04
指定日時に届いたメールをもとに某社の電子システムにログインし、合同説明会で再度手渡された資料の通りにフォルダにアクセス。該当ファイルをデスクトップへ貼ってから印刷し、日付、品目、個数、金額を確認。担当者印を押す場所に付箋を貼って印と書き、再確認の意味で私が目を通した項目それぞれにも付箋を貼ってから青のクリアファイルに挟んだ。
クリアファイルは内容ごとに色分けしてあり、青は作成者にもう一度戻すもの、赤は緊急かつ重要なもの、無色はそれ以外としている。
瑛主くんに渡すと、赤はともかく、青と無色が混ざって帰ってくることが多かった。整理整頓というものが苦手らしい。チェックしている途中で別件の呼び出しが入り、再開したときに戻すクリアファイルが入れ替わっている、というのがしばしばある。あとはフォルダスタンドに放り込んで、いろんな資料に押されてどんどん端に追いやられて……というパターン。
「主任。F社の検収書を郵送したいんですけど、もう目は通しましたか」
瑛主くんと呼ぶこともあるけど、業務中は極力、谷口主任と呼んでいた。話は簡単、彼のことを瑛主くんと呼ぶ人が他に誰もいないからだ。
「おー、F社。F社。F社の検収書」
瑛主くん、言いながら思いだそうとしているな。
「たぶんその机の前のフォルダスタンドに、そうです、左端の青いファイルの」
「あった。はい」
印鑑をもらうだけのお願いでも、私はタイミングを気にするほうだ。外線電話直後や電卓を叩いているときなんかは論外、外出から戻ったときもそれがクレーム処理だった場合は少し時間を置いている。急いで回さないといけない書類のときはそうも言っていられないから、できうる限り申し訳なさそうな声でそっと頼むようにしている。
今日はそのうちのどれでもなかったので、ごくごくあたりまえの事務対応となった。
「三文判でいいのでハンコください。押す場所は黄緑の付箋のとこです」
「いっそこのハンコ、姫里に預けようか」
「いいですよ。私が私用でばんばん押しちゃってもいいのなら。借用書とか借用書とか」
「そうきたか」
怖えーよな、とコピー機の紙詰まりを直していた郡司さんが笑っている。
「俺もおんなじこと言ったらおんなじこと言われた。姫ちゃんなら本当にやりかねない」
郡司さんはまえに私と組んで仕事をしていたので、私の要領をよく心得ている。
「けど谷口よ、おまえもうちょっと円滑に処理してやれよ。姫ちゃんはおまえが手際よく仕事ができるように、いろいろと前もって準備してくれているんだから」
「やだー郡司さん、もっと言ってやってください。あと、その左手の手首に近いところ、トナーの汚れじゃないですか?」
なんで拭いても拭いても機械のあちこちが汚れるんだろうと思ってたんだ、それでかあ、と郡司さんは手を洗いに行った。
私は瑛主くんから返された書類に課長の印をもらうと、別室のコピー機を借りにいった。複写したほうをファイルに綴じる。原本は封筒に入れて郵送用の書類ケースへ置く。
「これも見たから」
「あっ、はい」
席に着いたところで瑛主くんから書類を返され、少し迷った。これも複写を残して原本発送なんだけど、コピー機はまだ紙詰まりから復旧していない様子。とりあえず机のまえの一時保管用ファイルケースに立てておいて、コピーが直ったら処理でいいか。
なんて悠長に構えていたら、郡司さんに呼ばれて私までコピー機と格闘するはめになってしまった。
「助かったよ。俺、機械弱いからさー」
「電源落として、しばらく置いてまた入れるの、やりました?」
「やったよ。何回か。だけどまだ紙が詰まってるって言ってるんだよ、こいつ」
「んー。これはリース会社に電話かな。私、やっときますから戻っていいですよ」
とはいえもうすぐ終業時刻だから、整備は週明けの朝一番にお願いする旨、郡司さんから了解を取っておく。
「なんか、わかったかも」
私の背後で瑛主くんが立ち止まった。紙の束を数枚ずつシュレッターにかけている。
「姫里の憧れてる人って、郡司さん?」
郡司さんは自分の席に戻っている。背後をうかがうと、瑛主くんは片方の眉をあげた。
「当たりだな」
「だったらなんなの」
もうすぐ終業時刻で今日は週末で、そうなると当然疲労も溜まっている。どうでもいい用件に対しては、返事がつっけんどんになる。
「いいんじゃないか? 完璧って感じの人ではないよな、あの人」
瑛主くんは控えめな表現をした。
郡司さんは仕事面では同年代の人たちに遅れをとる形で課長になった人で、私生活では離婚と再婚の経験があった。郡司さんを悪く言う人はいないけれど、だからといって賞賛する人もまたいなかった。目立つタイプではなかった。人を押しやってまで手柄を打ち立てる人でもなかった。
