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週末のデートは有名ミュージシャンが多数参加する野外音楽フェスだと聞かされたときには驚いた。場所は電車で行って帰ってこられるほどの距離で、昼から夜にかけて開催される。フェスの名前くらいは聞いたことがあったものの、大勢のミュージシャンが一堂に会するイベントに足を運ぶのは初めてだった。
「てっきり映画とか水族館あたりだと思ってた」
最初のデートなのだから、万人受けするレジャーを持ってくるものかと。
「当日に知らせてびっくりさせるのでもいいけど、夏のフェスといったら準備もいるから先に言っておこうと思って」
その準備というのがよくわからない。
「まさか出るの?」
そのための準備? 機材運びとか体調管理とか?
「誰が。俺が? 出ないよ」
「そっか。出ないのか」
「がっかりさせてすまない」
「いえ。特には」
楽しみにしています、と言ったのは本音だ。週末にはフェスだと思えば、日々の仕事のモチベーションになる。
先に約束をしていたあきちゃんは私からの断りを聞いても嫌な顔ひとつしなかった。それなら別の日にしよう、と話をしたその日の終業後に駅ビル周辺を物色することになった。夏物処分セールははじまったばかりで、短時間でも吟味を重ね、あきちゃんはスカートとブラウスを二枚ずつ、私もスカートとパンツを買った。
食事も済んで帰ろうとしたとき、あきちゃんがあと一軒寄りたいところがあると言い出した。
「これなんかいいんじゃない?」
ナイトウェアの店だった。真っ白いふわふわしたデザインのパジャマを選ぶと、あきちゃんはなぜか私に押しつけて、
「似合う。かわいい。ぎゅーってしたくなる」
「かわいいよ、かわいいけどさ、露出多くない? パンツの裾短いし。あきちゃんが着るぶんにはいいけどさ」
「このくらい普通だよ。見せる人を選べば済む。ちゃんと選んでね。あ、これちょっと早いけど誕生日プレゼントね」
持っていたかごに入れて会計へ向かう。レジで広げられたものを見て、さらに私は驚く。ピンクの下着の上下まで一緒にラッピングされている。さっきあきちゃんとお揃いの色違いで買っちゃおうかって盛り上がった品物だ。出口で店員からショッパーバッグを受け取ったあきちゃんにそっと近づくと、にこりと笑みを向けられた。
「これは私が責任を持って、しかるべきルートで葉月ちゃんに届くようにするからね」
「どういうこと」
予感はあった。ぎゅーっとしたくなるとか、見せる人を選べとか――それって直訳すると、ぎゅーっとしてほしい人に見せろって意味にとれるよね。そう言ったら隣を歩くあきちゃんはきらきらした目で虚空を見あげた。図星。
「そう、一足さきにこのプレゼントは恋人の部屋で待つことになるの。甘い甘い、めくるめくひとときが訪れるのをね」
話が見えてきた。
「そういえば会社で瑛主くんとあきちゃん、密会してたことあったね。あのときにそういう話をしてたってことか。ふーん」
「主任さん、強引そうに見えて案外慎重だよね」
山田さんのことも、ありささんの旦那様である峰岸社長も味方につけてきた瑛主くんだから、あきちゃんまで取り込んだとしても不思議はなかった。でもあきちゃんは友達だから、私が嫌がるような加勢はしないだろうと思った。そうなると一番いい形で恋が進んでいきそうで、うまくいく気しかしなかった。
駅のホームに降り立つ。次の電車がすぐに入るアナウンスがあった。
「あきちゃん。私、あの人のこと好きなんだ」
無性に瑛主くんの声が聞きたくなった。まだ残務整理で会社にいるはずだ。
「そうだろうと思ってた」
あきちゃんは言った。電話してみたら、と見透かしたようなことを言われて首を横に振る。電車は帰宅ラッシュが落ち着いてどちらか片方が座れるくらいの混み具合だった。荷物のあるあきちゃんに席を譲り、まえに立つ。
「どのみち土曜は一緒に出かけるんだし」
「今は衝動のままに行動を起こしていい時期なんじゃない?」
「どうしてそう思うの」
あきちゃんは周囲を伺ったあと、スマホを取り出して少しいじった。直後に私のバッグのなかでメッセージ着信を知らせる音が数回した。
『今なにしてる?』
『特に用とかじゃないんだけど』
『ちょっと相手して』
『構って』
イラストつきの短文メッセージの数々は、今あきちゃんが私に送ってきたものだった。こういうのを送れ、と?
