03
昼休み終了十分前に講堂へ行くと、あきちゃんと入れ違いになった。ここは十四時までは食堂代わりに利用できることになっていて、大半の人がここで昼食を取っている。
お疲れさま、と言いながらも現金なあきちゃんは右手を差しだしてたかってくる。私は大久保さんからもらったチョコがあるのを思いだし、そこに置いた。
「泣いてるかもだけど」
「泣く?」
「ああごめん。方言だった」
ほんとだ、と言いながらももうあきちゃんはチョコを口に放りこんでいる。さっきの件を話したかったけれど、時間がないからまた今度にしよう。あきちゃんと別れて、人のまばらになった講堂の端の席でひとり、コンビニのお弁当を広げた。
また今度――そう思っていたのに、それより早い機会が訪れてしまった。
「まだ帰らないの?」
聞いてきたのは瑛主くん。それはこっちのセリフだった。うっかり帰りが一緒になろうものなら昼の話題を蒸し返される気がして、あえて時間をずらそうとしているのに、まだ帰らないんですか。
「もう少しやっていく。お疲れさまです」
パソコンに向かったまま返事をすると、そばを離れる気配があった。ディスプレイの下に表示されている時間は十九時五十分。室内で残業しているのは私以外に二、三人といったところか。
瑛主くんはDホテルから戻ってきたあと、外出中の連絡事項を確認し、最後に私にこう尋ねたっけ。
「さっきの誘いだけど、なんだってあそこまで頑なに拒否したんだ? 姫里のイメージと違わない?」
仕事がたまっていて早く帰社したかったから、とそのとき私は答えた。
たまっていたのは事実だったけれど、明日中にあげればいいもので特に急ぎではなかったし、残業なんかしなくても余裕で片づくものだった。そっか、と軽く返事をした瑛主くん。あーもう、私だけが一方的に気まずくなっていく。
はい、と背後から声がすると同時に横から腕が伸びてきて、デスクに缶コーヒーが置かれた。
「えっ、これ……」
「昼にイレギュラーなおつかい、頼んだから」
小さい声がびっくりするくらいすぐそばで聞こえ、反射的に仰ぎ見たら瑛主くんの顔があったから仰け反りそうになった。でも動けなかった。瑛主くんが私の椅子の背もたれとデスクの端にそれぞれの手をかけ、囲いこんでいる。
「もらってよ」
低い声が近いところで響いた。たったそれだけのこと。なのに私の心臓は早鐘をうち、勝手に耳や顔に熱が集まっている。
このくらいの会話なんてあきちゃんと平気でやっているのに、昼にやりとりしたメッセージだってこんなノリだったのに、相手が違うだけでどうしてこうなっちゃうの?
ふつふつと沸いてきたのは、一切合切を認めたくないという思いだった。
「ミルクコーヒーか。イケメンには及ばないね」
なんとか話の糸口を見つけて、いつもの調子を取り戻そうとした。
「なにが」
「こういうとき、イケメンだったらさ、私がまえになにを飲みたがったかを覚えていて、それを渡してくるんじゃないかなーって」
ミルク入り微糖コーヒー、と書いてあるけど全然微糖じゃないんだ、これが。その冷たい缶のプルタブを起こす。
そしたら、その缶を奪われて別のを渡された。
「間違えた」
ふわっと気配が離れる。瑛主くんは笑っていた。
「あの……ありがとう」
「うん」
瑛主くんはその笑みを引っ込めて、今度は室内に残っていた面々のところにも順番に飲み物を配りにいった。流れ作業的な、ただの配給のような無骨で素っ気ないやり口で、私のときとはえらい違いだった。格差ありすぎて見ているこっちが冷や冷やしたけど、もらったほうはなんとも思っていない様子。
やがて瑛主くんはこっちを振り向いた。目が合ったことで、彼の動きをそれまでずっと追っていた自分に気づかされた。
私の手元にあるのは冷たいロイヤルミルクティー。まえに家に行ったときに私がふざけ半分で飲みたいと言った飲み物だった。
「やっぱり、帰ります」
突っ張っているのが馬鹿らしくなり、パソコンの電源を落として帰り支度を整えると、エレベーターのところで瑛主くんが追いついてきた。
これはもう、待っていてくれたということだよね?
