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02

 フローリングにじかに座りこみ、無言で見つめう二十二時過ぎ。ふたりのあいだに遮るものはない。簡単にお互いに触れることができる距離にあった。私も瑛主くんもなにも言わなかった。そうして密やかに呼吸をつなぐこと数十秒、そのとき、数回の電子音が聞こえてきて--。

「洗濯、終わったみたいだ」

 機械に呼ばれてすっくと立った瑛主くん、脱衣場へ颯爽と消えた。


 えっ……と? あのですね、もしもし?

 これだけ、これだけじっと見つめておきながら置き去りにするとか……とか……!!


「ありえないでしょ」

 拳を握りしめて打ち震える私。

「ひめさとー」

「は、はいっ?」

 つぶやきがあっちまで聞こえたのかと焦ったけれど、そうではなかった。

「これさ、全部乾燥機にかけていいやつだった?」

 脱衣所のドアから顔を覗かせて、瑛主くんはそんなことを聞く。

「あー、いいかな? なんかごめんね、私のまで」

 雨に濡れた衣類を、私のぶんも一緒に洗濯してくれたんだっけ……って、下着!

 慌てて脱衣場の洗濯機まで猛ダッシュ。間一髪のところで洗濯ネットごと瑛主くんの手から取り上げた。後ろ手に隠して、目に触れないようにする。ちなみに今身につけている下着は持参していたものだ。ナオのところにいつでも立ち寄れるように、バッグに換えを常備していたのが幸いした。


「あ、ありがとうね。助かりましたです」

「俺は別に。洗濯機がしたことだから」

 そっけなく真顔で言われる。なんだろう今のは。洗濯機に感謝しろって意味、なんだろうか……。

 変だなあと思いながらも「ありがとうございましたー」と一応洗濯機に向かって言ってみた。直後、背後で吹きだされた。

「ねえ、実は酔ってる? おもしろいんだけど」

「違う、今のはそういうんじゃなくて! あなたが言うから! だからそうしただけで!」

「洗濯機にお辞儀する人、初めて見たよ」

「いやそれは嘘だ。そんなことするもんか」

 この人、タチ悪い。これはと思った人をとことんからかうタイプだ、絶対。

 リビングに戻ってからも失礼な物言いは続いた。

「姫里ってさ、入社した年の宴会でもおもしろかったなー。親切心からだったんだろうけど、俺と一緒にカラオケ歌ってくれて。頼みもしないのに強引に」

「またまたー! 私、瑛主くんとなんか歌ってないよ。そんな逆ナンみたいなことするはずが」

「新入社員は歌うの断れない空気、漂ってたじゃん。いち早くそれを読んで、姫里がハイって挙手して、ほらいくぞってグイグイきて」

「……違う人と勘違いしてんじゃないの?」

「本当に記憶にないの?」

 そこでトーンダウンされると後ろめたい。私だけが忘れているのなら申し訳ない。だって、覚えがないものは覚えがないんだ。一応、思い出す努力はするけれど。


 入社した年の宴会。カラオケがあったのは温泉旅館で一泊した社員旅行じゃなかったか。紅葉はほとんど終わっていて枯れ落ち葉状態、肌寒くて小雨がちらついているそんな日。宴会場には小さなステージがあって、そこから見おろすとたくさんの笑顔がこちらに向けられていて、うれしくなって私はもっとはりきっちゃって--。あれ?

「いたわ。いたね」


 思い出した。あのとき、隣に立っていたのはまぎれもなくこの人だった。この古風な顔立ち。なんで忘れていたんだろう。両手で頬を覆う。自分が信じられない。歌わなきゃいけない場面で私、腰の重そうな男の子を確かに誘った。誰かがやらなきゃあとが続かないからさっさとやっちゃおう、って思った。この人、音痴だから歌うの渋ってんのかなあ、くらいのことも考えてた。


「その節はどうも」

「なんていうか……深い味わいの歌を一緒に歌えて、貴重な経験させてもらったよ」

 ん?