ここが好き、こういうところがいいと思う――そんなふうに言おうものなら、それだけが魅力として伝わってしまう気がした。だからといって言葉を尽くせばいいというものでもないように思えた。
「あの人の醸し出す雰囲気、いいなあと思うよ」
瑛主くんは彼なりの目線をもって勝手な思いを述べ、くすっと笑った。
「そういやこのまえのマンションのあの人、姫川の知り合いのなんだっけ、ナオさん? あの人にも通じるものがあるかな」
「はあ? どこが」
急にナオの名前を出されて素直に驚いた。瑛主くんは、そうだなあと言って楽しそうにシュレッターをかけつづけている。
「大事なものを大事にできるところ、かな」
終業のチャイムが鳴って、そういえば今日だったよね、と思い出したように瑛主くんが顔をあげた。午後七時半に隣駅近くの居酒屋に集合することになっている。亀田すみれさん主催による例の合コンだ。
*
「ええとですね。それって、行くも行かぬも瑛主くんの自由意志なのでは」
「だからあなたに来てほしいんじゃない」
――あの日、亀田さんは頭の悪そうな私の受け答えにも動じなかった。変わらぬ微笑みをたたえていた。白ワインのグラスを持つ指先には、一見してサロンで仕上げたと知れるような透け感のある青系グラデーションのネイルが施されていた。麗しい人というものは身体の先端まで抜かりなく麗しいのだった。
「瑛主くん、きっとあなたのストッパーになるつもりではりきってやってくるもの」
それまで谷口くんと呼んでいたその口が、突如、瑛主くんと言った。なんでも瑛主くんは大学時代のサークル仲間だったのだそうで、大学自体は別だったの、とこちらが求めてもいない補足まで丁寧にしてくれた。
これはもう、行く行かないの返事のできる段階ではなかった。亀田さんのなかでは合コン開催が決定事項であって、形式として参加の返事がもらいたいだけなんだと思った。結婚披露宴の招待状のようなものだった。
職場の歓迎会で聞いた、瑛主くんに恋人がいるという情報はこちらからは言わずにおいた。私は過去の仕事のことで亀田さんにはっきりと苦手意識を持っている。面倒になりそうなことは極力避けたかった。
*
会社の更衣室で化粧を整え、誘いにふたつ返事で乗ってくれた同じ職場のあきちゃんと居酒屋ののれんをくぐる。
掘り炬燵式のテーブル席で亀田さんと他数名が待っていた。
「谷口くんは遅れるって?」
「すぐ行くとは言ってましたから、もうじきかと」
「じゃあ先に飲み物頼んでおきましょう」
くじ引きで決めた席は、私が壁際の奥からふたつめ、あきちゃんは通路に近い席だった。四人掛けのテーブル席が三つ。男女がきっちり交互に座っているから、合コンであることがまるわかりだ。紐状のストリングスカーテンが間仕切りとしてあるけれど、気休めにしかならない。
お互い社会人のせいか、はたまた幹事の人徳か、学生時代のときのようなはっちゃけた人はおらず、テーブル単位でまとまって話に花が咲いていた。瑛主くんもあのあとすぐに合流し、亀田さんの隣の席へ。それを確認した私は、これで瑛主くんを連れてくるというお役目は果たしたと安心し、お酒の席の与太話に興じていた。
「正気、保ってる?」
トイレから戻る途中、席を立った瑛主くんと通路で鉢合わせになった。
「愚問を。まあ、ここのところ飲み会続きだし、控えめにしてるよ」
「ならいいんだけどさ」
そこで一瞬、変な間があった。心配性だなあ、と笑って通りすぎようとしたら、行く手を阻まれた。
「もし変なのに絡まれたら、俺を巻き込むこと」
「え」
「少しでも『どうしよう』って思ったなら、躊躇わずに俺に声をかけて」
黙っていると、返事は? と問いただされる。
「や、そんな危険な雰囲気、ないよ? みんないい人そうだし、おもしろいし」
「ふーん。ああいうのがおもしろいのか」
瑛主くん、わかりやすくおもしろくなさそうな顔になっている。こういうのは珍しかった。
「やっぱり、止めとくんだったな」
「なにを」
「この合コン。もうみんなに声かけたからって亀田に言われて、断りきれなかったけど、阻止すればよかった」
「出会わないのは瑛主くんの勝手だけど、人様の出会いを阻止する権限はないのでは」
「言うね」
片手で肩を壁に押しつけられる。驚いて見あげたら、なんてことはない、通路を通る従業員の邪魔になっていただけだった。でも、その人がいなくなってからも、瑛主くんの手は私の肩に置かれたままになっている。
この人、なにげなく私に触っているけど、まえに『触ってやらない』とかなんとか言ってなかったっけ? あの宣言はどこいった?
