06
亀田さんには近いうちに会わなければと思っていた。草野球に向かう瑛主くんたちと駅で別れたあとに連絡を入れるとすぐに返事があり、その日のうちに会うことになった。
午後四時、繁華街の商業施設にある窓の大きなカフェで落ち合い、私は季節のフルーツケーキとアイスミルクティーを、亀田さんはガトークラシックとブレンドを頼んだ。
「仕事帰りで甘いもの食べたい気分だったからちょうどよかった」
土日休みじゃなかったり不定期で仕事が入ったりするのはうちの会社と同じらしい。私と瑛主くんも明日の日曜は出勤日だ。
「あ、打ち合わせでコーヒー飲んだばっかりなのに、また頼んじゃった」
「あー、ついやっちゃいますよね。あとで振り返ると一日に五、六杯飲んでたり」
そうそう、と営業あるあるを展開したところで、話は昨日の飲み会の件へ。瑛主くんとの仲を取り持つようお願いされておきながら、途中からの私の行動はそれが完全に抜け落ちていた。亀田さんがどこまで知っているかわからないけれど、陰で恨まれるのだけはごめんだ。そういうわけで、なるべく早く、それも顔を合わせて話せたらと思っていた。
「瑛主くん、やっぱり合コンなんか頼むんじゃなかったって言ってましたよ。私は瑛主くんが参加した時点でお役目を果たしたつもりでいたので、なんだか変だなあと思って。最初に私がいただいた話と瑛主くんの発言、食い違ってますよねこれ」
ああ、と亀田さんは私の指摘を緩く受け流し、コーヒーに手を伸ばす。
「谷口くん、そんなこと言ってたんだ」
「亀田さんと瑛主くんは大学のころからの知り合いだそうじゃないですか。だったら、私なんかあいだに噛ませずに直接話を持ってったらどうです? はっきり言って私、役立たずですよ。恋愛ごとの機微とか駆け引きとかさっぱりなので。協力できそうにないのでこれっきりにしていただけたらなと思いまして、今日はそれをお伝えしに参りました」
よく言った、と自画自賛したくなる。亀田さんの営業力が発揮されるまえに言いたいことを全部言えた。私は気をよくしてケーキに向かった。マスカットが瑞々しい。ピオーネも甘い。
「うん、わかった。昨日の谷口くんを見ていたら、もう馬鹿らしくって……あなたに頼もうなんて気にはなれないよね」
思わず、生クリームをすくったフォークが止まった。視線をあげると亀田さんの笑顔が待っていた。自然な笑みなのになぜか怖くて、私はすみませんともう少しで言うところだった。
「誤解しないでね。姫里さんって、陰で画策するのとか駆け引きとか、不向きな人だよね」
「はっ、陰で画策……向いていません。全くそのとおりで。ええ、はい」
過去を瑛主くんに打ち明けたから、もう亀田さんの持っている姫里情報は弱みでもなんでもない、と思えたはずなのに、どうしてこう遜ってしまうのか。もうケーキ早く食べて帰ろう。それがいい。
無心に食べ出した私に亀田さんの目が注がれているけれど、知ったことか。
「姫里さんのこと、私、結構好きよ」
「え」
谷口と姫里を言い間違えたのかと思ったら、そうではないらしい。亀田さんは優雅にフォークを使って、粉砂糖のかかったチョコレートケーキを口に運ぶ。
「スマホがあるから顔を合わせなくても用件を伝えられるのにそうしなかった。そういう古風なところとか、会ってまもなくても膝を割って本音で話せるところとか」
「失礼があったなら謝ります。でも、会ってまもないって……顔を見知ってからは長いですよね、私たち。十年まではいかないけど、もうじき十年?」
「ね。業界に残ってくれているだけで同士って思えちゃう。転職する子も結婚退職する子も多いもの」
亀田さんは耳のそばの後れ毛をさりげなく指で流した。今日の亀田さんはサイドの髪をまとめている。涼しげな石のついたピアスがきらきら光りながら揺れていた。
亀田さんと別れ、電車に揺られているとき、スマホにメッセージが届いているのに気づいた。
『あのあとまっすぐ家に帰った?』
瑛主くんからだった。一緒にいるときはそんなに感じないけれど、こうして文字で改めて見ると、瑛主くんは過保護だ。誰にでもこの調子なんだろうか。
少しでも瑛主くんの心配が和らぐように、私は聞かれてもいないことまで答えた。