「貴重な経験はともかく、『深い味わいの歌』?」

「音の取りかたが独特で、たまに先走る」

「音痴ってこと?」

 沈黙が落ちる。肯定ですか。そうですか。

「姫里には才能があるよ。楽しい空気を呼びこむ才能」

 言いながらベランダに通じるガラス戸を開ける。雨の湿った匂いと風と、昼の名残のようなかすかな熱気が運ばれてくる。


「雨、止んだ?」

「小降りにはなってる。どうする」

「泊まってもいいなら泊まりたい」

 瑛主くんの視線が横に流れる。左手で首のうしろをかいている。

「交通もまだ乱れているだろうしな」

 自分に言い聞かせているようなつぶやき。私は苦笑いをかみ殺した。生真面目な物言いが滑稽だった。見ためのとおり堅物なのかな。仕事をするようになって二週間弱。私たちはまだ手探りで知ることばかりだ。


「抱きたいならそれでいいのに」

 部屋にあがりこんだ時点でそのくらいの覚悟はできている。瑛主くんの動く気配があった。そばまで来てため息をつかれた。

「そんなこと言って。ずるいやつが相手なら、なにされても文句言えないところだぞ。いつもそうなの?」

「いつもそうなのは男のほうでしょ」

 言ってあげることで、少しでも罪悪感が軽くなるかと思った。あなただけじゃない、男はみんなそうだ。自分の領域に女があがりこんできて、しかもお酒の勢いもあるのなら。多くはないけれど、中学、高校の同級生や先輩と飲んだあと、そうなったことがある。そのあと、余所でばったり出くわしたこともあるけど、別に気まずい思いもするわけでもなく、ごくふつうに挨拶できている。


 経験則で気をまわしてあげたのに、瑛主くんは一瞬、傷ついたような顔になった。

 ああ、間違えちゃったか。でもまだ間に合う? 今から笑い飛ばしてあげようか。


 ところが、笑ったのは私ではなく瑛主くんだった。

「ずるいやつって言っただろ。俺はずるいやつじゃない。賢いやつだから。覚えておいて」

 ニヤリと嘲笑を浮かべている。おそらく自分の思いつきに。そこにはさっき見せた負の表情はない。

「姫里が今そうしたいって言うのなら、俺は絶対にしてやらない。どんなに請われても、指一本触れてやらない。姫里が俺に惚れたっていうのなら、考えてやってもいい」

「え。惚れる? 惚れるの? 私」

 私、今惚れてなんかいません、の意味で言ったのに、瑛主くんにはそうは聞こえなかったみたい。


「ああ、そうだな。そういうことなのかもしれないな」

「なにそれ。言ってから考えるのやめてくれる?」

「姫里は俺を好きになるよ」

 言って瑛主くんは自信ありげな微笑みを浮かべている。その表情、悪くなかった。むしろ好感を持てるような笑いかたで……早くも私、術中にハマってんじゃないだろうか。


「笑えるんですけど!」

「俺も自分で言ってて変態かよって思った」

「自覚ある変態」

「ただ賢いだけだから」

 自分の思いつきの素敵さに酔いしれている瑛主くんは、明日の予定を確認すると、際どい会話などなかったかのようにてきぱきと寝床を整えて、歯を磨きに洗面所に消えた。




  *



 翌朝はコーヒーの香りで目が覚めた。

「おはよう」

「おはよう……ございます。何時ですか」

「七時半」


 キッチンではなにやら朝食の支度が進められている様子。コーヒーはカップに注がれているし、トーストも焼けているし、ヨーグルトとジャムとチーズも冷蔵庫から出されている。テーブルに並べる作業だけ手伝わせてもらって洗面へ行き、鏡を見てーー凍りついた。


「わああああ!」

 私、すっぴんだった……すっぴん見られた……。化粧落としたのいつだっけ? 寝るまえ? ……じゃない。お風呂だ。お風呂で落としたんだ。ってことはそこからこっちは全部、素顔だった……?