「じゃあ、もともと今日のセッティングを亀田に頼んだのが俺だった、って言ったら? 一度は頼んだものの、反応が芳しくないからやっぱりやめようとしたのに間に合わなかった、って言ったら?」
なんだ? なにかがおかしい。合コン頼んだの、俺なんですか?
肩に置かれた手が外される。それを機に私は額に手を当てて、俯き気味に考える。
そもそも、彼女のいる人が合コンしたがるものなんだろうか。人数合わせや義理があって参加するのならともかく、こんな、企画しなければよかったみたいな言いかた……。
「えーと、違ってたらごめんなんだけど」
首を傾げながら、おずおずと小さく手を挙げ、聞いてみる。
「瑛主くん。彼女いるって言ってたあれって、嘘なの?」
「嘘じゃない。方便」
「あっそう。いないんだ」
どういう言いかたをしたところで彼女がいない事実は変わらないのに。
「大変だね。男の人には男の人にしかわからない妙なプライドがあるんだね」
小馬鹿にしたような物言いが気に障ったのか、瑛主くんは私を見据えたまま動かない。私のほうが先に目を逸らした。斜め下の床付近に目を向けていたら、顔の横に右手が伸びてきた。
「言いたいことあるなら言ったら? 怖くなんてないんだから」
「だったら俺の目を見ろよ」
怖くないなんて嘘。背後は壁で、瑛主くんが数十センチの目のまえにいて、肘のあたりからそのまま壁に手をついている。そのうえ、さっきから顔を凝視されている気配が。
ぶつかりそうな距離でそういうことをされると、顔に熱が集まってくる。店の喧噪がどこか遠い。それ以上に鼓動が激しくて。心臓の音とかもう、これ相手にバレているレベルじゃないかと。
「逃げないの?」
「瑛主くんでなかったらぶっとばしてる」
直後、小さく笑われた。指先を唇に当て、小刻みに肩を揺らしながら。それを合図に、私は瑛主くんのそばから抜け出した。笑みの残る目がこちらに向けられていた。私は束の間ながらぼうっとなっていたらしい。
「それならいいけど、あんまり隙見せるなよ。簡単に迫ってくるヤツは、他でもそれやってるからさ。……聞いてる?」
「聞いてる。呼んでいるみたいだから、戻るね」
瑛主くんの発言で、誰のための合コンなのかよくわからなくなっていた。それでも、飲み食いしながら今を楽しめればいいと思っていた私は楽天家なのかもしれない。
「ちょっと一緒に来てくれないかな」
次のお店の話題が出そうな時間帯にそう言ってきたのは、サナダさんだったかサワダさんだったか。名前はうろ覚えだけど私の隣で積極的に話に食いついてきた男性だった。仮にサナダさんとする。
サナダさんは顔の彫りが深くて身体も大きかった。商社勤務で海外出張から戻ったばかりだから、目に映るものすべてが小柄な日本人サイズに見えるなどと、本気か嘘かわからないワールドワイドなトークを繰り広げていた。向かい側に座る女の子はそこかしこに漂う自慢話の匂いに引いていたけど、私はおとぎ話として聞くには別に構わないんじゃないかと思った。彼は有名大学卒の一流企業勤めのエリートで、私は高卒しかも全国に支店があるとはいえ中小企業の単なる営業補佐。住んでいる世界が違うと文句を言う気にもならない。
「えーと、それで、どこまでついていけばいいんですかね」
狭い席の背後をごめんなさい連発で抜け出し、靴を履いて通路を抜ける。このままだと店の外に出てしまうのではと思ったら、開いた自動ドアからお客さんがなだれ込んできて、ここにいるのは邪魔だからと入れ違いで外に出てしまった。
「あの。私、バッグもスマホも置いてきちゃったんですけど」
んーとか、ああとか、曖昧な声を発しながら、私の腕を掴んだサナダさんは突きすすむ。ひとつわかった。ヒールのある靴を履いていると踏ん張りが効かない。引っ張られるがまま、つき従うしかなかった。
まるっきりの手ぶらで外を歩くなんていつ以来だろう。落ち着かない。それでも、場所を変えて用件が済めばすぐに戻らせてもらえるものと思っていた。
サナダさんの歩く速さは変わらなかった。明確な意志を持ち、目的地もはなから決めてあるような素振りに、さすがに私も不安を感じはじめた。
