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05

 見るのとやるのとでは大違いだった。専用レーンに入って所定の立ち位置でバットを構えてみると、飛んでくるボールの速いこと速いこと。何球かバットに当てたけど、前にはじき返せたのは最後の一振りだけだった。

 次は僕の番だね、と言うサワダ(仮)さんに道具一式を渡し、瑛主くんの脇に並ぶ。



「全然だめだったー」

「お疲れ」

 打席に立つサワダ(仮)さんを眺めつつも、まだ気持ちがそっちに切り替わらない。興奮冷めやらぬ、ってやつだ。

「楽しかったしすっきりした! あれだね、もっと遠くまで打てたら気分いいんだろうなあ」

「怖くなかった?」

 瑛主くんに問われて初めて考えた。硬いボールが高速回転しながら速く飛んでくる。当たったら痛そうだけど、そんなことよりも……。

「怖さよりもやってみたさのほうが強くて、あんまりそっちは気にならなかったです。えっ、怖いんですか? 自信ありそなこと言ってたのに」

「そんなんじゃない。思い切りがいいなと思っただけ」

「……私が?」

 そう、と答える瑛主くんはあくまでもサワダ(仮)さんを注視している。打撃音に混じって何回か華やいだ効果音が聞こえてくる。サワダ(仮)さんの向こうに入っている人が大当たりを連発しているようで、私はサワダ(仮)さんではなくついそっちの人に目を奪われていた。

「これ持ってて」

 しばらくして瑛主くんは、渡すというより押しつけるように、着ていたジャケットを脱いで寄越した。

 鞄と一緒に椅子に置けばいいのに、と思わなくもなかった。なのでぼんやりしている私の腕にジャケットが収まってしまい、返すのも置くのも不自然になった。

「お守り」

 瑛主くんはそんな私の肩を軽く叩き、今打っているあの人のほうに目だけを流してみせた。そして私を見おろすと口角をあげた。

「お姫様がさらわれたら困る」

 短く言われた瞬間、私は自分の顔に熱が一気に集まるのを感じた。赤面してるのが自分でもわかった。それを指摘されたら恥ずかしくて死ねる。

 夏だからジャケットを持っているだけで済んだけど、もし冬だったら羽織らされてるとこじゃない? と妄想がもくもく加速して、されてもいないことで顔を熱くしているとか、余計に恥ずかしさが止まらない。ばかか、私は。


 わかってるよ? お姫様というのは、私の名前の姫里にひっかけただけだ。愛おしいものに喩えたわけじゃない。自分のことをお姫様とか、断じて思ってない。

 だけど、なんの心の準備もしていないところに面と向かってそんなふうに言われたら驚くし、一瞬くらいは勘違いもするよ……。

 

 瑛主くんの発言をジョークとしてまとめるにはあまりにも遅すぎた。もうなにを言ってもしらけるだけなので、話を逸らす方向でいく。

「今日、ボディータッチ多くない?」

「誰が? 俺?」

「自分からは触らないぞ的なこと言ってたくせに」

 ややあってからの反応はこうだ。

「言った?」

 ずるい。もう、いろいろと。



 だいぶなまってるなあ、とサワダ(仮)さんが戻ってきた。代わりに瑛主くんがなかに入る。サワダ(仮)さんは私の抱えている瑛主くんのジャケットに目を落としたものの、特に追及はしなかった。 

「現役時代はもっと打てたんだけどな」

「それで、どうでした?」

「どうって……えっ、姫ちゃん今、僕のこと見てたんじゃなかったの」

 しょげるかと思いきや、超ウケるとか言って笑いだすサワダ(仮)さん。

「ブランクあるわりにまあまあ打ってたでしょ。長打もまあまああったし」

 つまり、まあまあだったってことですよね。

「あっ、瑛主くんが打ちますよ!」

「ちょ……おーい、聞いてよ」


 正直、野球のことはよくわからない。ルールくらいしか知らない。だけど、バットを握ってからの瑛主くんの動きはさまになっていた。

「なんか、違いますね」

 思わず言葉が出る。

「派手なのを狙ってやろうとか、かっこいいところを見せようとか、そういった雑念が全然伝わってこない。集中してるっていうか」

「うん、姫ちゃんそれ、最後の一言だけ言えばよかったんじゃないかな。前半のコメント、暗に僕のこと貶してるよね」

「すみませんつい本当のことを」

 フェンスのこちら側で雑談しているあいだも、瑛主くんは来た球をとりこぼしなくバットに当てている。額に流れる汗を腕で拭い、ピッチングマシンを睨みつけては鋭いスイングで打ち返している。

