07
好きな人ができたのなんていつ以来だろう。職場の人に憧れて、あとになって相手が既婚者だとわかったあれが最後だったのかもしれない。もともと私は恋愛には淡泊なほうで、略奪愛なんてもってのほか、まずは相手がフリーでないとお話にならない。気持ちを伝えるまえにすっと身を引いてしまう。
営業職を離れてからは、日頃の行動範囲が自宅と会社の往復にプラスしてナオの家くらいと狭くなって、男とか女とか関係なく出会いそのものが減っていた。まえはもう少し活動的だった気がする。若くて元気だったというのもあるかもしれない。
私は瑛主くんに伴い、午後発の新幹線に乗っていた。昨日の夕方、一泊二日の出張を急遽言い渡されたからだ。瑛主くんと一緒に行くはずだった営業職の女の子が盲腸で緊急入院し、代わりを探したものの行ける人が見つからず、それならと私に白羽の矢が立ったのだった。
私を推したのは瑛主くんだ。営業の人が行くべきなのでは、と及び腰の私に、姫里だって営業部の一員だし、セミナーも毎年恒例のもので参加してもしなくてもいいような緩い内容で、各支店からの出席の頭数を揃えるのが肝要みたいだよと、いい加減に背中を押してくださった。
「うちの支部としては欠席者出なくて済むわけ。いてくれるだけで助かるんだから、堂々としていればいいよ。一応、俺もいるし」
「一応って……そっちを先に言おうよ。交通費だってタダじゃないんだしさ」
そんなやりとりをしたものの、それなりに期待をしていたのも正直なところだ。恋を意識した途端の、瑛主くんと一泊二日。荷造りをする手が何度も止まった。
「寝てていいですよ。着いたら起こします」
車両内でお弁当を食べ終えるとやることもない。荷物になると思って文庫本を持ち込まなかったのは間違いだった。かといって仕事の資料を広げたのでは、隣にいる人はくつろげないだろうし。
「昼寝できる気がしない」
通路側の瑛主くんがちらりと私を見た。
「姫里こそ寝たら? 見張っとくし」
「見張る? なにを。むしろ見張りがいるのは瑛主くんでしょ」
瑛主くんは乗車してからこっち、二人の初老女性から声をかけられている。昔の朝ドラに出ていた俳優に面影があるとかで、その人を若返らせると瑛主くんみたいになるのだそうだ。要は似ているらしい。
「俺が本気出すとこんなもんじゃないよ。多いときは週に二十人くらいに寄ってこられる」
しゃべっているそばで、あの、と声がかけられる。芸能人のかたですか? いえ、一般人です。すみません、テレビで観たことあるような気がしたものですから。そんなやりとりを隣で黙って聞いていた。
話しかけてくるのは女性ばかりかと思ったら、そうでもなかった。今きたのは麻のシャツを身につけた白髪混じりの男性だった。自分の席に戻り、同伴の女性に違ったよと伝えている。そのあとも未練がましくちらちらとこちらを見ている。
「そんなに似てるのかな」
私も彼らを真似てみた。これは使える。顔をじっと見るにはいい口実だ。
瑛主くんも負けてはいない。ふっと目を細めてからいつもの強い視線に戻る。
「好きなだけ見ていいよ」
むしろ見てくれとばかりに身体ごとこっちに捻ってきた。新幹線の座席だから距離もそれなりに近い。んー、なんて私は言いながら、自分の顔が赤らまないように堪えた。
「耳、赤いよ。どうしたの?」
「赤くないし」
耐えてどうにかなるものでもなかった。見合っているんだから立場は同じはずなのに、私だけが照れている。
「姫里ってハートとか身につけるんだ」
瑛主くんが言っているのはピアスのことだ。小さなブラックダイヤがオープンハート状に連なっていて、かわいいのに甘さを意識させないデザインで気に入っている。
瑛主くんの言わんとしていることはよくわかる。私は自分の印象にそぐわない、ハートやピンクのたぐいの愛らしいものは避けていた。できることなら名字の姫の字だって切り捨てたいくらいだ。
「変かな?」
「ちょっと意外に思っただけ。似合ってるよ」
「そーですか」
照れくささのあまり、私は窓の外を見てなんでもないふうを装った。瑛主くんは普段、女の人の格好をむやみに褒めるほうではない。社交辞令ではなさそうだった。
このピアスを瑛主くんのまえでつけるのは初めてだった。それに目を留めて褒めてくるあたり、見てないようでいて実は見ているということなのかもしれなかった。