「初々しいふたりだからできることってあるよね。熟年カップルがやったらウザいだけだよ」
そう言うと、あきちゃんは何かを思い出したように疲れた目をして薄く笑った。
就寝まえに瑛主くん宛のメッセージを作ってみた。
『あきちゃんにパジャマ買ってもらいました』
『土曜日、楽しみです』
送る踏ん切りはつかなかった。衝動のままに、とあきちゃんは言っていたけれど、私には衝動がなかったからだ。もし送るならこんな感じかな、と仮定して無難に打ってみただけだ。それも書いては消し、書いては消しを繰り返して。
スマホを握りしめたまま寝てしまったようで、翌朝になって驚いた。メッセージは送信されていた。うっかりボタンを押したみたい。返信も来ている。
『俺も楽しみ』
『土曜日もパジャマも』
恥ずかしさのあまり、枕に顔を埋めた。スマホをベッドのうえで遠くに押しやる。こんなこと言われて、職場でどんな顔をすればいい?
*
迎えた土曜日は快晴だった。瑛主くんとは午後に地元の駅で待ち合わせをし、電車をいくつか乗り継いで野外フェスの会場へと向かった。背の高い建物が乱立する駅から離れ、ベイサイドエリアに差し掛かると潮風を感じるようになった。
瑛主くんはスキッパーシャツに黒の帽子とパンツ、足元はスニーカーだ。私もワンピースのうえに日焼け防止でシャツを羽織ってきた。靴はスニーカーで、瑛主くんが今履いているのと同じブランドだった。
「お揃いだ」
スニーカーの件に触れるか触れまいか、迷っている隙に瑛主くんに先を越された。そうすると途端に冷めたコメントを繰り出したくなるわけで。
「心配しなくても巷に大勢いますから」
「型番も一緒?」
「うん、だから売れ筋商品なんじゃないですかねー」
言い放った直後、左の手を握られた。息を飲んだ。心臓がひっくり返るかと思った。
人が群のように会場のある方向へ流れているのに、目に入っているのに、突然私と瑛主くんだけが切り取られた現実のなかにいるみたいな不思議な感覚に襲われた。
しかと繋がれた手は瑛主くんの意思そのものだった。繋ぎたいから繋いでいるんだと、突きつけていた。私の意識を引き寄せて離さない。瑛主くんのことしか考えられない……。
どういう態度を取ればいいのかと当惑していると、瑛主くんが私を見おろしていた。目が合い、ふっと笑った。でもなにも言わない。
そわそわどぎまぎ、でも嫌じゃないという、ややこしい感情に支配されているのは私だけかと思ったら、少し悔しくなった。
「余裕ですね」
「実はそうでもなかったりして」
軽く睨む私を引き寄せ、瑛主くんは胸の音を聞かせようとする。速いような、そうでもないような……。
「よくわかんない」
それより、身体がくっつきすぎて逆にこっちがどきどきする。
「これでもわからない?」
今度ははっきり抱き寄せられた。くっつくどころの騒ぎじゃない。瑛主くんの胸に顔が密着していた。ちょっとやそっとでは逃れられない強い力でぎゅっとされていて、私の物ではない柔軟剤の香りがほのかにして、くらくらする。
「わかった、わかったから離して。こっちの身が持たない……!」
よく言うよ、と言いつつも瑛主くんは私を解放した。ただし私の手は繋ぎなおしたままだ。
入場ゲートを抜け、私たちも大勢の観客と同じように芝生にレジャーシートを広げて場所取りをした。日差しを遮るものはなく、夕方と呼べる時間に差し掛かってもまだ暑かった。出店も多数並んでいて、食事はもちろんアルコール類も充実している。飲んだり食べたりしながら音楽を楽しめる形式だった。夕食にはまだ早かったので、まずはジェラートやかき氷を食べながら開演のときを待った。
二十時半にフェスは終了した。人の流れに沿って私と瑛主くんも駅の方向へのろのろ進んでいた。
「暑かったねー。汗だくだく」
「だくだくって、他に言いかた……牛丼かよ」
昼間の熱気がまだ残っていて、生温かい風がほろ酔いの頬を撫でていく。
「素晴らしかった。私の好きなアーティストと同時期にヒット曲を飛ばしてたあのバンドが思いがけずよかったし、生涯で一度は聴いておきたかったあの人の生歌も聴けたし! うっかりCD買うところだったわ」
「楽しめたみたいでよかったね」
瑛主くんがさらりと言う。
「本当だよ。来てよかった。私、今、世界中の人にありがとうって言いたい。走り出したい。有り余るパッション、どうしたらいい!?」
