷口主任も堂々としていて、私たちに知られても平気そうだったものね。今頃、腕でも組ませてるんじゃないのー?」
「ちくしょう、ここにも組める腕あるのに!」
「腹立つ!」
腹が立つのは私も同じだった。言わずにはいられなかった。
「あの人、二年前に結婚していますよ」
ネットで得た情報だった。お相手は当時四十代後半の貿易会社社長。ついでにいうと峰岸さんは今、三十三才で瑛主くんより年上だ。
なーんだ、と今度は落胆する面々。ただの仕事相手と踏んだようだ。
「あんな美女が、俺らみたいな小さい会社の人間を相手するわけないよな」
「いや、一緒に酒飲むくらいいいんじゃね?」
想像で盛りあがれる彼らがうらやましい。
そして会話の勢いというものはあなどれない。本音がぽろりと漏れることもある。男性社員の片方が、はたとなにか思いついたように私に目を止めた。
「既婚ってことはバツイチ姫のジンクス再来?」
「え、私? なんでそこで私」
「なんでもなにも。姫里が組んでいるの、谷口主任だし。自覚ないの?」
「亭主と別れて谷口主任に行く、ってか?」
「ばか、声がでかいって!」
側頭部をぶん殴られた気分だった。そんな方向、思ってもみなかった。ただこの発言については、この場にいる唯一の既婚者である谷口さんが窘めてくれた。ふたりを引き合わせたんだし、もう行きましょうと言ってその場は丸く収まったのだけれど……。
翌日もその次の日も、峰岸さんは終業のころになると会社までやってきて、瑛主くんを待った。
あの人はなんなの、と瑛主くんを問いつめたかった。でも私はただの部下で恋人ではなく勝手に瑛主くんに想いを寄せているだけだ。聞ける立場になかった。それに嫉妬に駆られている今、自分でもなにを言いだすかわからない。
流れでうっかり告白などしようものなら最悪だ。出張のときの発言から、相手にされないのは目に見えている。
それでいて峰岸さんの姿を見かけると、世の中の憂鬱を一手に引き受けたくらい気が滅入った。視界に入るもの嫌で、あの人が立っていそうな時間帯には裏口から帰っているくらいだ。病気になりそう。
「主任、最近ネクタイの趣味変わりました?」
「え?」
「今までと路線が違うなって思って」
瑛主くんとの絡みまでとげとげしくなってしまう。まえなら『似合わない』と一蹴して笑い飛ばせたのに、できなくなっている。冗談ってどうやって言うんだっけ。
「鋭い」
なのに瑛主くんは目を見開いて、内輪話でもするように小声で言って嬉しそうに笑った。
「さすが姫里。見るとこ見てるね」
峰岸さんの見立てかもしれない、と思ったらかっと顔に血が集まった。さすがなんて言われたくない。ちっとも嬉しくない。
こんばんは、とその日私は峰岸さんに声をかけた。待ち伏せはかれこれ二週間近くになる。
「谷口主任なら今日は外出先から直帰なので、ここには戻らないかと思いますよ」
峰岸さんは目立っていた。一般人が連日そうしていたら不審者扱いされてもおかしくないけれど、彼女には異次元の美貌がある。誰かに用があって待っているんだな、健気だな、とそこにいることを無条件で認められていた。うちの社内では情報レベルがもう一歩進んでいて、峰岸さんが瑛主くんを待っているのはみんなの知るところだった。
話しかけたのが展覧会で会った私とわかると、あらっと言って峰岸さんは一礼をしてきた。私も応じた。
「ありがとう。そっか。じゃ、電話してみるね」
峰岸さんが社屋から注意を逸らし、スマートフォンを取り出そうとしたときひらめくものがあった。私は素早く自分のバッグを開け、ドアをくぐって建物に戻りながら電話をかけた。
『はい』
と瑛主くんの声がスマートフォンから聞こえた。勝った、と思った。
「今、お話できますか。今日も峰岸さん、社屋の外で待っています。主任が出先から直接帰ることを私、伝えたので、きっと今、峰岸さんからそっちに電話が行っていると」