だとしたら、私がどんな思いで今朝このピアスを選んだのか、気づいてしまうかもしれない。かわいく見られたい。けど、さりげないのがいい。 これまでにないほど、瑛主くんの目を意識していた。真似事とはいえ、声に出して愛を誓った影響は大きかった。ただの出張なのに、代打のセミナー参加なのに、楽しいといいなあなんて旅行気分が抜けきれなかった。
ホテルの会議室でのセミナーが終了すると、参加者はそのまま宴会場へ流れ、懇親会となった。立食形式だったので、瑛主くんについて移動しながら私も名刺交換をし、食事をとる。アルコールも用意されていて、会場内ではスーツ姿の面々が和やかに談笑していた。
こういう場に出たことがないわけではない。だけど久しぶりで、職場のくだけた宴会に慣れた身には新鮮で、背筋の伸びる思いがする。
たとえば直接うちの事業と関わっていない業界のかたもいて、今すぐに営業をかけることはなさそうなんだけど、新たな事業展開をして関係性が出てくる場合もある。今すぐの目先の利益ではなく、将来を見越した会話がそこかしこでなされていた。また経験談もふんだんに盛り込まれていて、瑛主くんの半歩後方で相づちを打っているだけだった私もときには冗談に笑わされ、質問を挟まずにはいられなくなり、次第に話に引き込まれていった。
「疲れただろ。足とか平気?」
人だかりが捌けた隙をついて、瑛主くんがさりげなくこちらを振り返る。急な言葉掛けにびっくりしたし、妙に胸にせまるものがあった。なに、今の。きゅんというか、ぎゅんときた。
「ありがとう。だいじょうぶ、です」
周囲に目を配りつつ、不慣れな私のこともしっかり考えてくれているんだと思うと、ものすごいことを言われたわけでもないのに身に沁みた。
「自由解散になりそうだから、出口が混むまえに出よう」
二十時の閉会予定だった。帰りの新幹線の時間があるからだと思われた。私たちは明日の午前に花の展覧会に立ち寄ってから帰路に着くことになっているので、今夜は地下鉄を乗り継いだ場所にホテルを取ってあった。会社でいつも使っている施設らしかった。
宿泊先に向かう途中、懇親会の参加者数名に呼び止められた。会の後半のほうでおしゃべりをした人たちだった。話がおもしろかったから印象に残っている。
「泊まりですか? このあともう少し飲んでいきません?」
どうしようか、と瑛主くんと顔を見合わせる。宴会場での雰囲気を引きずっていて、誰とでも打ち解けたい気分ではあった。
「大勢入れる場所を押さえてあるので、ぜひ。カラオケルームなんですが、まだオープンしたばかりで綺麗ですよ。うちの会社でもたまに利用しているんです」
瑛主くんが参加するなら私も同席しないわけにはいかない。だって、カラオケだ。公衆の面前で歌うかもしれないんだ。一緒に歌ってあげて、歌の苦手な瑛主くんを遠回しに守らなくては!
「せっかくですが、今回は遠慮しますよ」
「そうですか。残念ですが、また機会がありましたら」
「ええ。では」
瑛主くんの真意がわからない。懇親会では愛想よく振る舞っていたのに、誘いをあっさり断ってしまった。スーツ姿の女性の姿もちらほら見えるから、男性ばかりの集まりというわけでもなさそうだ。
「行きたかった?」
「え」
「後ろ、振り返っていたから行きたかったのかと」
「そういうわけじゃ」
ホテルのある駅で地下鉄を降りる。まだ二十一時前だった。繁華街の明かりで夜空が灰色に染まり、雲の凹凸が見てとれる。宿泊先にまっすぐ向かっているようなので、途中のコンビニに寄らせてもらい、アイスクリームを買った。正確には買ってもらった。
「いるだけでいいとは言ったけど、まさかここまで影響あるなんて」
「なんのことです」
並んで歩いていると、会社からの帰り道みたいな気分になる。出張中だということを忘れそうになる。
「その様子だと気づいてないな」
ふっと表情が緩む気配。わざわざ見上げなくても声や息のつきかたで伝わってくる。
「姫里がいたから話し込んでしまうというか、口を滑らせがちというか。今日顔を合わせた男連中、しゃべっていて楽しかったと思うよ」
「それはこっちが聞いてて楽しかったからで。私がなにかしたわけではないし」
