01
終業後の飲み会は居酒屋のチェーン店で開かれた。職場の集まりというと決まってこの店を利用している。職場から徒歩五分で携帯の電波もつながる、というのが主な理由だ。だから、飲み会のお知らせ文書には会場が『いつもの店』としか書かれていない……本当だって!
本日の主賓は私の直属の上司にあたる。先月に営業二課から異動してきたのだけれど、課全体で妙に仕事が立て込んでいて、歓迎会が予定していた時期より一週間延びてしまっていた。といっても予定が成立しないほど年中繁忙期なわけでもなかった。
うちの会社は業種でいえばフラワービジネス業にあたる。直営店舗やネット販売、世に言う『お花屋さん』だ。私の在籍する営業四課はブライダル関連の花を扱っていた。式場やホテル、レストランが主な納品先。葬儀のように急な発注は少ないものの、五月六月ともなればジューンブライドの駆け込み需要でそれなりに仕事が舞い込むこともある。お客様あってのこの業種だから、少しくらい歓迎会が延びても気にしないのが暗黙の了解だった。
「おーい、そろそろ質問タイムはじめよっかあ!」
ピッチの早い人に飲み物のお代わりが配られたタイミングで、郡司さんが声を上げた。みんなから郡司さん郡司さんと呼ばれているこの人はもうすぐ五十歳になるとかならないとか。本来なら佐藤さん、しかも課長だから佐藤課長とでも呼ぶべきなんだろうけど、みんながそう呼ぶからそれで通っている。
「じゃあ姫ちゃん、席も近いし、質問係お願いね!」
「了解でーす」
私もまた姫里という苗字だけど、みんなが姫ちゃんと呼ぶからそれで定着している。たたずまいを直して、余っているお手拭きの袋をぴんと延ばしてマイク代わりにし、隣の主任に向き直る。
「ではでは、異動まもない谷口瑛主主任」
私の声に、谷口主任は双眸をこちらに向けた。目鼻立ちのきりりときつく整った男らしい容姿。怒っているふうにもみえるから、見つめられると気圧される。気の弱い女の子だったら、震えあがって口が利けなくなるところだ。
私はパートナーとして、この場にいる人のなかでは一番会話をこなしているので(といっても十日程度だけれど)軽く睨まれた程度では逃げずにいられるくらいの耐性はできた。ガン飛ばされたくらいじゃ負けないんだから!
「わが営業四課の歓迎会ではあれこれ下世話で赤裸々な質問を浴びせるのが通例となっています。なかには答えづらいものもあるかと思いますが、そこはあくまでもテンプレート。私が考えたものじゃないので、そこんとこ誤解しないでくださいね!?」
「前置きが怖いな」
言いながらも谷口主任はどこか楽しそうだ。質問が深まるにつれ、余裕の笑みさえ浮かべて、求められた自分のスペックを羅列していく。某四大卒で今年で入社十年目の三十一歳。血液型はO型、星座は射手座。家族構成は両親と妹。実家は遠方にあってひとり暮らし。趣味は引越しとDIYと草野球。好きな食べ物は豚骨ラーメン、おにぎりはこんぶ派でコーヒーはブラック。嫌いな食べ物はパクチーとザーサイ。キウイフルーツはアレルギーがあって食べるとかゆくなる。座右の銘は『損して得取れ』。好きな女優は--、よく聴く音楽は--。
「――って誰得なのこの情報」
ぼそっと谷口主任が私にだけ聞こえる声でこぼす。同感、と思いながらも私はスルーして別の言葉を紡ぐ社畜だ。
「彼女はいますか?」
この質問だけは返事まで間があった。
「……います」
ええっ、とか、いるのー、とか、適当に相づちを挟んでいた周囲の人達もざわめいた。
「いちゃ悪いんですか」
「案外、ひとりに縛られずに遊んでんじゃないの?」