通話していいか聞いておきながら、返事を聞かずに一方的に話したものの、峰岸さんの連絡手段が通話だけではないことに思い当たった。私が先に瑛主くんに電話してしまえば、話し中になって連絡つかないと思ったのに。
「そっか、アプリでもメールでも連絡とれるんだ。馬鹿だー、私」
それに話し中でも着信履歴は残る。気づかなかった、なんて苦しい言い訳だ。
お疲れさまです、と目のまえを同僚が通っていく。壁際に立つ私が必死に瑛主くんの恋路を邪魔しようとしているなんて、思いも寄らないだろう。
自分のやっていることの無意味さに、続ける言葉をなくす。どうしよう。もう、手だてがないーー。
『落ち着けよ。姫里はなにがしたいんだ』
笑いを含んだ声で聞かれた。
「なにって、それは」
『うん』
言ったら嫌われるかもしれない。勘違いするなと敬遠されるかもしれない。でも峰岸さんとは会ってほしくない。
「峰岸さんが来てから、私、ほったらかしにされてる気がして。いつまでこれが続くんだろうと思ったら、たまらなくなって……。私だってたまには、瑛主くんとご飯が食べたい」
ほとんど告白じゃないかと、言ってから思った。身を固くしながら反応を待つ。
峰岸さんの最近のブログにイタリアンを食べにいったという記事があった。更新日は大久保さんたちと一緒に社屋から瑛主くんが出てくるのを待ったあの日になっていた。懐かしい人と再会したとかどうとか、浮かれた文章が綴られていた。家で記事を読んでいた私は、危うく持っていたスマートフォンを壁に投げつけるところだった。
『いいよ、食おうか。飯』
通話を終えるとどこにも寄らずに待ち合わせ場所へと向かった。電車で少し行ったところにある駅そばの雑貨屋。コスメや流行の小物を扱うショップのまえは人待ち顔の姿が目立つ。
私のほうが早く着いたようだった。瑛主くんはあの通話の後、しばらく電源を落とすと言っていたので、到着の連絡はせずにそのまま待つことにする。
「お疲れ!」
横から強く肩を叩かれて、驚く。現れたのは瑛主くんではなかった。
「ははっ、その顔、傑作!」
「至近距離で指さすのやめてくださいよ。で、どうなっているんですかこれは」
向けられた指をぐいっと掴んでおろさせて、私は詰問する。そこにはサワダさん(仮)が立っていた。首にかかっているのはいつかの瑛主くんが締めていた似合わないネクタイ。なにかがおかしかった。
「瑛主くんになにが起きているんですか」
今夜私と食事をすると決めた時点で、瑛主くんはすべてを打ち明ける気でいたらしい。場所をサワダさん(仮)のマンションに移して、適当に買ってきた料理を食べながら話をすることになった。瑛主くんとはマンションの下で合流できた。瑛主くんが来るまでは、と私が頑なにサワダさん(仮)の部屋に入ろうとしなかったからだ。
「峰岸ありさが俺んちに入り浸っているんだ」
私はパストラミビーフのサンドにぱくついているのをいいことに、相槌も打たずに瑛主くんの話に耳を傾ける。
「昔の交際相手とはいえ、もうあっちは結婚しているんだし、ややこしい事態になるのは避けたくて。で、こうして連日、山田の家に泊めてもらっているってわけ」
会社で待ち伏せされている時点で充分ややこしい事態になっていると思うんだけど。
それともうひとつ。
「山田って誰?」
「は? 僕だけど」
と、目をぱちぱち瞬かせているのはサワダさん(仮)。サワダ、サナダ、ヤマダ。うん、抑揚は似ている。
「サワダでもサナダでもなかったんだね。よろしく、山田さん」
「どんな耳してんだよ」
話が逸れた。で、とアイスティーを飲んで軌道修正する。乾杯でグラス一杯だけスパークリングワインにおつきあいしたあと、今日はアルコールは控えている。瑛主くんに至っては最初からウーロン茶だ。
「峰岸さんと夜に合流して、一緒に食事して?」
うん、と瑛主くんは言葉少なに言う。大人同士の食事なんだからお酒も飲んでいるかもしれない。そんな状態で食事のあとどうなったかは、できれば知りたくない。