あるんだよ、そういうところが、と瑛主くんは私のほうを見ずに話を進める。
「人の懐に入り込むっていうあれだ。姫里は人を油断させるのが相当うまい。新幹線のなかで声をかけてきた人たち、いただろ? あれだって、俺のそばに姫里がいたからできたのであって、俺のソロ活動ではあの展開にはならない」
「ソロ活動……」
「強面の人間が一人でいたら、どんなに気がかりだったとしても話しかける気にはなれないだろ。相手が初対面ならなおさらだ」
「瑛主くんの日頃の難航極まる営業活動が目に浮かぶようです」
「さすがにそんな下手は打たないよ。俺だってプロなんだから」
「冗談ですって」
気落ちしてるのかな、と少しだけ思った。手放しで私を褒めるのは珍しい。こういうことは、いつもなら冗談を交えてどこまで本気かわからない言いかたをする。それか、小さい出張とはいえ旅先だから、旅が人をセンチメンタルにさせているのかもしれなかった。それならそれでいい気もした。
もともとの同行予定者が女性だったこともあり、部屋はシングルルームふたつだった。互いのドアのところで明日の起床時間を確認すると、じゃあと言って別れた。
シャワーを浴びるとほかにすることもなかった。荷解きといっても明日の服をハンガーにかけ、洗面と化粧の道具を出すくらいで、すぐに終わってしまった。
部屋着兼パジャマ代わりに持ってきたティーシャツとハーフパンツという格好で、瑛主くんの部屋のドアを叩く。アイスクリームを食べにきたと言うと、細く開けていたドアを大きく引き、室内に入れてくれた。
私にしては珍しく、これは計算だった。コンビニでアイスを買えば、瑛主くんが持ってくれる。そのまま渡すのを忘れて各自の部屋へ。そういえばアイスあったっけ、と思い出したようにもらいに行く、という。
「ラムレーズンだっけ? ヘーゼルナッツだっけ?」
「ヘーゼルナッツのほう。でもラムレーズンも味見くらいしてもいいよ」
「なにその日本語」
はい、と差し出されたカップを受けとり、ベッドの端に座らせてもらう。入り口でアイスだけ手渡される展開も予想していたけれど、そうならなかったところをみると、これは一緒にいていいって意味かなあと。そう解釈して居座らせていただく。
瑛主くんはカウンターテーブルまえの椅子に腰掛けた。テーブルには書類やチケットのような物が置いてあった。仕事の資料整理をしているところだったのかもしれない。それなら部屋を出るときに手伝ったほうがよさそうだ。どこにやったかすぐにわからなくする人だから。
蓋を取っただけでまだ口をつけていないラムレーズンアイスを突き出され、腕を伸ばしてひとさじもらった。代わりに私のヘーゼルナッツを一口あげることにする。私のスプーンですくったひとかけらに瑛主くんはなんの躊躇もなくぱくっと食らいついた。え、と私のほうが戸惑ってしまった。
「えっ、てなに。こういうことじゃないの?」
「これからいじろうとしてたの! これだから趣のない人は嫌だわー」
からかってやろうとした矢先に先手を打たれ、私は憤慨した。瑛主くんは平然としている。赤面するような展開に持ち込みたかったのに。
趣ねえ、と瑛主くん。私と並んで座った。つまり同じベッドの上。重みでベッドが揺れる。
「じゃ、やってみてよ」
「嫌です。もうしない」
「まあそう言わず」
「無理。できないってば」
口では強いことを言うけれど、力ずくでなにかされることはなかった。
顔の片側で、瑛主くんがこちらを観察している雰囲気を感じとってしまって、最初のひとくちふたくちは味なんかしなかった。無心にアイスを食べた。瑛主くんが一回口に入れたとか、気にしないようにした。女子同士で味見するときのノリと同じだと自分に言い聞かせた。
「男に食わせるのはさ、ファーストバイトまで取っておきなよ」
「そっちもね。食べさせてもらうのはそのときまで取っておくといいよ」 話を合わせながら、ファーストバイトってなんだっけと一瞬考えた。人生発のアルバイト? なわけなかった。
ファーストバイトといったら、披露宴で新郎新婦が互いにケーキを食べさせあうあれだ。これから食べることに困らせない、おいしい物を作って食べさせてあげる、というお約束の演出。
ブライダルフェアのときといい、今のといい、私たちこんなことばっかりしていない?