「戻りましょう。みんな、心配してますよ。あいつらばっくれやがったなーとか、言われちゃってるかも」
「うん、まあそれでもいいんじゃない」
サナダさんは耳を疑うようなことを言った。街明かりに照らされるやや後方からの顔からはなにも伝わってこない。ただ前を向くのみだった。
「言わせておけばいいって。事実なんだし。飲食の金なら君も同僚が来てるって言ってたし、立て替えてくれるでしょ。そんなことより腹減らない?」
はあ? と思いっきり声に出してしまった。
「メシ、食おーぜ。メシ! あっちでボリュームあるもんばっか食ってたら、胃袋でかくなったみたいでさ。食っても食ってもたんねーの。歩いたら腹減ったあ。あと、喉乾かない?」
「喉は乾いたけど……」
私はあっちとやらに行っていないので胃袋大きくなっていないし、そもそもそんなのにつきあえるような関係ではないよね。忘れてないと思うけど今日が初対面だったよね。
――とは言わせてもらえなかった。
「よおっし、決まりっ! じゃあさ、雰囲気いいところと遠いけど肉のうまいところ、どっちがいい?」
「遠いとか無理」
「わかった」
ここにきてサナダさんの足が止まり、ほっとしたのも束の間。サナダさんはこともあろうにタクシーを捕まえようとする。
「はあっ? え、無理無理無理!! なんなの? どこ行く気?」
その一台は先客があったけれど、タクシーは捕まえやすそうな繁華街だから、空車に出くわすのは時間の問題だった。
「ホテルの最上階のラウンジ。夜景が綺麗なんだ。あとメシもうまい」
「メシそんな大事ですか」
「それ、そのノリな」
サナダさんはこちらが面食らうような鮮やかな笑い顔になった。
「いいよ、姫ちゃんて最高」
そして酔った顔を近づけてそうささやいたものだから堪らない。身震いがした私は、拘束されていない反対の手で自分を守るように抱いた。
「どんなに私のこと誉めてくれたって、笑顔を向けられたって、あなたが大きくて屈強な男でしかも私の二の腕を掴んだまま放さない時点で、到底乗り気になれないんですけど」
掴まれている腕を振り切って逃げたとしても、きっと追いつかれる。この靴でも走れるけれど、ストライドの差はどうにもできない。横をただ歩くのだってきつかった。男の足の長さがこんなにも忌々しく思えたのは初めてだ。
様子を窺いつつ、確実に逃げきれるところで逃げに転じるしかない。このへんに交番でもないだろうか。……ないな。
そのとき、腕を掴んでいた手がするりと抜けて私の腰を横から抱いた。
さすがにここまでされると本能が危険を知らせてくる。私、女として求められている!
「ちょっ……なっ、困るってば! 私、今、スマホどころか定期もお財布もないし!」
こういう危険が迫るとき、どう言って逃れればいいのかわからない。ただ代わり映えのない文句を垂れ流してしまう。
「僕とずっと一緒にいればいいでしょ。ちゃんと家まで送るから」
「じゃあ送れ。今すぐ送れ!」
強いのは口先だけで、いつからか腰が引けて身体の芯に力が入らなくなっていた。どうなってしまうのかと不安と恐怖がない交ぜになって私に襲いかかってくる。
その一方で、一縷の望みも捨てきれずにいる。一流大学を出て、いい会社に入っている人が、三十そこそこにもなって、いい加減なことをするだろうか。サナダさん自身が言ったように、本当にごはんを食べて家まで送ろうとしているだけなんじゃ……。
「うん。なら、あのタクシー乗ろうね」
滑り込むように目の前にタクシーが止まりドアが開く。サナダさんは酔っぱらいを言い含める体で私を詰め込もうとする。抵抗するもむなしく座席に追いやられ、あとからサナダさんが巨体を屈めて乗ってきて、座ると同時に車体が揺れた。閉じこめられて蓋をされたような気分。
『もし変なのに絡まれたら、俺を巻き込むこと』
『少しでも『どうしよう』って思ったなら、躊躇わずに俺に声をかけて』
瑛主くんは言っていたけれど、巻き込もうにも声をかけようにも遠くまできてしまった場合はどうすればいいんですかね?