「うん、わかった、わかったから」
興奮が醒めず、私は熱を発散させたくて仕方がなかった。瑛主くんはなだめるというよりはおもしろいものを観察するような目で私を眺めている。行きとは違い、帰りの電車は人でごった返していた。
「このあと、俺んちまで来られる? フルーツタルトがあるよ」
断る理由はなかった。
マンションに着くと、私たちは順番にお風呂に入って汗を流した。私が髪を乾かしているあいだに瑛主くんがソファのところのテーブルにタルトとスパークリングワインを用意した。ガラス容器に入ったキャンドルと細いろうそくまで置いてあった。瑛主くんが手際よくそれらに火を灯す。ろうそくは丸いタルトに等間隔に並べて立てられていた。
「これは?」
「電気消すよ。座って」
質問には答えずに瑛主くんはそう言い、壁のスイッチを押して照明を落とした。キャンドルとろうそくの炎が周囲をオレンジ色に照らしている。
瑛主くんはテーブルのふたつのグラスにワインを注ぎ、片方を私のまえに滑らせた。そうしてソファに座り直す。
乾杯するのかと思ったら違った。瑛主くんは私に宛てて誕生日の歌を歌いだした。新入社員時代の宴会の件があってから、私のなかでは瑛主くんは音痴と刷り込まれていたのに、この歌は全く違っていた。力みのない自然な歌声が心地いい。そしてそれ以上に腹立たしい。
「姫里、誕生日おめでとう」
「……騙したね」
そのひとことで話が通じた。
「俺は別に歌が苦手だなんて言ってない。めんどくせえなって思っていただけ。そこへ姫里が近づいてきて一緒に歌うとか言い出して、ああこの子は俺に助け船を出してるつもりなんだなあと、突っぱねるのも変だから流れに任せただけ。確かに人前で歌うのはあまり好きじゃないけどな」
数年がかりで詐欺にあった気分だ。歌の苦手な私が自分を犠牲にするようにして、さらさなくていい恥をさらしていたという真実……。新入社員時代の私が可哀想だ。どういう洗礼だよ!
グラスを持たされて乾杯をしても、騙された感が拭いされなくて、なかなか口にすることができなかった。そんな私のことなど意に介さず、瑛主くんはタルトを切りわけていた。台の生地が切りづらいようだ。あれっと言いながら四苦八苦している。
「貸して。私がやる」
「今日は送ってくれなくていいよ。泊めてくれるんでしょ?」
昼間着ていた服はタルトを食べているあいだに洗濯が済んでいた。乾燥機を使えば今日のうちには帰れる。
お風呂上がりに私はあきちゃんからのプレゼントのパジャマを身につけている。マンションに着くなり瑛主くんから手渡された紙袋に入っていたものだ。紙袋はあきちゃんと買い物をしたときのものだった。なるほど、いつか会社で見かけた両人の密談はこういうことだったのか。
タルトの残りを冷蔵庫にしまい、使った食器を洗う。
「気になっていたんだけど、芸能事務所の知り合いってどういうつてだ? 峰岸ありさに渡した名刺はどこから出てきた」
ソファから瑛主くんの声がする。
私が『泊めてくれるでしょう?』って悪ふざけっぽく言ったのは無視された。片づけが済んだらどこに行けばいいんだろう。ソファに戻る? それとも帰り支度をするのが正解? パジャマまで着たのに。
「ナオですよ。描いたマンガがアニメ化を経て映画になるとかなったとか、まえに話していたのを思い出しまして。峰岸さんと会う直前、ナオから関係者の名刺を譲ってもらったんです」
「それで声優なのか」
私はしらばっくれて聞いてみた。
「なんの話?」
「最近頻繁にありさから苦情メッセージが来てる。このまえ姫里から紹介された芸能事務所がイメージと違ってたってさ。『どういうこと? 声優ばっかりじゃない!!』『私の顔が表に出ない!!』だって。荒れてるな」
瑛主くんがソファ越しにスマートフォンをかざしてこちらに見せている。離れていてさすがに文字は読めないけれど、矢継ぎ早に短文が送信されているのは見て取れた。
ルックスを武器にしている人がその能力を発揮できない現場に足を踏み入れる。茨の道かもしれない。たとえいつもの武器で渡りをつけて仕事をもらったとしても、それはあくまでもきっかけだ。周りは声の演者としての仕事で評価する。
「他にはなんて?」
「表層でない美しさの追求がどうのこうの書いてあるけど……読むの面倒くさい。自分の言いたいことだけ言って聞き手の心情無視するやり口、スマホでも発揮してる。すごいな」