「亀田さんからなにか、聞きました?」
「姫里のことは昔の商売敵だって」
一緒に帰るつもりなのだとしたら、せめて駅に着くまでにはこの話に決着をつけたい。黙っているの苦手なので言いますけど、と前置きをして私は一気に語った。
「商売敵なんていうと聞こえはいいけど、そんなんじゃないです。いつも全力投球の私に対して、亀田さんは余裕と自信に溢れる提案をしていて、比べるのもおかしいくらいで。私じゃあ勉強も経験も足りなくて、ちっとも相手になってなかった。挙式予定のかたのご両親が付き添われる打ち合わせのときは、たいていあちらに契約を取られていて、私のほうは若いカップルにわりとウケがよかったから、なんとなく棲みわけができていたけれど」
記憶がよみがえる。仕事を取れたことも逃したことも。自分の手腕がすべてじゃない。相性だってある。わかってる。でも悔しい。悔しかったんだ、あのころの私は。
「当時は私、そんなことちっとも思っていなくって。亀田さんの会社のほうが大手なのは仕方ないけど、じゃあそれはそれとして、どうにかして亀田さんとこの牙城を崩してやろうと――躍起になってた」
道端で真面目に語りすぎてしまった。
「まあ、そういう関係です」
よしよし、駅どころか手前の交差点までしか来ていない。赤信号になってなにげなく仰ぎ見たら、瑛主くんはスマホの画面を見ていた。
え、まさかの歩きスマホ? 私の語り、聞いてなかったってやつ?
「少し飲まないか。しゃべりたりないだろ」
スマホで店を探していたらしく、私も何度か足を運んだことのある焼鳥屋さんが画面表示されていた。タレのかかったねぎま……生ビール……。
「ぜひ、お供させてください!!」
スイッチ入るよね、初夏の残業のあと、そんなおいしそうな画像見せられたら。スイッチ入るよね。
「っていうかあれですね! 今日の瑛主くん、ネクタイ素敵ですね! イケメンですね!! なんで気づかなかったんだろう」
「おい」
「信号右に行ってすぐ左、そのあとしばらくまっすぐです。さ、急いで」
「早っ。変わり身、早っ」
混んでいるかもと思うとき、周りの通行人も同じ目的地に向かっている気がしてくるのはなぜなんだろう……。
幸いにもちょうど空いた席があってすぐに座ることができ、瑛主くんの思惑がなんであれ、少なくとも私のおなかは膨れた。焼き鳥はどれも絶品、鯛の兜焼きもたいらぎ貝のカルパッチョもたことアボカドのわさび醤油あえも冷やしトマトも鰹節のかかった豆腐サラダもみんなおいしくて、飲むほうよりも食べるほうが進んだ。ビールからわりとすぐに日本酒にしたからおなかへの収まりがよかったのかも。
「瑛主くんどうしよう!? このおにぎり、たらことチーズが入ってる!! しかもたらこは半生!」
「ああ。……よかったね」
「おにぎりだよ? おにぎり頼んでさ、フツー、こんなの出てくるとは思わないじゃない……あっ、胡椒が効いてる! おいしい! おいしいっ!」
後ろのほうのテーブル席から、あ、じゃあおにぎりもー、と注文する女の子の声が聞こえて、はたと我に返る。はしゃぎすぎた……。
今気づいたけど、瑛主くんも顔を背けて肩を震わせている。笑いをかみ殺している、みたいな?