 野球経験という意味では、瑛主くんだって経験者のはずだ。趣味は草野球と言っていたし、部屋に泊めてもらった翌朝も練習があるといって出かけていた。好きでこつこつ努力していることを、言葉ではなくこういった結果で見せてもらえるのは嬉しかった。私がナオのところに入り浸っていたのはそういう理由もあったんだ。


 結果から努力が垣間見えるということ。

 そういう人のそばにいて自分も成長したいということ。


 見つめる先、バッターボックスにいる瑛主くんの口元に時折笑みが覗くようになった。そして打つまえには再び一文字に硬く結ばれている。楽しそうでそれでいて真剣な表情。私は打席が終わるまでのあいだ、その場から一歩も動かなかった。



 途中からカラオケ組の数人がこちらの様子を見にきていたらしい。労いと冷やかしの声が瑛主くんにかけられている。

「僕だって打ったんだけどなあ。少しくらいいじってほしかった」

 私の横でサワダ(仮)さんが駆け出しの芸人みたいなことを言った。

「そういえば誰が勝ったの?」

「誰って……僕だよ」

「うん、ごめんなさいね。敢えて聞くことなかったね」

 サワダ(仮)さんの白々しい嘘をやりすごしたところで瑛主くんから呼ばれた。そちらに行こうとしたら、そういうことではないらしく、なにかを放るようなジェスチャーをしている。下手投げからの放物線で私に飛んできたのは、なにかの鍵だった。シンプルな皮のキーホルダーがついている。部屋の鍵のようにも見えるのだけど。

 目で問いかけると、瑛主くんは額の汗を拭いながらさらりと言った。

「先に帰ってて」


 周囲はどよめいた。

「どーいうこと!?」

「お持ち帰り宣言きた!!」

「あれ自分の部屋の鍵だよね」

「あっちが本命?」

「先に帰れとか、なんだあ? すでにデキてたのかあ?」

 違うよ、と言いたかったけど、すぐ横にはサワダ(仮)さんもいる。ここはひとつ、誤解されといたほうが彼も手を引いてくれる……?

 どよめきの集団のなかにはあきちゃんの姿もあった。私と目が合うと不敵に笑い、そこからスマホでメッセージを送ってきた。詳細kwsk……詳細、くわしく? あとで教えろ、と?


 そうこうしているうちに瑛主くんがこちらに来て、私の手からジャケットを抜き取り、鞄のうえに放った。

「この鍵……えっと。帰ってて、というのは」

「鍵は俺の家の。そこに帰れって意味」

 まだサワダ(仮)さんがそばにいるので慎重に言葉を選ばなくてはならない。

 とはいえいろいろと変だった。私たちふたり、そんな設定は背負ってない。そんな、鍵を預かって行き来するような仲じゃない。

 でもサワダ(仮)さんの耳もあるから、この場でそこまでしゃべることはできない。

 もたもたしていると、瑛主くんにいらついたように睨まれた。

「こんな日はどうせまっすぐ帰らないだろ」

「あ。はい」


 決めてたわけじゃないけど、ほろ酔いでわいわい騒いだあとは寄り道したくなる。

 はい、と認めたのが意外だったのか、瑛主くんの険のある目つきがいくぶん和らいだ。そのまま一歩二歩、近づく。なにを言うつもりだろう。

 そのときようやく気がついた。そういえば、瑛主くんが賭の勝利者だった。宣言通り私の時間をもらう――?