会話の途絶えた空間に、山田さんがもしゃもしゃとレタスを咀嚼する音が大きく聞こえる。
「山田ー?」
「いや、いいんですよ。くつろいでいても。緊張感あおったってなにも出てきませんもんね」
「姫ちゃん、なーに遠慮してんの。気になってんでしょ? 聞いていいんだよ?『あの美女とヤったんですか?』って」
脱力する瑛主くんと苦笑いの私に、山田さんは容赦なく切り込んでくる。
「してないよ」
と、瑛主くんは断言した。
「ありさとは会社のまえで会って、なるべく早く山田とか他の友人なんかと合流して外で飯を食うようにしていたんだ。それから俺のマンションまで送り届けていた。俺は一緒に部屋にすら入っていない。誤解を招くことは極力避けたかった」
「それ! 一緒に入らなくて大正解」
山田さんが大きく頷く。
「『監禁されてた』なんて彼女に喚かれようものなら、こっちが悪いことしてるみたいになるじゃんか。まるっきり逆なのにさあ」
背筋がぞくりとした。そうやって嘘の証言をして瑛主くんを陥れることもできたわけだ。峰岸さんの容姿なら、男の人を魅了して過ちを起こさせたという筋書きにも説得力がある。
「あと、ここ何日かは食事もしないで、ただまっすぐ部屋に送り届けるようにしているんだ。その気がまったくないと態度ではっきり示したほうがいいって、亀田さんに怒られたしな」
亀田すみれさんもこの件に首をつっこんでいるのは驚きだった。
「そんな瑛主くんが毎晩泊まりにくるものだから、僕は恋人を呼ぶに呼べず……わかるだろ、姫ちゃんっ!」
山田さんが調子づいて私の手を握ろうとした。もちろんかわしたけども。
「似合わないネクタイは、あれ、山田さんのを借りていたんですね」
「そういうこと。山田を伴ってスーツや着替えはいくつか持ち出せたんだけど、ネクタイを忘れてしまって」
「……待って。じゃあ峰岸さんって瑛主くんのマンションに泊まっているんですか?」
「うん。まあ」
「連日?」
「そう」
「家出ってこと? 旦那さんと喧嘩でもしたんでしょうか」
それにしては峰岸さん、会社の外で瑛主くんの出待ちをしているときにルンルンしているように見えたけれど。
「いや、そういうんじゃなさそうだ。出張のときに俺とたまたま再会して……興味が沸いたようなことを言ってた」
このときばかりは瑛主くんも言いにくそうだった。そんな瑛主くんにがしっと肩を組み、山田さんがにっと笑った。
「要は瑛主くん狙いってことさ」
種明かしをしてしまえば簡単なことだった。瑛主くんはつきまとう峰岸さんを全力で避けている。ただそれだけのこと。
峰岸さんのご主人はどうしているのかと尋ねると、海外出張中とのことだった。それもご主人の会社のほうに事を荒立てないよう配慮して聞いたため、最初はなかなか取り次いでもらえず、出張のことを知るだけでも数日かかったのだそうだ。さすが大手の社員。うちの若い社員と違って個人情報保護の教育が行き届いている。
「今は旦那さん……社長の第二秘書と連絡がついた。社長が帰国次第、こっちに出向いてもらうことになっている」
「大変だったんだぞー。僕も有給あまってたから同行してさあ」
「同行って……えっ、ふたりで行ったんですか? ご主人の会社まで?」
そうでもしないと話ができなかったから、と瑛主くんは言う。私は改めてふたりの風貌を眺めた。得体の知れない眼光鋭い男と顔立ちの派手目なイケメンで体格のいい男。揃って押しかけるというのは絵になる。そこの社員さんもさぞや度肝を抜かれたことだろう。
「そのツーショット、見たかったな」
「呑気でいいね」
瑛主くんは苦笑いをする。
会社の詳しい場所は知らないけれど、往復で半日はつぶれるくらい遠かったはず。当然、社長の自宅もその界隈だろうから……峰岸さんの住まいはここから相当離れていることになる。だから、夜に瑛主くんのマンションまで送り届けてもらっていた、って?