「止めてよ」
「止める必要ないだろ。どこまで突っ走るか、見ていて楽しい」
亀田さんの話題にはならなかった。場所を変えたらもう完全に喋る気がなくなっていたし、なにより食べるのが忙しかった。
瑛主くんも無理に話を戻そうとはしなかった。そういうところはとてもいいと思った。
なのに、だ。
「本当に誰ともつきあっていないの?」
そんなことをこのタイミングで聞くとか、どうなの。次のひとくちに行く手が止まったじゃないの。とてもいいとか、こっそり評価した直後にこういうことを聞くってさ。私じゃなくたって動揺するよ。
「いるんだ?」
私はおにぎりを頬張ったまま首を横に振る。ううん、今はおにぎりのことだけを考えたい。鮭もふっくらしていておいしい。ランチで買ってるコンビニのとは違うなあ。
おにぎりを平らげるまで、沈黙が続いた。
「憧れた人は、いる」
いつもの強い目を向けられていた私は耐えきれなくなって、やむなく打ち明けた。賑やかな店内の話し声に紛れてしまえばいいと思った。
「えっ、今、なんて?」
ほんとに聞こえないとか、マジ勘弁してほしかった……。
「いるって言ったの! こっちが一方的に憧れてた人っ! 別にどうこうしたいとか、そんなんじゃなく、ただの憧れで」
からかわれるのはまっぴらだった。瑛主くんの顔をまともに見られなかった。でもなにか言ってほしい。そうっと瑛主くんの口元を窺うと、へえ、という形に動いたような気がした。
「好きになることくらい、あるよな」
それきり瑛主くんは黙ってしまった。顔に表情の出にくい人で、職場でも一部の人からは怒っているのかと相変わらず恐れられているくらいで、なのになぜかそのときの私には寂しそうに見えた。彼女とうまくいっていないのかな。
「私、聞き役くらいならなれるから。もし話したいなら言っていいからね!」
ドンマイと肩を叩いたら、すっげえチカラって笑われた。
「だからってこっち来んな」
「いやー、安定の拒絶ですな」
所変わって、ここはナオのマンション。いつもなら挨拶しながら勝手にあがりこむところだ。ナオは在宅のときは決まって鍵をかけないので、それが可能なのだった。
玄関先で私は手土産の入ったビニール袋をあげてみせた。
「ほら、限定のあげポテト博多明太子味。好きでしょ」
「それはおまえだろ……ってゆーか、さ」
ナオにしては珍しく言葉を濁らせている。私の背後を気にしている。
「誰?」
「誰って、見てわかんない? 私の同僚……あれ、同僚だっけ?」
相当酔ってる、と私の後ろに立つ人物が言う。酔ってなんかない。ただふわふわしているだけ。そう言いたいのにうまく口が回らなくて、もういい黙ってろと言われて黙った。
あれれと思っているうちに後ろのその人、瑛主くんは説明をはじめた。自分は同期入社で最近異動で私の上司になったところで、今夜は仕事帰りに一緒に飲んでたとかなんとか。真面目かよ。
「真面目だよ」
「あれっ、ツッコミが声に出ちゃってた?」
「相談に乗ってやる、いい場所を知っているからいこうって、ずっとそればっかり繰り返していて……で、今に至ります」
ふんだ、ノコノコついてきたのはそっちじゃん。瑛主くんじゃん。それからさあ瑛主くん、さっきから私の肩に置いたままのこれ、この手はなんなの。
「それは失礼しました。とんだご迷惑をおかけしたようで」
ナオが素手で額の汗を拭いながら、浅く頭を下げた。着ているボルドーのティーシャツは首がよれているだけでなく、ベランダで長時間干しすぎたために上のほうだけ激しく色あせをさせてしまっている。
「いや。迷惑とは思ってないんで」
肩に置かれた手にぐっと力が込められる。これでは肩を抱かれているも同然だ。どういうつもりか探ろうと振り返ると、そこにいた瑛主くんは私などまるで気にとめず、ナオだけを見ていた。
「まともに話せないようなので、今日は俺が送っていきます」
言われるがまま、瑛主くんと駅のタクシー乗り場まで向かう。
「今の人、ナオっていうんだけど」
「うん」
「ナオの格好を見て、勝った、とか思った?」
「別に。なにも」
瑛主くんは営業マンのわりには多弁なほうではないのだけれど、ナオのマンションに立ち寄ってからこっち、急速に口数を減らしている。