 思わず一歩、二歩と距離をとる。

 や、まさか、そんな。私をほしがるとか、そんな、そんな。

 椅子につかえてそれ以上さがれなくなったところで止まると、瑛主くんも足を止めた。

 それからかがみ込んできて、緊張する私の耳元にサワダ(仮)さんが聞き取れないくらいの小声でなにを言うかと思えば、

「部屋の冷蔵庫にあるすりおろしリンゴゼリー、食っていいから」



 言っておくけどリンゴゼリーにつられたわけじゃない。

 ドアの開く音、靴を脱ぐ気配があって、ただいまの声がした。瑛主くんが帰ってきたみたいだ。お帰りなさいと言うと、リビングに姿を見せた瑛主くんは、ん、となにやらほんわかした笑顔を向けてくる。

「ちゃんといるね」

「鍵を渡しちゃってさ、私がここにいないとそっちが困るじゃない。家、入れなくなるとこじゃない」

 私が部屋のドアを施錠せずにいたとしても、下のエントランスのドアが自動でロックされているから、結局鍵なしでは部屋はおろかマンションに立ち入ることができない。オートロックの説明をしたある日の瑛主くんが脳裏をよぎった。あれはあれで必要な説明だったのだと今ならわかる。

「鍵ならポストのなかに予備を一本貼りつけてあるんだ。それ使えば入れる」

「って、それ私に言っちゃっていいの?」

「なにか問題でも?」

 聞き返されて返事に窮していると、瑛主くんははあと大きくため息をついて私のそばに崩れるように腰を降ろした。

「風呂入った?」

「あっ、うん。お借りしました」

 お風呂に入ったりあるものを使ったり好きにしていいとメッセージをもらっていたので、遠慮なくシャワーを借り、着替えのティーシャツと短パンも借り、冷凍庫のアイスまで頂戴した。旅館に泊まるようなものだと思えば照れも恥じらいも和らぐ。


 と、いきなり瑛主くんが鼻をくんくんさせた。

「いい匂いがする」

「アイスかな。フローズンピーチメルバ」

「そうじゃなくて……俺の言いたいこと、わからない?」

 瑛主くんは部屋に入ってきたときと同じはにかんだような笑顔になった。

「帰ってきたときに部屋にいてくれるの、すごくいい」

 途端に私の顔に朱が差すのを感じた。どういうつもりでそんなこと……。

 確かめるまもなく、風呂行ってくる、と瑛主くんは宣言して脱衣所に行ってしまった。


 そして、当たりまえのように泊まっていくことになり、ベッドを使っていいと言われた。瑛主くんはソファで寝るという。

「自分の寸法考えなよ。はみだすでしょ。それに部屋の主なんだし」

 私も頑として聞き入れなかった。これは自分のものだと主張するかのようにソファにダイブを決めると、ぶはっとふきだされた。

「今の、動画に撮っておきたかった」

「瑛主くんもたまに突拍子もないこと言うよね」

「言わせてるの誰だよ」

 構わず私は反転して仰向けになる。見慣れない天井。それにダクトレールから下がっている四角いペンダント型の照明。なんともなしに観察していると、ソファの腰のあたりのスプリングがきしみ、身体が傾いだ。

 おやっとそちらに目をやると、瑛主くんが腰を掛けて背もたれに腕を置き、私を見おろしているところだった。

「今日は大変な一日だった」

 手にはグラスに入った水のようなものが。もしかしたらまえに言っていたミント水かもしれない。

「おい、何故そこで笑いを堪える?」

「いえ、女子力について考えていたもので」

 あっそう、と言って瑛主くんはグラスの中身を一気に飲み干す。私は寝そべったまま、彼の横顔を仰ぎ見る格好だ。下からのアングルは新鮮だった。顎から首筋にかけてのすっきりとしたラインが誇張され、ワイシャツを身につけている日昼に比べたら肌の露出が多く、艶っぽく感じた。