「わああああああー!!」


「なに騒いでるんだよ」

 ひょこっと背後に瑛主くんが現れる。

「今すぐ目を閉じなさい!」

「ちゅーでもすんの?」

「なわけないでしょ! 言ってよ、もう。見苦しいもん、見せちゃったじゃない」

「意味がわからない」 

「わからなくていいからもうあっち行って! もたもたしない! あっ、目は開けていいから。そして昨日から今にかけてのことはすべて忘れるべし!」

 盲点だったわー。ナオのところにいるときと同じ気でいたけど、この人は職場の人だった。私にだって会社向きの顔というものがあるのですよ……。


 化粧を終えて、出された朝食を平らげるころには八時をまわっていた。慌ただしく身支度を整えた瑛主くんはこのあと草野球に行くそうで、応援にくるかと誘われたけれどお断りをした。

「来ればいいのに。どうせヒマなんでしょ」

「いやー……いいっす」

「人数足りなかったら混ぜてもらえるかもだし」

「無茶言わないで。私、ヒールだから」

 そう。車で送ってくれるそうだから借りたティーシャツとジャージのままでいいかと思ったのだけど、靴がパンプスだったので結局昨日洗って乾かした服に着替えた。パンプスはまだ少し湿っている。 


 エレベーターで一階に降り、エントランスを抜ける。そういえば、と瑛主くんが真顔で振り返った。

「このドア、これ、オートロックっていって、閉めれば勝手に鍵かかるようにできてるから」

「知ってます!」

「えっ、そうなの? てっきり知らないかと……」

 そう言う彼の後ろ姿の肩が震えている。将来、おやじギャグ言い出しそう。怖っ。




  *



 歓迎会以降、瑛主くんに興味を持つ人間が増えたように思う。

「姫ちゃん、チョコ食べるー?」

「食べる食べる。夏にチョコとは」

「うん。自分でも思った。泣くよね」

「泣く?」

「言わない? あ、これ方言かな。飴とかチョコとか、熱で……」

「あー。溶ける、ね」


 お菓子を配る体でありながら、本題は別のところにあった。下の階から郵便物を配りに来た彼女――大久保さんがちらっと見たのは、ホワイトボードの外出予定表だ。

「ね、谷口主任っていったっけ? どう? 仕事しやすい?」

 本人が外出中だから聞けることだった。予定では十一時Dホテルにて打ち合わせ、十四時帰社となっている。

 同じことを何度も聞かれている私は、すらすらと答えられるようになっていた。

「やりやすいよ。てきぱき動くし、連絡もちゃんとしてるし。整理整頓は下手だけど」


 前任者から仕事を引き継いだとはいえ、期限を意識した細かな仕事の流れや書類の保管場所などは私のほうがよく知っている。

 これまで一緒に働いた人のなかには、年下で女の私から指示があるのをおもしろくないと捉える人もあった。けれども瑛主くんにはそういったところは感じられない。文句も言わず、どちらかというと私を無駄にからかいながら対処している。


「彼女とか、いるのかなあ」

「いるって言ってた」

 えー、と大久保さんはさも残念そうに声をあげたあと、周囲を気にして声を落とした。今更だっての。

「久し振りにおっさん以外の男が異動してきたって聞いて、期待してたのに」

「大久保さん、旦那いるじゃん。いいの?」

「目の保養だもん。保養くらいいいんだもん。芸能人追っかけるのとおんなじ」

 それを言われると、ナオのところでライブ映像を見せてもらっている私には返す言葉もない。ちょうどそのとき私宛の外線電話が入り、大久保さんは課に戻っていった。



「悪い、助かった」

 頼まれた資料を渡すと、瑛主くんは封筒のなかをざっと見て確認し、腕時計に目をやった。

「まっすぐ帰るんだろ。少し待てるなら昼メシ奢る」

 言うと、返事も待たずに踵を返してしまう。まだミーティングは終わっていないらしい。

 さっきの電話は瑛主くんからで、接客相手に渡すパンフレットが足りないから持ってきてほしいという内容だった。Dホテルの場所は知っていたし、接客相手が遠方から来ているかもしれなくて今を逃したら当社の資料も見ずに他社に発注してしまうかもしれないこともわかっていたから、ふたつ返事で引き受けて飛んできた。