「嘘だね。その言いかた、勝ったとは思わなかったかもしれないけど、なにか思うところはあったっぽい。そうでしょ?」
露骨にため息をつく瑛主くん。
「あのマンションさ、最初、姫里の家なのかと思ったんだよ。でも姫里は実家からの通勤って言ってたから、立地や築年数的に少しイメージと違うかな、って引っかかって。そしたらあの人が出てきて、会話の感じからして一緒に住んでる家族ではなさそうだし……どういう人? 姫里の兄弟かなにか?」
「勘弁してよ」
思いがけない思考に噴きだしてしまった。
「兄弟じゃないよ。中学からの同級生。悪友と言ったほうがわかりやすいかなあ」
一瞬の間があった。瑛主くんがなにかつぶやいた。こんなふうに聞き取れた。『勘弁してよはこっちのセリフ』
「えっ、なに?」
「飲み過ぎはよくないって言ったんだよ」
と唐突に言うと、瑛主くんはタクシーの後部座席に私を押し込んだ。
「タクシーならひとりでも帰れるな?」
「帰れるけど。どうしたの急に」
「もっと話したかったから送るつもりだったけど、やめておく。じゃあまた明日」
なにが彼をそうさせているのか知らないけれど、これでお開きにしたいのなら従うより他はない。
私を乗せたタクシーは平日の夜の道をすいすいと走った。
ナオにあげるはずだったコンビニのお菓子袋を持ったままだと気づいたのは、車窓からの景色が見知ったものになってからだった。半透明の袋越しに透ける文字におやっとなってよく見ると、京風だし醤油味と書いてあった。おまけにこれ、ポテトじゃなくえびせんべいだ。見た目の写真、全然違うし! どうしてこうなった!?
飲み過ぎはよくない――別れ際に言われたひとことが嫌でも脳裏をよぎったのだった。
「はい、お土産。えびせんべい京風だし醤油味だよ」
「なんかうまそう」
寄るつもりだったお店になにかの理由で行きそびれてしまうと、近いうちに必ず行ってやろうと思う。そんなノリで日を改め、ナオの部屋を訪ねた。
ナオは食事中だった。にぎり寿司をもくもくと食べ、容器を空にしてからペットボトルの緑茶で喉を潤すと、私の持ってきたお菓子を開封してつまみはじめた。
そのころには私は定位置に座り、リモコンでこれと選んだバラエティー番組にのめり込み、笑い声をあげていた。なりふり構わず笑いに走って笑いを取れるイケメン俳優は無敵だ。無敵生物!
「そんな悪そうなヤツには見えなかった」
「誰の話ー?」
「このまえお前が連れてきた男。強面の、きりりとした……なんつーか、銀幕のスターみたいな面構えの」
ナオのほうから話題を持ちかけるなんて珍しかったし、その銀幕のスターという単語のチョイスが絶妙すぎて、私はテレビそっちのけになり、すぐに話に食いついた。
「なになに、ナオの目には瑛主くんが銀幕のスターに映った、と? 言われてみれば昭和っぽい! ウケる!! どーして今まで気づかなかったんだ!!」
「え、えいすくん? すげえ名前」
「ああそっか。私たちは普段からそばにいて、しかも顔が怖い系統だから無難に接するほうに無意識に舵をとるけど、ナオは関係者じゃないもんねえ。ストレートに言えるよね。にしても『銀幕のスター』は言い得て妙だね。さすがだね。漫画描いている人は言うことにキレがあるね」
仕事が締め切りを終えて一段落しているそうで、ナオは私の話し相手になってくれている。瑛主くんの本名が谷口瑛主であることや社内での様子、私からみた人となりを伝えると、ナオは首をかしげた。そして、私をじいいっと見た。
「ひとつ、聞いていい」
「どうぞ」
「姫はあいつに惚れてねえの?」
「惚れる? 好きかどうか、ってことだよね。彼氏にしたいとかそういう」
ナオから目を逸らし、しばらく考える。
「彼氏にしたい、とは思ってない。そう考えると、特に好きとは思っていなくて、惚れてもいないってことになるかな」
ナオはなにも言わなかった。私はこの沈黙が嫌で、そもそもこの話を掘り下げる価値があるのかと問いかける意味も込めて補足した。
「あのさ、瑛主くんは職場の飲み会の席で彼女いるって公言してるんだよ」