『帰ってそのあと亀田さんとお茶した』
それに対して降車駅で返信が届いた。そこからは時間を置かずにメッセージのラリーが。
『亀田? なにがあった』
『好きって言われた。うらやましい?』
『そうだなーうらやましいなー』
『どうでもよさげだね』
『どうでもいいし。冗談は置いといて、真面目な話、なにがあった』
なんでこの人、こんなに食いついてくるんだろう。液晶画面に並ぶメッセージ履歴をしげしげと眺めてしまう。
『そうやってずっと考えていればいいんだわ!』
『逆ギレ意味不明なんですけど』
『ほんとになにもなかったよ。愛も芽生えてない』
『ならいい』
やりとりはそこで途絶えた。『信じてったら! 私にはあなただけなのっ』のメッセージとともにおあつらえ向きのイラストを送ってあげるつもりだったのに、し損ねてしまって残念。
まえから思っていたんだけど、と私の目を見ながらあきちゃんはしみじみと言った。
「殿方のお宅に何度も泊まっておきながら手を出されずに無事でいられるなんて、葉月ちゃんてサバイバル能力高いよね」
「人はそれを色気がないと言うよ」
社内で私を葉月ちゃんと呼ぶのはあきちゃんだけだ。年は私のほうが上だけど、対等に気後れなくつきあってくれる一番の友人。ただし、あきちゃんは独特な着眼点を持っているから、客観的意見がほしいときには私は発言をいちいち真に受けないようにしている。
職場でのランチではとてもこんな会話はできないから、終業後に駅の近くのパスタ専門店で落ち合った。あきちゃんに求められていた合コンの詳細報告を果たせて、私もようやく肩の荷がおりたところだ。
あるいは、とあきちゃんは堅い口調でしゃべりつつ、小エビとベーコンのクリームパスタをフォークに小さく巻きつけている。
「漫画家くんにしても、主任さんにしても、葉月ちゃんが変な男に引っかからないように守ってくれているともとれるね」
「互いの認識にズレはあるけどね」
私は軽く息をつき、最近のふたりの言動を振り返る。
ナオのことはあきちゃんにもずっとまえから話してあった。面識はない。学生時代以外の知り合いでナオに会わせたことがあるのは瑛主くんだけだ。
「ナオは瑛主くんのことをできる男と認めていて、でもだからってどうということもなくて。むしろ私が特定の相手のところに片づいてしまえって思っているっぽい。逆に瑛主くんはナオを意識しまくっていて、合コンのナンパ野郎以上に警戒している感じ。私がなにも言わなくても勝手にナオの気配を探ってる」
「主任さんに言ってあげたら? 漫画家くんとは恋仲になるつもりはない、って」
「それって瑛主くんとはなるかもしれない、って言っているみたいじゃない?」
「絶対嫌な相手なら注意がいるけど、主任さんはまともそうだし、いいんじゃない? 葉月ちゃんのことを守ってくれているんだから、そのくらいのリップサービスしたってバチ当たんないよ。あと、これは私感なんだけど、主任さんが葉月ちゃんのことで陰ながらいつも要らぬ心配をして神経すり減らしているかと思うと、不憫で」
あきちゃんはああ言っていたけれど、心配しているにしては注意力散漫なんじゃないだろうか。
スケジュールボードに目をやりながら、私は社外にいる瑛主くんに電話をかける。待たされることなく応答があった。机の下に『故障しています』と書かれた付箋が落ちていて、その筆跡が瑛主くんのものだったと言うと、通じたようだった。
「壊れているものってなに? それ、どこに置きました?」
『姫里の想像通りだよ。現物はタブレット端末なんだけど、俺が持ってきちゃったみたいだ。直るの早いなとは思ってたんだ』
思ったなら一言聞いてくれればよかったのに、と言いたいところだけど、たぶんそのころ私は会議室でお茶だしをしていた。逆に言えば、お茶だしをしていたのだから修理に出せるはずがなかった。
私の机には今、どかさなければ仕事にならないほど大きなファイルが何冊も積んであった。誰が持ってきたのかは知らない。けど、このファイルを置こうとして机の上にあった故障中のタブレット端末をそのへんに避けて、そしたら付箋が剥がれ落ちて、端末は瑛主くんに持ち出され……といった様子はなんとなくわかった。「代わりの物を持っていきます」