 しばらく振りに来たDホテルだった。こんなことでもなければきっと来なかった。せっかくだから、このあたりでランチを食べて帰ろうと思っていただけに、誘いは渡りに船だった。

 少し歩くことになるけど、このあたり、何軒か安くておいしい店があるんだよねー。もし瑛主くんがまだ知らなかったら、教えてあげよう。


 ホテル内のロビーのソファは誰にも使われていなかったので、隅っこのほうをお借りして浅く腰かけた。社の一番の友人のあきちゃんにアプリで連絡をする。今日は外出していてランチを一緒に食べられません、と送るか送らないかの頃合いに瑛主くんから声をかけられた。

 本当に少ししか待たなかったよ、と笑いながら顔をあげ、私はそのままの体勢で固まった。瑛主くんの横には女性がいた。


「こちらはプラント花菱の亀田さん。えーと、よく一緒になる同業他社さん」

「そんな紹介でいいの?」

 瑛主くんに“亀田さん”が柔らかく笑いかける。


 一緒になる同業他社というのは、同じお客を取り合う商売敵という意味だ。ひとつの結婚式に何社もの花屋はいらない。挙式を予定している新郎新婦に順番にプレゼンをして、選んでいただいている。


 こうしてみると“亀田さん”は小柄な人だった。背が瑛主くんの胸までしかない。ふわふわウェーブのかかった髪を顔がちゃんと見えるように部分的にまとめあげている。グレーのパンツスーツ。パートモチーフのダイヤのペンダントと揃いのピアス。


「これからお昼だっていうからついてきちゃった。私もランチ、一緒にいい?」 

「すみません、すぐに戻らなきゃいけなくなっちゃって」

 私は勢いよく頭を下げた。

「急な仕事でも入ったのか」

「そんなたいしたことじゃないんで。おふたりで楽しんできてください」

 いぶかしむ瑛主くんに慌てて言い繕う。すぐに戻らなきゃいけなくてたいしたことじゃない用事ってなんだよ、と我ながら思う。聞かないでー、詳しくは聞かないでー。じりじりとあとずさりをするあいだにも手のなかのスマホに返信が届き、あっほらねという顔を作ってみせる。あたふたあたふた。

 ふたりを残してホテルを出て、バスに乗ってからも私は落ち着かなかった。『了解』と返事を寄越してくれたあきちゃんにもう一回メッセージを送る。『やっぱ戻るよーん。君の顔が見たくなったから。でも遅くなるから俺に構わずさきに食べてて。早く会いたい』

 そうして今度はアドレス帳を立ちあげる。亀田すみれの名前はまだ残っていた。そりゃそうだ。消した覚えはない。名刺だってデスクの引き出しにまだ残っていると思う。目を閉じてガラス窓に額をくっつける。


 ……忘れてくれているはず、ないよね。初めましてって言わなかったもんね。ため息をつきそうになる。

 あの場にいたほうがよかったんだろうか。いたらそれなりに気を遣って話してくれていたかもしれないし、黙っていてくれたかもしれない。そうだよ、私、選択肢を間違えた。


 スマホにあきちゃんからもう一度返事が届いた。

『愛してるわダーリン』

 ノリのいいあきちゃん、大好きだ。私もすばやく『俺も』と返した。今はランチのことだけを考えよう。お腹がすいた。

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