「じゃあ聞くけど、お前なんであのとき俺んちにあの人連れてきた」
「質問はひとつじゃなかったの?」
「揚げ足取りはいい。答えろよ。お前、相当ひどいことやらかしてるかもしれねえんだぞ」
今度は私が黙る番だった。ナオの指摘がわからない。ひどいこと、ってなに。
「今日の俺がオフだったことに心から感謝するんだな」
とナオは偉そうに前置きをして話しだした。
「あっちの目線で物事を考えてみろよ。職務内容の違いはあったとはいえ、姫は同じ会社で同じ年数働いてきた相手だ。今は部下で、ふたりきりで食事に行って奢ってやろうくらいの情は持っている。盛り上がって、女のほうが上機嫌で『相談に乗ってあげる』だの『いい場所に行こう』だの言い出した。大人の展開、期待しないほうがおかしくね?」
「待って、私」
そんなつもりじゃなかった、とは言わせてもらえなかった。ナオの表情に、発言に、徐々に侮蔑が混ざっていく。
「連れて行かれたのはマンション。なかから薄汚れた男が出てきて、一気に期待は消失。むしろ死角から横っ面ぶん殴られたくらいの衝撃。姫が平然と話している相手の男は誰なのか。まさかの恋人なのか。だったら姫を恋人んちに送ったってことになる――」
「でもあのとき瑛主くん、送っていくって宣言してたじゃない。私を連れてここを出ていったでしょ。ここが私の帰る家じゃないって、わかってたってことにならない?」
それに、帰り道でナオのことを聞かれた。恋人なんかじゃないことは伝えられている。
「酔っぱらった状態で男の家に上がり込もうとしていた女を押しとどめて、女の家まで送ってやっただけ、と。ふーん。俺はてっきり、女癖の悪い男を懲らしめようという姫の策略かと思った。あの人を連れまわして期待させるだけさせといて、実は恋人がいましたって鼻先でドアをぴしゃりと閉める寸法だったのかと」
「違うよ。え、でもナオがそう思ったってことは、瑛主くんも同じように思っていたかもしれないってことだよね」
まだある。別れ際の瑛主くんの発言だ。
『もっと話したかったから送るつもりだったけど、やめておく。じゃあまた明日』
瑛主くんの気が変わるなにかが、私との会話のなかにあった――?
「そうか。私、いろいろとやらかしていたのね」
「酒って怖えー。いい機会だからおまえ、俺んち来て飲むのやめれば?」
「お酒が怖いんじゃないよ。あの日は日本酒も飲んでたから。飲みかたの問題」
「成人してから何年になると思ってんだよ。未だに酒で失敗するとか、ありえねえ」
「うるさいな。そのときそのときで外ではいろいろあるの」
この話はこれでおしまい、とばかりに空き缶とゴミを片づける。トイレまで借りて出てきたところで、
「おまえはひいき目なしで見て、まあまあきれいめの部類にはいると思う」
と、ナオが妙なことを言いだした。
いや、自分の容姿への誉め言葉を妙と言い切っちゃうのもおかしいか。
でもわかるんだよ、このあと、逆説的展開が待っているって。
「だけど」
ほらね。
「男のいねえ期間がずっと続いてる。理由のひとつは俺だと思う。学生時代が続いてるような気分でいるだろ? 安易に安らぎを手に入れているから、男で満たされたいって思わなくなってる。俺は自分が二次元で満たされていて三次元の女に興味がねえから、自分のことのようによくわかるんだよ」
声がかすれて咳こんだナオは、一回ミネラルウォーターを口にする。
「おまえはいつまでもそんなんでいいわけ? 手に入るかもしれねえもんがあるのなら、一回求めてみれば? 俺んとこにくつろぎに来るのは、それからだって遅くはねえだろ。ガツガツ迫る肉食獣みたいな男なんてそこんじょそこらにいねえんだから、いたとしてもおまえの前にはこれまで現れなかったんだから、これと思った相手には欲しいって言って、おまえのほうから攻めていかねえと。そうでもしなきゃ永遠に彼氏なんてできねえ……」
「なんなの突然」
私は最後まで聞かなかった。遮ってやった。
「お説教なんか聞くつもりない。はっきりいって不快。不愉快。私があんたの心配するのであって、なんであんたに私の心配をされなきゃなんないの。もう、帰る!! もう来てあげない!! バイバイ!!」