よかった、私、峰岸さんに連絡先教えなくて。
「最終目標はドーム公演だって。満席にするって息巻いてる」
「近頃の声優さんは舞台やコンサートもあるっていいますもんねえ」
情熱の矛先は『昔の彼氏』から『声優業』へ。どこまでが本気かわからないけれど、峰岸さんなりに満ち足りた日々になるといい。私は遠くから――あくまでも遠くから願うことにする。
「いつまでそうしてるの」
耳元で急に声がし、私は驚いた。瑛主くんがいつのまにか背後に立ち、私を囲うようにシンクの縁に手をかけていた。私の左肩の上に瑛主くんの顔が来ている気配。近すぎて振り返ることができない。身体を硬直させたままスポンジを握りしめる。シンクのなかに泡が落ちる。
「洗い物が私を放してくれない?」
「なぜ疑問文なんだ」
瑛主くんが肩の上で小さく笑う。耳のそばで聞く低い声に私はぞくりとする。そこばかりに意識を向けていると、手と指先を取られた。
「なら、そろそろ俺に返してもらうとするか」
水道水を流して、瑛主くんは泡のついた私の両手を洗った。無骨な指が私の指一本一本を丁寧に撫でまわす。隅々まで検分する執拗な動作に私の心臓が狂ったように騒いだ。
手から洗剤泡が消え、シンク台に落ちているスポンジが拾われたときにはこれで終わりかとほっとしたのに、それをスポンジ置きに適当に放るなり瑛主くんの片手がまた私の手に戻ってきて触れまわるものだから、さすがに抗議の声をあげた。
「水遊びはこのくらいにしません?」
「奇遇だな。俺もそう思ったところ」
洗った手を拭いてくれて、そのまま引いてソファまで導かれる。きれいに片づけられたテーブルに小さい包みが置かれているのが目についた。銀色に白のレース模様の入った手提げの紙袋。
「なにこれ」
「開けてみて」
中身はピアスだった。黄緑色の石がついている。おそらく私の誕生石のペリドットだ。
「かわいい」
「普段の服装から考えるとこんな感じかなって」
「こんなのもらうと困る?」
と瑛主くんが私の顔を覗きこんでくる。女の人への贈り物が不慣れなのか少しだけ自信なさそうな顔つきが、逆にかわいくてくすぐったくなる。そんな顔をさせているのが私だと思ったら心が温かくなる。
いつまでも不安げな顔を見ていたいけど、それよりも思いを伝えたいほうが勝っていて――。
「嬉しすぎる。ピアスもそうだけど、今日は最初から最後までずっと楽しかった。楽しませてくれようとしているのが伝わってきた。私ばっかり、たくさんいろんなものをもらった気がする。こんなにしてもらったら、瑛主くんが上司だってこと、忘れそうになる」
「忘れていいよ」
瑛主くんが静かに言った。
「上司だということも、異動してそう時間が経っていないことも。俺が言ったそういうことを一切、忘れてくれていい」
似合うかな、と呟いて、瑛主くんが私の手からピアスを拾いあげ、私の耳につけようとする。瑛主くんの指が触れ、私は伏し目がちにしてじっとしていた。真剣な視線が近い。それが緩んだ気配があったので、私もほっと吐息を漏らした。瑛主くんが優しく微笑んでいて、つられて私も笑顔になった。
どれだけそうして見つめあっていただろう。潮が引くように自然に笑顔が収まると、まるで私と瑛主くんとがぽつんと残されたような感覚に見舞われた。ソファに並んで座りながらも身体は相手のほうを向いていて、少しでも動いたら瑛主くんから逃れようとしているみたいで、それは今の気分ではなかった。逆に、瑛主くんからそれをやられたらきっと私は距離を置かれた気がしてもの寂しくなりそうだ。
固まっている私の視界を瑛主くんの腕が横切る。反射で身をすくめると、その手はなにもせずに引いて戻った。
なにもされなかった、と思った瞬間、ああ私、なにかされるかもと思っていたんだなとはっきりと自覚した。気恥ずかしくて少し笑ってしまった。落胆もあった。俯いて、そのまま瑛主くんの肩の付け根のあたりに額をつける。
「姫里?」
「好き」
と、私は告げた。「瑛主くんが、好きです」
シャツをぎゅうとつかんだ。
言った直後から私の心臓はばくばくと激しい音を立て、顔にも熱が徐々にあがってきた。一方の瑛主くんはというと、聞こえなかったはずはないのにこれという反応はなくてーーもう緊張に耐えられなくてこっちは泣きたい気分だった。