「週末の合コン。明日が休みだからって羽目を外すヤツがいて、案の定ひとりかっさらわれそうになって、柄にもなく取りかえしにいって」

 取りかえすという言葉のチョイスにどきりとする。

「アラサーのくせしてガキみたいに女の子賭けて勝負して」

 目が合った。瑛主くんは小さく笑った。

「そいつに勝って」

 ソファの背に置かれていた手が私のほうに伸びてくる。頬にかかっていた髪を払ってくれた。それだけだった。自分の膝で頬杖をつくように両手を組み、軽く前屈みになった。

「女の子は安全な場所へ。でもってさっきの男とは賭けなしで再戦」

 えっ、と私は自分の耳を疑った。寝そべっている場合じゃない。起き上がり、瑛主くんの顔を覗きこんだ。

「再戦、したの」

「ああ」

「あの人と」

「そう」

「なんのために」

「おもしろかったからってのが半分、あとは相手の戦意を削ぐのが半分かな。姫里もあいつからちょくちょく呼び出しがあったら面倒だろ」

 瑛主くんは振り向いて白い歯をのぞかせて笑った。

 過保護にも聞こえるけれど、妥当な予防線だった。私は席の近い人たちと連絡先を交換していた。どうせこの場限りだしとそのときは思っていた。

 瑛主くんの言うとおりだ。サワダ(仮)さんの強引さなら今後も誘いがあるかもしれない。


 ところが瑛主くんの考えた予防線は私の想像とは別物だった。もう一度と言わず二度三度バッティング対決をして、三度目には瑛主くんのほうが負けてしまった。昔とった杵柄だと言って鼻息を荒くするサワダ(仮)さんに、瑛主くんは自分の所属している草野球チームへの加入を勧め、彼のほうも快諾したのだそうだ。

「口だけじゃないんだよ。目が慣れるのに時間がかかったようだけど、昔やってたっていうのは本当っぽかった。それに海外生活が長かったんじゃ、日本での人づきあいが薄くなってるんじゃないかと思って。それで誘ってみた」

 サワダ(仮)さんの話をおとぎ話くらいにしか思っていなかった私は、ここにきて初めて申し訳なさを感じたし、それ以上に瑛主くんの洞察力に感服した。

「俺たちくらいの年代にさしかかると、所帯持ってるヤツもいるし、社会的地位や格差も出てきたりで、連絡取りづらくなることがままあるよな。結構簡単に疎遠になる。だから自分から動かないとって思うし、そうしたいと思っている人には協力もしたい」

 合コン、だったはずだ。もともとは私が巻き込まれたやっかいごとだったはず。

 なのにどうしてこの人は、人のことでこんなに親身になっているんだろう。


「そんなことより姫里が無事でよかった」

 そう言われて、私はお礼をちゃんと言っていなかったことに気づいて慌てた。言ったら言ったで、別にいいよとさらりと流されて、変な感じがした。まえにここに来たときのノリでいくと、冗談でも見返りを要求してきそうなのに。

 じっと見つめてくる瑛主くんを負けじと見つめかえすと、瑛主くんのほうがすっと視線を外した。ほら、今のもそう。迫るマネでもして私をどぎまぎさせるんじゃなく……?

 私、避けられるようなこと、しただろうか。


「さて、布団でも敷くか」

 すっくと立ち、瑛主くんは奥の部屋に消える。

「はっ? え、だってソファで寝るからって……あ」

 布団と言われ、雨に降られて泊めてもらったときのことを思い出した。私、リビングに布団出してもらって寝てた! 寝具一式、あった!

「このまえのとき、布団敷いただろ。なんで気づかないかな」

 布団をひと抱えして戻ってきた瑛主くんのそばに寄り、敷くのを手伝ったあとは特にやることもなかった。スマホは充電させてもらっているし、エアコンのタイマーも切れるように設定済みで、部屋の明かりも常夜灯に切り替えてある。

 時刻はもうすぐ零時になろうとしていた。

 寝室に引きあげた瑛主くんにドアの側まで寄って声をかける。どうした、と部屋のなかから聞かれ、黙っているとドアが開いた。そちらの部屋は照明がすべて消されていて真っ暗だ。

「そっちに行っても、いい?」

 ドアに手をかけたままの瑛主くんが薄闇のなかで息を飲む。



 リビングに敷いた布団を引きずって移動させながら、私は殊更明るい声を出す。

「断られるかと思った。黙り込むんだもん」

 瑛主くんは同じ部屋で眠ることをオーケーしてくれた。瑛主くんのベッドの脇に布団を持ってきて眠る形だ。明かりは全部消さないと眠れないというので、そこは譲った。

「だいじょうぶ!! 襲わないって誓う!!」

「その心配は一切してない」

 暗くても瑛主くんの苦笑いは気配でわかった。

「なんですと!?」

 あーあ、と投げやりで不機嫌そのものの声が響き、私は反対にうぐっと息を飲み込む。

「瑛主くんはさ、今日のバッティング対決のお兄ちゃんでさえ懐柔しちゃったんでしょ? そういう人になら、話す価値ありだなと思って」

 寒くもないのに、むしろ暑いくらいなのに、布団に仰向けの体勢でタオルケットを鼻まで引きあげる。

 この人は、私のこともすくいあげてくれるだろうか。それとも……。

「今から私の話をするから、聞いて……ください」


 仕事帰りに誘われたあの焼鳥屋で済ませればよかった話を今更しようとしているなんて要領が悪いかもしれないけれど、それは違う。あのときは瑛主くんがサワダ(仮)さんのような扱いにくいやっかいな人間に面と向かっていくタイプとは知らなかったから。