口だけじゃない、頭のなか、ぐるぐるぐるぐるナオへの悪態が沸いては巡り沸いては巡り、座っていることなどとうにできなくなっていて、バッグをひっつかんで玄関へ。
「待て」
そんな私の背中に声が掛けられ、なにかと思ったら、
「これは俺がこのあとおまえに走るっていうフラグじゃねえからな。それだけはどうしても言っておきたい。よし、行っていいぞ」
――ありえないでしょ。
エレベーターに乗り込むまで振り返ることはしなかった。
「フラグとか……アホすぎる。知ってたけど」
それでも、マンションから一歩出て、まだ昼の暑さの残る外気に触れるころにはさすがに正気を取り戻していた。
言われた意味をじっくり反芻する。路肩に寄り、スマホをかけた。相手は瑛主くん。
瑛主くんはすぐに出た。
『はい』
「私です。姫里」
『どうした』
あ、と思わず声に出た。この人、上司だった。どうかしたときにだけ連絡を取るべき相手だってこと、忘れてた。
『なにか、あったの?』
時間をかけて、瑛主くんは被せて聞いてきた。ただそれだけで、なんだか泣けてくる。呆れられていてもおかしくないほど醜態をさらしてきたのに、私という存在はまだ見捨てられてはいなかった。
「やばい。瑛主くんが優しいこと言ってる」
やばいなんて本当はそんな言葉使いたくないし、若い子ならともかく同年代が使っているのを見ると幻滅していたほうだ。使いたくないんだけど、この優しさはやばかった。本能的に。やばいって多用する女の子の気持ちがすとんとわかった。逸る気持ちに言葉が、自分が、全く追いついていない……。
『また酔っているんだ』
「すみません。またなんです。その通りなのです。もう帰ります」
『そうするといいよ』
かすかに含み笑いが混ざっていたけど、刃向かわず素直に頷いておく。
『じゃあ、おやすみ。姫里』
「おやすみなさい、瑛主くん」
このまえは酩酊のままタクシーで帰った道を、バスと徒歩で倍の時間をかけて帰る。電話越しの瑛主くんのおやすみの声がまだ耳に残っている気がして、いつもなら道草を食いたくなるコンビニの明かりにさえ惑わされずまっすぐ家路についた。
亀田すみれから合コンに誘われたのは翌週のことだった。取引先の電子文書システム改修により事務処理が変更されるということで、その合同説明会で再会してしまったのだった。
同じようなスーツのなかにいて、亀田さんだけが麗しく浮いていた。
「折り入って相談があるの。ごはんでもどう?」
「俺が約束していたんだけど、急なアポ入っちゃって。今からそっちに行かなきゃなんだ。フォロー頼む」
瑛主くんにそう言われたら仕事になる。断れなかった。私とごはん食べたってその相談事は解決しないでしょう、と思わないでもないけれど、表面上は喜んで亀田さんについていく。イタリアンカフェで一杯だけグラスワインを飲みながら食事をした。
「で、相談というのは?」
「さっきまで一緒にいた谷口くんのこと。姫里さんに聞けてちょうどよかったかもしれない。正面からいってもたぶん拒否されそうだものね」
谷口くんに特定の彼女がいないか探ってほしいんだ、と両手を顔のまえで合わせてお願いのポーズつきで言われた。かわいい人はなにをやってもかわいい。
「調査なら探偵にでも頼んだらどうですか」
「彼のこと、いいなって思っているの」
私のボケをものともせず、亀田さんは自分の話をする。
「でね、仕事上のつきあいもあるから慎重に事を進めたくて」
どうかなあ、と口では言いながら、亀田さんは私が協力するだろうと決めてかかっている。週末に合コンをするのだそうで、私に参加してほしいのだそうで、私が参加するなら瑛主くんも呼べば来るだろうと……。
「呼べばっていうか、もう声はかけてあるの」
にこにこしている亀田さん。まるで『今週末、私の誕生パーティーするの』とでも言っているようなご機嫌な顔だ。亀田さんを中心に動いていくであろう決定事項。憂いのかけらはひとつも見あたらない。
そもそも私、なんでここにいるんだっけ? 確か相談をされているんだよね? なのに自分の置かれている状況を見失うってどういうこと?
営業力? これ、亀田すみれの営業力?