山田さんとはマンションで別れ、帰りは瑛主くんが山田さんの車で送ってくれた。チャラついてはいるものの、山田さんの稼ぎは相当いいようだ。リビングの大きな窓からの夜景は壮観だったし、乗せてもらっているこの車も走行音がびっくりするくらい静かだ。
「店での食事を期待していたんだろうけど、ごめんな」
「そんなことより、私ばっかり事情を知らされなかったのがショックでした。こんな大変なこと……亀田さんまで知っていたのに」
ここまでが仲間でここからは部外者、というふうに目のまえで線引きされた気分だ。
「私にもなにかできるかもしれないのに。そんなに頼りない?」
瑛主くんは笑った。運転中ということもあり、ちらりともこちらを見ようとしない。
「姫里がそういうヤツだって知ってる。俺が嫌だったんだ」
赤信号に引っかかり、車が止まる。初めて乗る車を観察するのに飽きた私は、他に人目がないのをいいことに、助手席から執拗に瑛主くんに視線を送りつづけている。
ふっ、と瑛主くんの口元が緩んだ。
「今日はやけにじろじろ見るね」
「これは抗議。目で抗議しているの」
だからいくらでもこうしていられる。
瑛主くんは首をすくめ、口元に手を当てて笑いを堪えるような仕草をしたあと、ハンドルに手を戻して、
「かわいい」
ぽつりと呟いた。
「はっ……え? どこ?」
私は一瞬空耳かと思い、そうではなくなにか注意を引くものがガラス越しの景色にあるのかと周囲を見渡した。
「違うって。今日の姫里、かわいく見える」
まるでいつもの私がぶさいくみたいなことを言う。だから視線での抗議を続けていると、逆に瑛主くんがまじまじと見つめ返してきた。
「一緒に飯食いたいとか、ほったらかしにするなとか。ちょっとかわいかった」
「そういう恥ずかしくなるようなこと言うの禁止!」
私は一喝して窓の外に目を反らした。ちょうど信号が青に変わり、車が動き出す。はいはい、と機嫌良さそうな瑛主くんの声がする。
「まあ、今度のことで瑛主くんが私をナオのマンションに行かせたがらない理由がよくわかったよ」
「え?」
「ナオも今の瑛主くんみたいに迷惑だっただろうなと思って。それを察してのことでしょう?」
ナオの顔を思い出す。眉間に皺を寄せて面倒くさそうにしていた。差し入れのなかでたまに好みの味に出会えたときだけ、興味を惹かれたように表情を動かしていたっけ。好きなものばかり食べる子供みたいに。
「いくら楽しくても節度って大事だね。もうお互い、十代のころとは違うんだもんね。瑛主くんもそういうことを伝えたくて、私を制止していたんだよね」
住宅地にさしかかった。私の家までもうすぐだ。カーナビより先んじて道案内をしてあげる。
違うよ、と瑛主くんが言ったような気がして、あってるよと言い返した。
「道のことじゃなくて」
「じゃあなんのこと」
ナビが目的地到着を告げる。車は路肩に寄せられ、停まった。姫里家の玄関の照明は落とされており、リビングだけが明るかった。
瑛主くんは運転座席にもたれてなにやら考えているふうだった。ウインカーの音だけがやけに大きく聞こえる。シートベルトも外さずにそのままでいると、やがて瑛主くんはかぶりを振った。
「そのうちに話す」
その晩、サワダさん(仮)改め山田さんからスマホアプリにメッセージが届いた。本名がわかったのだから登録も改めなければ、とどうでもいいことを思いながら開く。
『ういっすー! お疲れ! 愛しのえーすくんといちゃこらできたかい!?』
いたずらメールを貼りつけたような文面。そして平仮名が多くて読みにくい。うっかり音読しかけて慌てて口をつぐんだ。
私のいるここ、自宅のリビング! 風呂あがりにアイスクリームもらったところ! 半径五メートル以内に母親!