瑛主くんが取りに戻るよりそのほうが早い。こんなこと、まえにもあったな、このまえは紙の資料だったな、と思いながら乗り物を乗り継ぎ、Mホテルへ。
「電源が入らないんだよ、ほら」
「それ、その作業、持ちだすまえにしてくださいよ」
「だな。……あっ、ちょっと待って」
壊れた端末の主電源を押してみせる瑛主くんに代替え品を渡し、社にUターンしようとしたところを引き留められる。
「今日、ブライダルフェアをやっているんだ。予約者の来場時間前だし、予約も空きがあるらしいから見ていけば」
私は嘆息した。
「そういうことを、妙齢の、独身で今のところその予定も立っていない女性にさらっと言えちゃうんだもんな」
なにか言った? と振りかえる瑛主くんは私の数歩先を行き、既に係の人に見学許可を取っていた。瑛主くんのほうも相手の乗っている新幹線が遅延しているそうで、約束の時間までまだ暇があるとのこと。
つまらないことを気にするほうが馬鹿みたいだ。季節の花々でコーディネートされた模擬会場は晴天にも恵まれ、明るく爽やかな雰囲気に包まれている。端のほうで遠巻きに眺めるだけでも華やかな気配を楽しめた。風と花の香りが通り抜け、口の端が自然にあがる。白いバラに私の好きな黄色のミニバラがアクセントとなって混ざっていて、かわいらしくも清楚で品があった。香りも心地よかった。
今日の私は光沢のある無地の青いワンピースにジャケットを合わせていて、いいところのお嬢様風ファッションだった。時間が許すならば、仕事中でなければ、臆することなく椅子でも用意してもらって一日中ここにいられそうだった。
見るのが嫌なわけ、ない。好きだからこの仕事を選んだ。花で誰かの晴れの日を彩りたい。少しでも関わっていたい。
「さっき嘘ついちゃった。自分に予定がなくてもこういうところに来るのは好きだな」
「そう」
瑛主くんはそれ以外はなにも言ってこなかった。やがて一組二組、それらしいカップルが姿を見せはじめて、係の人の誘導のもと、奥のほうへと進んでいった。揃ってカリヨンの鐘を見あげ、少し談笑してから建物に入っていく。
この会場は私たちが立っているこの開けているスペースでバルーンリリースができたはずだった。なのに、先ほどの見学者は入ってきたこちらへ戻ることなく室内に向かっていた。会場に駆けつけたときに来場者と間違えられて渡されたパンフレットには、バルーンリリースの写真が掲載されている。聞くと、ああそれねとなんでもないことのように瑛主くんが教えてくれた。
「風向きだよ。ここで風船を手放すと、あっちに流れるだろ」
瑛主くんが指さした方角を見やる。あれは紛れもなくホテルの客室だ。それもそんなに高層階ではない。
「客室の最上階の屋根に見事に溜まるんだって。それで場所を変えたらしい」
「あーそっか」
幸せや繁栄を祈ってどこまでも飛んでいけと放ったものがすぐそこに留まるのでは、考える余地ありだ。かといって建物をどかすなんて論外で、それは仕方のないことといえる。
「だけど」
私たちの立つこの空間だって素敵な眺めだ。建物も設備も花もよく映える。
「バージンロードの端から端までと祭壇と鐘と空が一望できるのは、こちら側のほうだよね。この角度が使われなくなるのは残念な気もする」
言ってから、はたと気づいた。これじゃあ過去の私と同じだ。自分の分野以外のことに口出ししてしまった。誰も聞いてないよねと周囲に目を配る。少なくとも瑛主くんの耳には聞こえているはず。
姫里、と呼ばれ、返事をした。「はい」
どんな反応が来るかと身構える私に、瑛主くんはこんな提案をした。「そんなにこの場所がいいなら、試しに誓ってみようか」
「誓うって、なにを」
瑛主くんは私のバッグと自分の荷物を近くのテーブルのそばに置き、周りを見ながら私の腕を引いて立ち位置を整え、向かい合わせに身構えた。設営用に配置された植物が壁の役割を果たし、周囲からの視線を遮ってくれる。
「こっちを向いて」
「や、でも」
「いいから」