行き先を告げるサナダさんの声に被せるように、私降りますと言うのと、助手席の窓が外からノックされるのとが同時だった。信じられなかった。考えるよりさきに声が出た。
「運転手さん、その人知り合いなの。その人も乗せて!」
運転手は即座に助手席のドアを開けてくれた。乗り込んできたのは瑛主くんだ。
「二次会の会場が決まったから知らせにきたよ」
しれっと瑛主くんは言った。サナダさんはというと、一瞬だけ憮然とした顔を見せたけれど、すぐに気を取り直したようで、それはどうもありがとう、と言った。
「あと、これ。姫里、早く次の場所に行きたいからって慌てすぎ」
居酒屋に置いてきた私のバッグを差し出してきた。どうもありがとう、と今度は私が言った。
合コンのメンバーは先に到着していた。不参加の人が数名いるようだけど、もう顔さえ思い出せなかった。
「カラオケとボーリング、行きたいほうに混ざってくれる?」
数年前にできた複合型レジャー施設だった。他にもバスケットボールコートやフットサルコート、ゲームセンター、ゴルフの練習場の設備などがあった。私もできたばかりのころに何度か来たことがある。
亀田さんのニ択を受けて、手招きしているアキちゃんのほうに行こうとしたら、さっきまでメシメシ言っていた人のほうが行動が早かった。
「あ、バッティングセンターもある。姫ちゃん、あっち行こ?」
「え、私はアキちゃんとボーリングがいいかなあ、なんて」
「あの子、同じ会社なんでしょ? また今度行きなよ」
やんわりとではあるけれど、私、ノーの意志は表明したよね? なのにサワダさんてばまるで無視してぐいぐいくる。メシいらないでしょ。カロリー足りてるじゃん。頭、充分動いてるじゃん。
オーディエンスも積極的なサワダさんの味方みたいで、好き放題言っていた。
「いいぞーもっとやれ!!」
「見えないところでもっとやれ!」
「てゆーか、もうおまえらどっか行け」
「そうだそうだ。なんで戻ってきたんだよ。あのまま消えとけよ」
「えーでも彼、今日一番のイケメンだし」
「だよね。せめて連絡先寄越せって話」
「終わったらこっちにも来てね~」
「バカ野郎。終わったらとか、終わったらとか、んな破廉恥なこと……!」
「えー、沢田くんやらしい!」
「そうだ。やらしいぞ!沢田くん!」
バッティングセンターくらいなら、と取りあえず誘われるままついていく。思ったことはふたつあった。
この人が一番のイケメンだったのか! ってことと、あっちの人がサワダさんならじゃあこの人は誰やばい名前わかんない! ってことだった。
「イケメンだから許されるんだよねー、ああいうのって」
そんな言いたい放題オーディエンスの声を背中で聞けば、脳内補正もかかる。他の人の目にはいい男として映っているらしいから、どこかに連れ込む意図はなかったのかも。私となかよくしたいだけだったのかも……。
バッティングセンターは半分くらい空きがあった。ピッチングマシーンからボールが飛んできて、打って、いい当たりだとヒットだとかホームランだとか、正面スクリーンにでかでかと文字映像が表示される形式だった。使っているのは男の人が大半だったけれど、デートと思われる男女のペアもいた。
「やった! 女の子も打ってる」
「なに、姫ちゃんも打ちたいの?」
バットとヘルメットを渡され、係りの人から説明を受けているうちに私もやってみたくなったのだ。
「じゃあ賭けようか。姫ちゃんが勝ったらなんでもいうことをきいてあげる。僕が勝ったら……そうだな、君のこのあとの時間を僕がもらおうか」
私を見おろしながら不敵に笑うサワダ(仮)さん。そうやって溜めながら言って、私の表情が移り変わるのを楽しむつもりだったのだろう。
だからそのとき、彼だけが気づいていなかった――瑛主くんの接近に。「その賭け、俺も混ぜてよ」
またあんたか、とサワダ(仮)さんがつぶやく。
「言っとくけど俺、経験者だよ。高校のときには全国にも行った。野球好きなら名前を聞けば『あーあそこか』ってなるくらいには有名校だったんだけど……それでも相手してくれる?」
ぜひ、と答えた瑛主くん。サワダ(仮)さんに対峙したまま、顔だけをこちらに向けた。
「姫里もいい?」
「オッケーオッケー! 私だって負けるつもりないですよ!」
運動神経はそこそこいいほうだったから、やったことなくても自信はあった。すごくおもしろそうだし、人が打っているのを見れば見るほどなんだか打てる気しかしなかった。さあこのたかぶりの冷めやらぬうちに! とわくわくしながら急いで荷物を置いて手首を回しはじめる。
「そう。なら、俺も同じ条件にするよ。俺が勝ったら姫里をもらってく」
静かな声で告げた瑛主くんはこちらに一歩二歩と近づくと、
「そういうわけだから、覚悟してて」
とにこりともせずに言ったのだった。