「相手は誰」
「どんな子」
「どうせ年下だろ」
「そう思いきや年上だったりして」
「いっそ未成年とか」
「女子大生とか」
「ギリギリ二十代ならお友達紹介してって彼女に言っといて」
「タクさんまじすか!?」
「またですか」
「まだ懲りないんですか」
「タクさんにたくさんの紹介……」
「誰、今、場の温度下げたヤツ」
キャーと盛り上がる面々。一応断っておくけど、この騒ぎ立てる会話に私は混ざっていない。今のうちにと生ビールを飲み干す。
「でも、あれだね。姫ちゃんと組んでるし」
「結婚はしばらく先延ばしにしたほうがいいよね」
「姫ちゃん、って、姫里のこと?」
端のほうに座る女性社員が気になる発言をしたので、谷口主任はそちらと私とを交互に見やる。
「あー、そうかも」
「かもってなに? 自分のことでしょ」
向こうの女性社員はトイレでも行くのか席を離れてしまう。言い逃げですか。そうですか。
「バツイチ姫って聞いたことないですか? 私、陰でそう呼ばれてるんですよね」
覚悟を決めて、できるだけ簡単に言うことにする。
「私と組んで仕事をした人が何人かいまして、その人たち、みんな離婚しちゃったんですよね。私と仕事するとバツイチになるからバツイチ姫……ってことらしーです」
「何人?」
「三人」
「そのまえは? 全員ってわけじゃないんだろ? 社員の未婚の比率を考えたら、既婚者ばかりと組んでいたはずもないだろうし」
いやに食いつくなあ。しかも指を顎に当てちゃって、それ名探偵かなにかですか。
まあ、それでも一応、過去を振り返るくらいは別にいいかなと。
「そのまえは四年あって、そのときはなにもなかった……です」
「営業補佐じゃなくて営業職だったし?」
頷いた。そして少しだけテーブルに身を乗り出して、明るく言いはなった。
「そんなことがあったとしても、です! そろそろ、そのバツなんとやらのジンクスが破れてもいいんじゃないですか? 私そんな気がしてならないんです。ねえ郡司さん!?」
ん、ああっ、と郡司さんは明らかに聞いていなかった反応だ。
「現場からは以上ですー。質問終了です!」
この話は終わりとばかりに主導権を返上して、私は悠々と梅酒ソーダを頼んだ。まったく、質問コーナーって誰得なんだか。なにかと任されやすい私ではあるけれど、そろそろこの任務、下の世代に引き継ぎたいんですけどね……。
帰りに使う電車の路線が車両故障で運転見合わせ。それでなくても週末の夜の時間帯だ。迂回路を選ぼうにも、駅構内でさえ人で溢れているのだから、電車がぎゅうぎゅう詰めになるのは目に見えていた。
蒸し暑くてしんどそう。ここも人いきれでかなりむっとしているけれど、この比じゃないんだろうな。でも帰らないと。疲れているし。だけど金曜日だしお酒臭い人もいるかもしれない。って、私もだけど。乗りたくないな。
定期を出したまま構内の広告の下に立ち尽くしていると、
「乗りたくねえな、電車」
谷口主任がそばに立っていた。
「ですね」
「かといって歩いて帰れる距離じゃねえし」
谷口主任とは、異動があってから何回か一緒に帰ったことがあった。途中まで帰る方向が同じだった。乗り換えないでいくと谷口主任の最寄り駅につき、乗り換えてふたつめが私の降車駅だった。とはいえ私の家は駅からだいぶ離れている。通勤に使っている駅と谷口主任の駅との中間くらいに位置していた。まさかと思って聞いたら、お互いの家は徒歩で行けないこともない距離だった。
「じゃ、一緒にいきますか」
「いくか。こうしていても埒があかない」