今日の瑛主くんは髪を後ろに流して額を全部出していて、身につけているのは夏物のチャコールグレーのスーツだった。普段から目がきついとか怖いとか言われる凛々しい容姿も、華やいだこの場には馴染み、それどころか見事にハマっている。同じように身なりを整えている会場内のブライダルスタッフのなかでも突き抜けて目を引く風貌だった。そんな瑛主くんを私は正視できなくて、会場入りしてからはなるべく視線を外すようにしていた。
なのにここへきてこっちを見ろという。この逃れようのない一メートル足らずの距離でこっちを向けと言う。
困る。
いつまでたっても動かない私に対し、瑛主くんは実力行使に出た。指で私の顎を視線が合うよう持ちあげた。私は触れられた感覚にひたすら驚き、信じられない思いでつい目のまえの人を見つめてしまった。わかっていたことだけど、くっきりとした双眸がそこで待っていて、私はそれだけで熱に浮かれたように他のことはなにも考えられなくなった。
「健やかなときも、病めるときも」
瑛主くんの唇が動いて言葉が紡がれる。
「穏やかなときも、貧しいときも」
からかいの気配は微塵もなく。
「いかなるときも、私は」
こういうときの、あとに続く文言はきっとこうに違いないと知れている。なのに一言一句漏らさず聞きたいと思う。
「あなたを妻とし、生涯愛することを誓います」
瑛主くんは私を見ていた。今、瑛主くんが言った『あなた』は紛れもなく私だった。
瑛主くんが目配せし、今度は私の番だと告げる。戸惑いながらも乗せられて、
「汝を夫とし、健やかなるときも病めるときも愛することを誓います」
そんな感じのことを口ずさんだ気がする。
正直、上の空だった。あまり記憶にない。でも言うには言った。言おうと思った。真剣になっていた。誓えば、形だけでも誓えば、茶化さなければ、それは本当に誓いになるかもしれない。お願いだから冗談にしないで。すがるように思った。
「姫里」
呼ばれただけで泣きそうになる。欲しい言葉しか聞きたくない。風が強くて、乱れた髪を抑えると、肘のあたりに手が伸びてきて、だけどそこから触れることなく引き戻された。意図を追うように私は目線をあげる。
瑛主くんはそんな私の一部始終を余さず捉えていたのかもしれない。表情が優しく緩み、注意を引かれて意識をそちらに向けていたらいつのまにか伏し目がちな瑛主くんが迫ってきて、傾いたその顔がぐっと近くなった。来る、と思った。目を閉じた。
そのときだった。
「谷口様」
初々しさの残る女の子の声が響いたのは。
「こちらにフラワーガーデンKの谷口様はいらっしゃいますか」
はっとなって目を開けるのと、瑛主くんが周囲の空気を切るように顔を起こしたのとがほぼ同時だった。瑛主くんは明らかに苛立った表情だったものの、私と目が合うと思い直したようにそれを笑みに一変させた。
「今のは惜しかった」
至近距離でふっと笑顔を向けられたうえ、そんなことをささやかれてなんともない人なんているんだろうか。私は瑛主くんに完全にあてられていた。顔は火照るし鼓動は速いし、もうどうにもならない。
「は、はは」
「もうちょっとだったのにな」
私、笑ったつもりがちっとも笑えてない。
なのに瑛主くんは……なぜそんな余裕綽々で笑っていられる!? もてるの!? 慣れてるの!?
こっちはいっぱいいっぱいで、心拍の激しさが、振動が、笑い声にまで伝わるかと思って冷や冷やしてるのに、涼しい顔しちゃって……なにこの格差。禿げちゃえよバカ!!
傍らの瑛主くんは声の主に返事をすると、私の肩に一度触れてから荷物を取って離れていった。
私は思いきり背を向けた。手で顔をぱたぱたあおぎながら落ち着こうとした。瞬きを繰り返して空を見あげる。会場に静かに流されているクラシック音楽が急に耳に飛び込んできた。いつからかかっていたのかわからないくらい、意識は現実から遠くにあった。夢見心地で足元がふわふわする。
でもこの心臓のうるささは紛れもない現実だった。触れられなかった唇にそっと指をあてる。心はすっかりかき乱されている。
「あーあ」
そばに誰もいないのをいいことに声に出してしまった。なんだろうこのしてやられた感。悔しい。認めたくない。認めたくないけど、これは認めるしかなさそうだ。私は……瑛主くんが好きだ。