 今の私はあのときより瑛主くんを信用しているし、もっともっと踏み込んで、信じてみたかった。


「まえにも話したよね。私が営業やってたころのこと。亀田さんに負けまいと張り切りすぎてたって話。私、本当にのめり込み気質で。新郎新婦と盛り上がっちゃってね……結果、トラブっちゃって。今ならあり得ないってわかるんだけど、そのときは自分が正しい、なんで私が謝らなきゃいけないんだって腑に落ちなくて。悶々としてた時期があったの」

 私の知らないところで瑛主くんの耳に入れてほしくなかった。だから今打ち明けようとしている……のだけれど。

 核心に触れるのは今でも怖い。怖くて別のことを考えたくなる。実際、ほら今だって、何年前のことだろうと逃避をはじめかけていた。

「姫里、なにしたの」

 私じゃない声にシンプルに問われて現実に引き戻され、背中を押されて、それまで言いよどんでいたのが嘘のようにすっと告白が出た。

「ウェディングプランナーをひとり、クビに追い込んでしまった」


 二十歳そこそこの新婚夫妻だった。私と年が近かったし、明るくくだけたノリの良さもあって、仕事とは思えないくらい楽しかった。古くからの友人ですか、と様子を見ていた顔見知りのホテルスタッフに聞かれたくらい、私たち三人は打ち解けていた。

 だから、本来花屋が足をつっこむべきでない領域にまで踏み込んでしまっていたことに、私は最後の最後まで気づかなかった。

 ウェディングプランナーと打ち合わせを重ねて決めた内容を新郎新婦が変えたいと言い出したのだそうだ。私と話をしたことで気が変わったらしい。

 当然、ホテル側は困惑した。会場のカーペットとカーテン、テーブルクロスの色調、お色直しの内容、極めつけは押さえていた会場そのものまでウェディングプランナーは変更を余儀なくされた。それでもそこはプロ、要望をすべて揃えて仕上げてきた。結果、新郎新婦の満足のいく挙式披露宴となった。


 ところが、話はこれだけで終わらなかった。私のDホテルでの仕事がうまくまわらなくなったのだ。

 顧客提案の不採用はやむを得ないとして、採否の返事がもらえる期日になっても連絡が来なかったり、プレゼンの日程連絡が当日にあったりと、それまでには考えられないようなことが立て続けに起きた。

 変だなあとは思ったけれどこういうことは選ばれる立場である以上、不可抗力だ。特別なことをなにもしなくても仕事がぱたぱた舞い込むときもあれば、なにをやっても相手に振られつづけることもある。今は辛抱のときなのかも、くらいに考えていた。


 もうすぐ一月というころに上司に呼ばれた。

『君が打ち合わせをすっぽかしているという声があるらしいらしいが、本当か』

 なにを言われているのか、意味がわからなかった。驚きすぎてすぐには返事ができなかった。私は約束のあったとおりに打ち合わせに行っているのにどうして?

 上司の知人が競合会社にいて、私の話を小耳に挟んだということだった。私の弁明を受け、上司があいだに入ってホテル側に確認を取ってくれた。

「私に仕事を妨害されたその人が、していたみたい。わざとぎりぎりに連絡するのとか、私にプレゼン日程を知らせなかったりとか。私に仕事をさせまいとしていたみたい」

 


「めちゃくちゃするな」

 黙って聞いていた瑛主くんが言う。

「どっちもどっちだけど」

 

 ウェディングプランナーのしてきたことは白日の下に晒され、彼女は上司から厳重注意を受けた。配置換えの話もあったらしいけれど、そうなるまえに私のほうが希望して事務方に異動となった。確実な仕事ぶりが求められる場所を選んだのだ。

『君が打ち合わせをすっぽかしているという声があるらしいらしいが、本当か』

 あの日、一瞬でも職務放棄を疑われたことが悔しかった。そのときの上司は、大学を出ているから仕事ができる、高卒だからその程度、と典型的な学歴重視の人だった。それを知るや否や、高卒入社の私は奮起した。同期にも先輩にも負けない実績を残してきた。なのに、戦える場所をこんなふうに失くすなんて思いも寄らなかった。