飲み会が捌けてから時間がたっていたし、帰る方向が違う人もいて、みんなばらばらになってしまっていた。
想像に違わない満員電車のなか、谷口主任は一応は身体を張って、私を押し寄せる乗客から守ろうとしてくれた。けれども結局は押しつぶされてしまって、でも守ろうという気持ちだけは伝わってきて、私は声を出して笑ってしまった。
谷口主任の降車駅で一緒に降りた。そこからバスを使えばいいと思っていた。
「姫里のところまでのバスって、この時間、本数少ないだろ。タクシー使えば」
「うん、でもだいじょうぶです」
家の近所までの本数はないけど、ナオの家までならけっこうでている。ナオの家はバス停のある通りに面していて道も明るいし、自宅に帰るよりよほど安全だった。
「まずいって。そんな悠長なこと言ってると……」
谷口主任はどこか慌てた様子で空を見上げた。私もそれに倣った。雲でもあるのか星どころか月も見えない。
「雨ですか?」
「天気予報見ないの?」
「見ますけど覚えてないっていうか」
「星占いかよ」
「ですね……あっ」
言ってるそばからぽつぽつ降ってきて、それが一気にざあざあ降りに変わった。様子見で逃げこんだ木立ちでは雨除けにならず、タクシー乗り場の屋根はもともとの順番待ちの人たちでいっぱいだったから駆け込むこともできない。
どうしようかと聞くまえに決定事項を言い渡された。
「行くぞ」
「どこへ」
「俺の家」
「でも」
谷口主任はぐんぐん先をゆく。私は大雨で視界の悪いなか、見失わないように早足でついていくよりなかった。
「仕方ないだろこの雨じゃあ」
けっこうな大声で谷口主任がどなった。
「タクシー待とうにもあれじゃ屋根の下にいけないし、ずぶ濡れじゃあ乗車拒否くらうし」
滝業……まではいかないけれど、雨の勢いがすごくて打ちつける音や振動が響いていて。駅からの明かりに照らされて飛沫が真っ白にあがっている。シフォン素材のトップスが肌にまとわりつく。薄い生地でも水を吸うと重いんだな、なんて、今思うべきことでもないのに。
「それに……いや、なんでもない」
振り返いた谷口主任は足を止め、なにを思ったのか抱えていたジャケットを私の肩にかけて寄越した。
「もう今更ですし、いらないですよ」
「遠慮なら自分の格好確かめてからしろよ」
今日の私は淡いブルーのボウタイブラウスに紺の細いプリーツスカート、グレーのパンプスと肩掛けできるバッグというコーディネイトだったけど主任の言っているのはそういうことじゃなかった。ブラウスの色味と素材だった。裏地つきとはいえ、濡れて透けていた。
「おおう、セクシー!」
「バカ」
厚意に甘んじることにした。羽織るだけならいいけれど、走るとぶかぶかして肩からずり落ちそうになる。あとは無言で谷口主任の住むマンションに逃げこんだ。
部屋に入ったら入ったでシャワーを借りるだのなんだのと一悶着あって、結局は借りて、洗濯機を借りて、部屋着まで借りた。谷口主任のひとり暮らしの部屋は適度に散らかっていて生活の気配がした。そのことに私はとても安心した。モデルルームばりのきれいすぎる部屋だったら、なにかを傷つけたりうっかり動かしたりしてしまわないかと、部屋に通されてからの一挙手一投足に気が抜けないだろう。ずぶ濡れで廊下まであがりこむことさえ禁止かもしれないし、もしかしたらそういう家はごみも持ち帰らないといけないのかもしれない。
「なに飲む?」
「ロイヤルミルクティー。アイスで」
「ねえよ。女子か」
女子だもん。
「じゃあなんでも」
「ミント水は?」
「そっちのほうが女子じゃないですか」
谷口主任はコーラを持ってきた。待って、ミント水はどこいった?