「このまえは挙式の会場で愛を誓ったし」
「あ、それ今私も同じことを考えてた」
嬉しくなって言ったのに、瑛主くんは冷たく目を逸らした。
「姫里、さん」
「は、はい」
取ってつけたようなさんづけ。にわかに感じるふたりの温度差。なにを言われるのかどぎまぎしてしまう。
はあ、と瑛主くんは露骨にため息をつく。
「いい子だから、誰にでもこういうことするのはやめようね」
私はアイスを持った手を膝に置いた。まず、こういうことの指すところがよくわからない。一緒にアイスを食べること? 食べさせあいっこ? からかおうとしたのを根に持っている? でも未遂に終わっている。
「こういうことって?」
「こういうことだよ」
瑛主くんは腰をあげると正面にまわり、ベッドに両手をついて、座ったままの私を腕のなかに閉じこめた。瞳は食い入るように私を見つめている。普段の強い眼差しに急速に漂いはじめる色香。思わず仰け反る私。
耳に瑛主くんの髪がかかり、首筋に吐息が触れたかと思うと肩口に熱を感じ、目だけを向けるとちょうど瑛主くんの頬が離れるところだった。膝も、閉じていたのに荒々しく片膝で割られている。簡単に、強引に、のしかかるように迫られていた。
かあっと顔が熱くなり、ろくに声も出せないまま、私は後ろへ這いずるようにしてベッドの奥へ逃れた。ベッドのうえにいるのだから逃げたことにならないのかもしれない。胸元で拳をぎゅっと握りしめた。心臓が狂ったように暴れ、壮絶な音を刻んでいる。このまま狂ってしまそうだった。
原因はこの人、瑛主くん。なのにその瑛主くんから目を離せない。
「よかった」
「は? なにがっ」
瑛主くんがこのタイミングで意味不明発言を繰り出したものだから、むっとする。ベッドの別の場所に座り直した瑛主くんからは、さっきまでの獰猛さをはらんだ情熱は感じられなくなっていた。ふっと笑って私を振り返っている。
「姫里にも女子っぽいところがあってよかった。これだけ迫っても危機感ないなら、もう押し倒すしかないだろ。それはまずいだろ。そんなのが許されるのはイケメンだけ」
もう襲う気はなさそう、とわかれば私の頭も少しはまわりはじめる。
「……瑛主くんも許される部類と思うけど」
「姫里、俺のことそんなふうに思ってたの?」
瑛主くんは驚いたとでもいうように目を瞬いた。
「配属されて早々に部下に手を出すのはイケメンのすることじゃないよ。仕事覚えろって話。だめだよ、そんなのに引っかかっちゃ」
なにも言い返せない。
じゃあ、私にどうしろと? その、早々に配属された上司にうっかり恋心抱いちゃった部下はどうしたらいい?
この流れでは言えるはずもなく。
「もう、誰かさんにじゃれつかれたせいでアイス落としちゃったよ」
「また買ってあげるから」
抜かりなくポイントメイクだけ施してきたお部屋訪問だったけれど、上司と部下の垣根を保ったまま終わった。明日の朝食の時間を確認して。
翌日は花の展覧会を見るだけだから気楽なものだった。写真撮影可能とのことで、式場に映えそうな花や目新しいものを片っ端からデジタルカメラに収めていく。途中で香りの強さも重要と思い立ち、メモを取った。時間内にまわりきるのはそう難しいことではないように思われた。
わあっ、と女の人の声が背後から聞こえたのは、会場をほぼ一周したころだった。何事かと振り返ったら、そこにはとんでもない美女が立っていた。
大きく見開きながらも笑みを湛えた瞳はこちらから目を反らすのが罪悪であるように感じられたし、白い肌と興奮でほんのり色づいた頬が愛らしい。耳や首筋がでるように緩くまとめられた髪は後ろだけおろしてある。そして同じ女として認めたくないけれど、豊かな胸に目を奪われてしまった。大きいだけでなく形もすばらしくて、下着なんてマナーで身につけているだけで本当はこの人には不要なんじゃないかと思えてしまう。
手足も身体つきも細く、それでいて女性的な曲線を描いていて、こんな美の集大成のような人が世に存在していることが信じられなかった。ひとことで言うなら女神だ。
「瑛主くん、だよね? わあ、こんなところで会えるなんて思わなかった!」
なんとこの女神様、瑛主くんと知り合いらしい。瑛主くんも驚愕しているようでなにも言えなくなっている。
「ちょっと、忘れちゃったとか言わないよね。なにかしゃべってよ」
くすくす笑いながら女神はしなやかな動作で瑛主くんの肩に触れる。瞬間、私はかすかに嫌悪感を覚えた。
「忘れたわけじゃないけど、少し……驚いてしまって」