 程なくして、件のウェディングプランナーの退職を知った。彼女は仕事を休みがちになっていて、見かねた上長による勧奨退職だったと聞いた。


「式を挙げたふたりが最後に大満足してくれたらそれでいいんだと思ってた。でも、ホテル側は一度決めた内容を反故にしてまで無理難題を叶えてくれたのだから、少なくとも私はプランナーさんにお詫びと感謝の気持ちを伝えなくてはいけなかったんだよね。だけど、当時の私にはできなかったし、そんな発想さえなくて。それどころか、本職のプランナーよりいいアドバイスができたとうぬぼれていて……」

 亀田すみれはそんな私のあれこれを知っているから、できれば顔を合わせたくなかった。いかにも仕事のできそうなあの人から、蔑みの視線も嘲りの声も向けられたくなかった。

「私ってば超恥ずかしいヤツだよ、まったくね、ははっ。……以上、報告終わりっ!」


 寝返りを打ち、瑛主くんに背を向ける。亀田さん以上に、瑛主くんには呆れられたくなくて、見放されたくなくて。

「ねえ、聞いてどう思った? 感想は?」

 黙っていられると嫌な想像に押しつぶされそうになるからこんなときは、頭の軽い女の子みたいにノリよく揺さぶりをかけてなにかしらの言葉、吐き出させようってなるよ。

 待てども待てども瑛主くんの返事はなくて、これは呆れられたか寝てしまったかのどちらかだと思いかけたそのとき、ようやく反応があった。周囲の空気を震わせて微かに笑う気配。

「そばにいたかったな。近くにいて、それは違うとか、おまえは間違ってないとか、言いたかった。俺みたいなのにちゃちゃ入れられたら、姫里、すげえ荒れそうだけど」

 くっくっとひとりで想像して本格的に笑い出したんですけど。

「私だって、人の忠告くらいありがたく拝聴しますよ? ムリなときもありますけど」

 そういうことじゃなくて、と瑛主くんがやわらかく制止し、意外なことを言われた。

「姫里の今やっている仕事って、他の事務担当よりはるかに多いって聞いたんだ。重要な仕事があったらまず姫里にあてがわれ、それまでの業務もそのまま抱えたまま、というその繰り返しで、困ったときの姫里頼み。バツイチ姫なんて呼ばれたのは、その上司もまた残業や休日出勤が重なって、家庭を顧みれなくなったかららしいじゃないか」

 知ってたのか、と私は申し訳ない気持ちになった。バツイチ姫たるゆえんは関わると仕事に忙殺されるからというのが真相なのであって、私に目が眩んで浮気して離婚とか、二十代の私といるから家庭への愛がなおざりになったとか、そのような色つやめいた事情では決してないのだ。


「ごめん」

 謝ったのは私ではなく瑛主くんのほうで。

「えっ。どのあたりが?」

「まえに姫里に言った憶えがある。バツなんとかっていうのは、離婚したくなるくらい姫里に魅力あるってことだろうから楽しみ、とかなんとか。会社のために尽くしてきた人にこれほど失礼な態度はないと思う。……悪かったよ」

「真面目か!」

 あはははっと笑い飛ばす勢いで放ったのに、瑛主くんは乗ってはくれなくて。

「……真面目だよ」

 なんて、しんみりした口調が小さく聞こえて、私はどうしたらいいかわからなくなる。

『会社のために尽くしてきた人』と言われた。社内の人で、高卒の私に敬意と礼節を持ってそんなふうに言ってくれたのは瑛主くんが初めてだった。嬉しいのもあるけど、まさか今ここで言われるなんて思ってなかったから驚きが大きくて。それでも嬉しさのほうが勝ったから、背けていた顔を思い切って瑛主くんのほうに向けた。暗がりのなかでだいぶ慣れたとはいえそれでも闇は深く、そもそも私はベッドのそばのベッドの下にいるわけで、顔を向けたくらいでは瑛主くんが今どんな表情をしているかなんてわかるはずもなかった。




 翌朝のテーブルに並んだのはパンと私の手料理二品、それとオレンジ。ただ帰りを待つのも芸がないと思って、使いきれるだけの食材を調達して昨夜瑛主くんが帰ってくるまえにキッシュとビシソワーズを作っておいた。