自室に引きあげ、恨みを込めて返信を送ったら、折り返しで電話がきた。
『谷口のことだから姫ちゃんに黙っていると思って、老婆心ながら電話しちゃいましたー。てへぺろ』
「うん、こっちもなるべくウザがらないよう努力するから、山田さんもウザさ半減で手短にしゃべってくれます? アイス溶けちゃう」
『ウザいウザいってひっどいなあ! 僕の話とアイスとどっちが……』「アイス。用件は?」
『食い気味に答えたね』
はははっと軽さ全開で乗りよくしゃべっていた山田さんは、急にギアチェンジして、静かに誘うような声でこう言った。
『谷口と峰岸ありさが過去どんなふうにつきあっていたのか、知りたくない?』
私は即答した。「別に知りたくないです」
『そっか、姫ちゃんはそういう考えかたができる人なのか。まあ僕も同感で、過去は過去って思う。そうなんだけどさあ、じゃあなんで今、峰岸さんは谷口のところに通ってるわけ? 久々に再会したくらいでどうしてこうなった!? って……思わない?』
そうして山田さんから聞かされた話にはなるほどと思ったものの、峰岸さんの待ち伏せを正当化するものではなかった。彼女持ちとか妻子持ちの人の浮気話を聞くたびに思う。別れてからにすれば? と。そういう意味では、瑛主くんを叱ったという亀田さんの行動には賛同できた。
事情を打ち明けたせいか瑛主くんの態度にも変化があり、ここ数日、私は相当素っ気ない態度をとられていたのだと思い知った。書類一枚渡されるだけでも伝わってくる雰囲気がまるで違う。
「谷口主任、なにかいいことあったの? 例の彼女とうまくいってるとか!?」
「そんなんじゃないと思いますよ」
そのせいか、余所の課の人が瑛主くんを見ながら私に聞いてくる機会も増え、私も適当を装いながらも嘘は言わないよう努めた。
課長を探しに喫煙所に向かったときのことだ。遠目にもその姿がないとわかり、瑛主くんが脱臭機を囲む輪から少し離れたところに立っていたので、課長の行き先を知らないかと尋ねようとした。
「同じ職場の女に告白とか、自殺行為だろ」
私は耳を疑った。集まっているのは隣の課の二年か三年上の先輩社員だ。年齢の近い同士、ざっくばらんにしゃべっているのをよく見かける。瑛主くんも含め、髪型もスーツも小じゃれた印象の独身者ばかり四名。
だよなあ、と同調する面々。
「振られたら気まずいし仕事やりづらいし」
喫煙所といっても箱型に広くなっている空間に市販の脱臭機を設えて、手前にパーテーションを立てただけだ。会話は筒抜けになる。
「腰掛けOLならともかく、職場で実績重ねなきゃならない俺らはのちのことまで視野に入れないと」
「要はフラれかただろ? 言うだけ言って反応悪けりゃ『冗談でした』でかわすとか」
「それいい。今度使わせてもらうわ」
「使用料は生ビール中ジョッキ一杯な」
「金取んのかよ」
あ、姫、とそのなかのひとりが私の接近に気づくとしんとなった。
「いーこと聞いちゃった」
私は笑いかけながら輪のほうに歩み寄る。
「同じ職場の女に告るのが自殺行為とか、誰です、そんな名言吐いちゃった人は」
それこいつ、と長身の男性が壁のほうを指して簡単に仲間を売る。そこには瑛主くんがいて、黙って私を見ていた。私は視線を外した。
「まあそんなのは各々のポリシーなんでどうでもいいけど」
「出た」
「どうでもいい、とか」
吹き出す、瑛主くん以外の三名。そのうちひとりは、峰岸さんが待ち伏せを始めた日に居合わせた人だった。
「今日び腰掛けOLなんていないよー? 辞めたって再就職厳しいし、養ってくれる甲斐性ある人もなかなかいないだろうし。言い寄って気まずくなって噂流されたりしようものなら消えたくもなるだろうけど、そこはお互いに相手のあることなんだしさ、そこまで毛嫌いしなくてもいいんじゃない? 職場恋愛」
で、誰が誰を好きだって? と冷やかす体を装って、話に首をつっこもうとする。自分でも鼻白むことを言い過ぎたってわかっているから、単なる話題転換だ。
いやいや、と三名はさっきは仲間をあっさり裏切ったくせに、今度は誰の恋愛話だったのかしゃべる様子はない。結束の固いことで。