「久しぶりだものね。私もこんなところで会えるなんて思ってなかった。協賛メーカーとのおつき合いでたまたま顔を出したのだけど、今日来てよかった」
今もあの会社にいるの、と親しげに話し続ける女神とは対称的に、瑛主くんは必要最低限のことしか返事をしない。今だって頷いただけだ。
「こちらは?」
女神様、今度は私に注意を向けてきた。会社の部下、と短く言う瑛主くんに続き、私も名前を名乗る。名刺を渡していいんだろうか。伺うように瑛主くんを見ると、察してくれたようで軽く頷く。女神様も名刺をくれた。
「峰岸ありささん」
帰りの新幹線の座席で名刺を眺める。展示会で出会ったあの美しい女神様からいただいたものだ。隣では瑛主くんがシートにもたれて目を閉じている。行きのときとは逆に、私が通路側だ。
「私が今まで会ったうちで美人ナンバーワンは亀田さんだったんだけど、塗り替えられたよ。亀田さんが職場のマドンナなら、峰岸さんはスーパーモデルかハリウッドスターってところだね。もう少しでサインもらっちゃうところだったわー」
ふっ、と瑛主くんの笑う気配があった。私も笑った。あの峰岸さんとかいう女神様に会ってから、瑛主くんの態度は明らかにおかしかった。
「よかった、やっと笑ってくれた。ずっと顔が強ばっているから、お腹痛いのかと思っちゃったじゃない」
「なわけないだろ」
瑛主くんはなおも笑いつづける。峰岸さんは瑛主くんとは名刺交換をしなかった。勤め先は変わっていないのかと尋ねていたし、お互いの連絡先を知っているようだった。
「ここ、ビューティーアドバイザーと書いてあるけど、フリーの人?」
「名刺、そうなってるの? まえの仕事を辞めてからは知らない。そういやテレビにも出てるみたいだった」
テレビ、と私は興奮した。手のなかの名刺をしげしげと見る。スマートフォンを取り出し、印字されているQRコードを読みとると、個人ブログに繋がった。毎日更新されていて読者数も多い。ビューティーアドバイザーを名乗るだけあって、美や健康、ファッションや最近行ったカフェなど、情報が多方面にわたって綴られている。
「読みふけってるし」
「結構おもしろいよ。エステ情報ばっかりかと思ったら、コンビニスイーツなんかの投稿もあって。庶民っぽい一面もある人なんだねー。私も読者になろうかなあ」
今回の出張は人や情報を得る目的だったので、私のアンテナはまだ解放されたままだ。峰岸さんのような人とパイプを持つことで、今後になにか役立つことがあるかもしれない。
「そのくらいにしとけよ。姫里は姫里だろ」
瑛主くんが私のスマホを手で遮る。
「読むくらいいいでしょ。それとも」
私が読むとまずいことでもあるの、と聞こうとした。でもそうならなかった。
瑛主くんは言った。
「ありさは元カノなんだ」
そのとき私はどう返事をしたのか、よく思い出せない。同じタイミングで、あるブログタイトルに目を止めていたからだ。
“ミント水”
嫌な予感がした。やめろという警鐘が自分のなかで鳴っていたけれど、どうしても見ずにはいられなかった。
初めて瑛主くんの部屋にあがらせてもらった日のことを思い出す。
『ミント水ならあるけど』
女子か、とあのときの私は心の内で笑っていた。
席を外すねと瑛主くんにひとこと断りをいれて、デッキに移動する。壁にもたれながら、ブログの続きを読もうとした。ところが新幹線はトンネルに入り、接続が途絶えた。嫌な予感を抱えたまま、回線が戻るのを待った。楽しむ気持ちはすっかり消えていた。
瑛主くんの強ばった表情が気になって仕方ない。あんなに硬い顔つきをすることはそうそうない。過去の彼女なら、なにも気に病むことはないはず。なのにどうしてこんなに胸騒ぎがするんだろう。
また会いましょう、と峰岸さんとは展示会場で言って別れた。社交辞令とは思えなかった。
わっと窓の外が明るくなりトンネルを抜けた。私は“ミント水”の記事を読み込んだ。
“ミント水はフレーバーウォーターが流行る前からやってた”
“レモンやオレンジも試したけど、私はこれだなあ”
“すっきりリフレッシュできる気がして大好き”
“簡単だから試してみてね”
“あれっでもこれ前にも書いたっけ?”
“ステマじゃないよ(笑)”
美容カテゴリーを追っていて見つけた記事。書き込みは六年前だ。
なんでもない書き込みのはずなのに、私を落ち込ませるには十分だった。
どうしてそれを、瑛主くんは、今でも続けているの?
どす黒い感情が内側を占めていく。心臓がどくどくと不安に満ちた鼓動を刻んで、目のまえがくらくらする。立っていられなかった。壁づたいにしゃがみこむ。
別れても会えば顔に出るくらいの、本気の恋。