 休日の朝だし、和食をしっかり取るのもよかったけれど、もしかしたらまた草野球かもしれないし、という読みは当たっていた。食べたらすぐに出かけるのだという。

「昨夜、冷蔵庫開けてびっくりしたよ。料理するんだ?」

 瑛主くんの私を見る目が変わるのが快感になりつつある。

「クッキングサイト見ながらだけどね。ミキサーとか手頃なオーブン皿が棚にあったのを思い出して、少し」

 実を言うと、作るのよりも帰ってくるまでに洗い物まで済ませてきっちり拭いて棚に戻して、という痕跡をすべて隠すのに必死だった。

 うまい、と最初にひとこと言ったあと、瑛主くんは黙々と食べていたのだけれど、あるときふと手を休めて意味深な発言をした。

「参ったな。昨日、部屋で待ってた姫里を見たときも思ったんだけど、こういうのって癖になりそう」

 伏し目がちに笑っていたのがこちらを向いて、ばっちり目が合った。

 姫里は、と言い掛けたその口が続きを言うことは叶わなかった。来客を告げるチャイムが鳴り、応対した瑛主くんが招き入れたのはまさかのサワダ(仮)さん!

「ういっすー、姫ちゃん昨日はお疲れ!」


 どかどかと来られて、私は突然の事態に頭が追いつかない。聞いてない。でも聞いてないのは私だけだったみたいだ。草野球の場所まで案内するから家に呼んでいたんだ……って瑛主くん教えてくれるの遅すぎ!

 座ったままでいたら、サワダ(仮)さんがそばまで来て両手をテーブルに置き、顔を伏せるような体勢から私を覗きこむよう見あげた。

「あっ! ていうか、これ、朝まで一緒だったヤツ!? ひょっとしてあっちのほう? あっちのほうのお疲れ? なあなあ」

 違います、と私が否定するのと、背後から忍び寄った瑛主くんが朝刊で彼の横っ面をひっぱたくのとがほぼ同時だった。

 呻きながら耳を押さえて痛がっていたサワダ(仮)さんだったけれど、痛みから立ち直るやいなや、テーブルのキッシュを勝手につまみ食いしてはなにこれうめえ! と騒いでいる。

「これ姫ちゃん? 姫ちゃんが作ったの? 超すごくね? 僕んちにも来て作ってくんない!?」

「嫌ですよ」

 正式名称もわからない人のために動くのはちょっと。

「嫌なのか」

 私の即答拒絶にサワダ(仮)さんではなく瑛主くんのほうが引っかかりを覚えたみたい。じっと見られ、私は言葉に詰まった。サワダ(仮)さんはテーブルのうえの食べ物がなくなると興味を失ったように場所をキッチンに移し、なにやら物色しはじめている。ただの腹ぺこ?

「あのおにーさんのために作ろうとは思えないでしょ」

 私はサワダ(仮)さんに聞こえないように声を落として言った。瑛主くんはなぜか神妙な顔つきをしている。椅子に座り、コーヒーの入ったカップに手を添えたまま目だけをこっちに向けるから、探るような上目遣いになっている。

「ナオさんには作ったことあるの?」

「え? ナオ? ふはっ……あるわけないでしょ」

 出てきた名前が意外すぎた。私が笑いながら答えると、瑛主くんはよく観察すればわかる程度の些細な変化を口元だけに見せた。

「そう。あるわけないんだ。……よし」

 すぐに手で覆って隠していたけど、遅かったよ。私は見てしまった。瑛主くんの口角がわずかにあがっていた。嬉しいのを堪えきれなかったときのような、そんな笑いかた。なんで私、そんな細かいのを見つけちゃうかな。

「なにを言ってるんだか」

 と言いつつも、私のほうがうろたえてしまった。

 だってそうでしょう。これじゃあ私、瑛主くんにだけ料理を作ったことになる。これじゃあまるで私が瑛主くんだけ特別扱いしているみたいになる。で、瑛主くんもそれに気づいたみたいになっちゃってるっていう……なにこの図式!

 どうでもいいふうを装って、私は使いおわった食器を重ね、瑛主くんの向かいの席から逃れるように席を立った。キッチンではサワダ(仮)さんがビシソワーズの残りを見つけだし、鍋ごと口をつけて飲み干したところだった。


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