別にいいけど、いいんだけど……煮え切らない態度を眺めているうちに、沸々と胸にこみあげるものがあった。私は山田さんから聞いた瑛主くんの過去の話を思い出していた。
『交際は、峰岸さんのほうから言い寄ってきてはじまったんだってさ』
山田さんは知っている限りのことを電話で教えてくれた。
『喧嘩もせずに数年、彼氏彼女の関係を続けてきて、そろそろ一緒に住もうかってマンションを見つけて、峰岸さんも喜んでくれて』
『いざ引っ越し、となったときに彼女、突然姿を消したんだって』
『それで、半月後にようやく連絡がついて、そしたら彼女は他の婚約していたんだと。それが今の旦那さん』
あっけらかんと他の男の存在を告げ、にこやかに未来を語る峰岸さんに、瑛主くんはどうして急に自分のまえからいなくなったのかを問いただす気にはなれなかったのだそうだ。彼女にとってはもうずっと過去のことで、終わっていることなのだと、見ていてすぐに知れた。怒りや悲しみよりも、呆然となるほどの驚きに支配された。それが立ち消えたころにようやく疑いの気持ちが芽生えた。
『大切だと思っていたのは俺だけだったの? って。それがあったから未だに女の人の全部を信じきれずに、目一杯ブレーキ効かせて踏みとどまってしまうんだってさ』
それを聞いて、私は正直、女々しいと思ってしまった。このきつい顔にどれほどの弱気を隠していたのかと思うと、滑稽だった。
私には恋なんてよくわからない。どうすることが一番その場にふさわしいのかも知らない。けれども今、このときを見逃すことだけはどうしてもできなかった。
「そんなに引っ込み思案じゃ、世の女子たちはどうしたらいいの。がんばってよ!」
私は喝を入れようと、大袈裟な振りで全員の腕を叩いてまわった。結構痛かったかもしれない。交わそうと身をよじった人には一歩踏み込んで仕留めた。最後の瑛主くんだけがそれを手のひらで受け止め、未遂に終わった。他の三人は揃って腕をさすりながらそれを遠巻きに眺めていた。
「そうだ。姫の暴走をくい止められるのは……おまえだけだ」
「あとは任せた、エース」
「俺たちの切り札」
「希望の星」
三人は笑いながら、これ以上の難はごめんだとばかりに速やかに退散した。そして瑛主くんと私が取り残された。
「すみませんねー、今の。大事な商談かなにかでした?」
瑛主くんがいつまでも三人が去っていった方向を向いているものだから、注意を引きたくて適当なことを言った。すると視線がこちらに落ちてきた。
「姫里さ、俺のことも応援したけど……がんばっていいの?」
いつになく迷いのない澄んだ目をしていた。ここが会社でなかったら、ずっとそうやって見つめていてほしいくらいの静かで真摯な眼差しに、私はしばらく返事を忘れた。
「姫里」
「あっ、はい。えっと、なんでしたっけ?」
「なんでしたっけじゃないよ」
まったく、と、呆れるというよりはしょうがないなあという親しみのこもった笑みを返される。それが嬉しくて、いてもたってもいられなくて、私はまた悪ふざけのような冗談を言い、瑛主くんの表情が緩むのを待つのだ。
同じ職場の女は恋愛対象外だとはっきり言われたのに、気まずさは感じなかった。山田さんを介して瑛主くんの過去の話を聞いていたのが大きい。今の彼は過去のせいで人を信じきれず、挙げ句の果てには峰岸さんにとらわれてしまっている。だったらさっきの発言は、根深い呪いが生みだしたものに過ぎない。
私にできることはなんだろうと一晩考えた。
翌日、いつもの時間、いつもの場所に立つ峰岸さんに私は声を掛けた。
「こんにちは。今日は私がお相手します」
目を細め、え、と聞き返す峰岸さんに、私はただにっこり笑って、姫里です、と名乗る。
「姫里さんね。どうしてあなたが? 谷口くんは?」
「主任はまだ仕事です。あがりが何時になるかわからないから代わりに行ってくれ、と頼まれました」
行きましょう、と夕刻の明るい道を並んで歩くよう促す。頼まれたというのは嘘だった。私は峰岸さんに勝負を挑むつもりでいる。