ペットボトルからグラスに注ぎわけて片方を私にくれる。首にかけたタオルで髪を拭きながら私の横を離れ、壁際に腰をおろした。
黒のVネックのTシャツがよく似合っている。下はベージュのハーフパンツ。普段着になるとがっかりな仕上がりになるスーツサラリーマンではなかった。この人、スーツ姿との落差がほとんどない。
聞いていい? と前置きをしてから谷口主任は言った。
「なんで敬語なの。同期だよ俺たち」
きたか、と思った。いつ言われるだろうと思っていたけれど、とうとう言われた。谷口主任と私は一応同期入社なのだそうだ。申し訳ないことに記憶になかった。今夜の宴会がはじまって早々に職場の仲間に耳打ちされて知るとか、どれだけ失礼なんだ私は。
「主任のほうが年上だから? 役職者だから?」
もっともらしいことを言ってみたが、谷口主任は納得してくれなかった。
「入った時期が一緒なんだからそんなの気にしなくていいだろ。俺はふつうにしゃべってほしいんだけど。あと、その主任ってのもやめて」
「わかった。それならケースバイケースで。名前はなんて呼べばいい? 谷口さんかな」
「名前」
考える素振りをみせたあと、主任はそう言って、さらに言いそえた。
「名前がいい。下の名前」
私はすぐには声に出せなかった。部屋でふたりきりのときに見つめられてそういうこと言われるのは、なんだか気恥ずかしかった。名前で呼んでほしいとか、言う? 言う人なの?
しかも洗い髪が、もともと持っているこの人の男らしさを存分に引きたていて艶めかしくて、どこに目をやったらいいのか困った。少なくとも目は見られなかった。喉仏のあたりを注視したらしたで、すっと伸びた首やら、とがった顎やら、しなやかにそれでいて張り詰めた皮膚の下の鎖骨やらが嫌でも視界に飛びこんできて、落ち着かなかった。
風呂あがりの男の人なんて、父親とかナオとか見慣れているのに、もう部屋の壁紙か家具かってくらいの認識なのに、この人は全然違うから参ってしまう。この大人の色香はどこから沸いているんだか。
壁際に離れてくれていてよかった。もし真横に座られていたら、この状況って赤面できるレベルだ。
「え、瑛主……さん?」
「さんづけだと揶揄のニュアンスに聞こえるから、別のほうが」
谷口主任は私の動揺をよそに、のんきに自分の呼び名を吟味している。この温度差は……!
「じゃあ、瑛主くん?」
「まあ悪くないかな。さっきの呼び捨ても捨てがたいけど」
投げやりに呼んだそれに決定したことにした。
「あの、彼女のことだけど」
「誰」
「谷口しゅ……瑛主くんの彼女さん」
コーラなんて飲むの、いつ以来だろう。ひとくちいただいて、グラスをテーブルに戻した。
「私、飲み会のあの場ではジンクスがそろそろ破れるとか威勢よく言ったけど、本当に大切な人なら慎重になったほうがいいかも。お払いするとか」
瑛主くんは職場にいるときのような真面目な顔で、ばーかと言った。
「お払いするならあんたのほうだろ」
「そっか」
そして今度はにこりと笑いかけてきた。
「楽しみだな。それってさ、離婚したくなるくらい姫里に魅力があるってことじゃないか」
「なっ……」
瑛主くんは立ちあがり、こちらに近づいてきた。
「それはご期待に添いかねるかと」
なおも近づいてくる。それが、やけにゆっくりにみえる。
近づいてきたことで、ふと気づいた。同じ部屋にいながら、これまで瑛主くんは私と一定の距離を置いていたってことに。
ひとり暮らしの男の部屋にあがってしまった私を不安にさせないように、あえて離れていたのかもしれない。飲み会のあとで、多少はお酒が入っているのにちゃんと理性的な一面が残る人なんだなあ。
「そうかな」
と、瑛主くんが私の顔を覗いた。彼はすぐそばにまできて、座りこんでいた。
「期待しちゃ、いけない?」
お風呂あがりの匂いがしていた。私と同じなのか、私が同じなのか。さっきまでどこを見たらいいのかとさまよっていた私の視線は、今では揺るがずに瑛主くんの瞳を捉えていた。