私のためにあれこれ時間を割いて、誕生日の贈り物までくれたから、多少の好意は持っているものと思っていたのだけど、勘違いだったのだろうか。どう対処したらいいのかわからず、顔をあげられない。
「俺にどうしてほしい?」
「えっ」
身体を引きはがされ、またもや相対する形になる。涼しい顔で瑛主くんは私をじっと見つめている。
「姫里は俺が好き。それから? ほかに言いたいことは?」
「言いたいこと……」
この人は私に全部言わせるつもりなんだろうか。
「峰岸さんのことはもう泊めないでほしい」
「解決済みだから心配いらない。ほかは?」
「今日みたいに奔走してくれるのは嬉しいけど、人を喜ばせる才があるのかもしれないけど、他の女の人にも同じことをやっているのなら、正直、百パーセント嬉しいとは言えなくって。他の子のために瑛主くんが動くのは……嫌」
ふっとなぜか笑われた。
「俺は姫里のことでしか画策したくない。面倒くさがりだしね。あとは?」
「職場の机まわり。整理整頓しないといつかでっかいヘマをやらかすと思う」
「ああ、うん。はい」
くすくす笑っているけど瑛主くん、誰の話だと思ってるの。もっとも、オフに仕事の話を持ち出した私もルール違反だけれど。
「あとひとつ。ミント水はもう、終わりにしてほしい」
そもそも私が告白したというのに、これって流れとしていいんだろうか。私の『好き』は聞き流したいくらい重かったのだろうか。聞かなかったことにして、ただの仕事仲間に戻れる道を作っているとか――?
「ミント水? ああ、ベランダで育てていたミントの」
瑛主くんはベランダを確かめに行き、私を手招きした。見るとそこには枯れて茎だけになった植物があった。
「一応処分しておく。ハーブは根が強いから、この状態からでも生えてくることが多いんだ」
「峰岸さんが育てていたのでは? ミント水も」
「俺のだよ。ミント水も……これはちょっと恥ずかしい話になるんだけど」
瑛主くんが地方から出てきたばかりのころ、偶然立ち寄ったカフェで出されたお冷やがミント水で、さすが都会だと感動したのだとか。それを自宅でも真似するようになり、ペパーミントがいつまでも鉢植えにあるものだからなんとなく続けていたところ、峰岸さんが数回一緒に飲んだ……というのがことの真相だった。
あの人、その数回をあたかもオリジナルネタのようにブログ公開していたわけか。
瑛主くんが室内に戻ってからも私はベランダにいた。手摺りに両手を置いて空を見あげる。小さな星が輝いている。
振り返るとソファに座った瑛主くんが穏やかな目をして私を眺めていた。言葉はなくとも表情だけでそばに行くことを許された気がした。尋ねもせずに真横に座る。瑛主くんがさらに詰めてきて肩を抱かれた。
なにも喋らないまま時間がたち、私は観念して瑛主くんの側を向いた。さっきからずっと頬のあたりでひしひしと、注がれる視線を感じてはいたのだけど、こう、踏ん切りがつかなくて身動きが取れなかったのだ。気のせいではなく、瑛主くんはちゃんと私を見ていた。私が戸惑っているあいだも私のことばかりを考え、見ていてくれたのだと思って胸がじんとした。漂う空気が甘くて張りつめていてとても苦しい。ひと思いに破ってくれたらいいのに、と感じはじめたそのとき、瑛主くんの唇が「好きだよ」と動いた。
「好きだよ。姫里」
私は瞬きを繰り返した。呪縛が解けるように指先が軽くなり、瑛主くんの服をつかんだ。本当に、と聞くみたいに。
答えはなかった。でも伝わっていた。私たちはどちらからともなく近づくとキスを交わした。
キスはひとつでは終わらなかった。触れるだけのそれが済んだあと、身体を引いたのに追ってきて再び唇をふさがれる。離れたと思ってもそれは一瞬で、また柔らかくしなやかにキスが繰り返された。浴びるようなという表現がぴったりだった。扱いは終始優しかったけれど、しまいには目眩がしていた。
止んだあと、ぼんやりしていると瑛主くんがささやいた。
「このまま抱いてしまいたいけど」
声が掠れている。暗がりで困ったように笑う瑛主くんに言いようのない色気を感じた。こんな顔は見たことがなかった。
「今さっきつきあおうってなったばかりでそうしたくない気持ちもある。姫里はどうしたい? 抱かれたい?」
答えに詰まっていると、さほど時間を置かずに
「俺のほうはいつでも抱けるから」
と言われた。
質問で返すという逃げ道を奪われ、私は正直に言うしかなかった。キスの最中、後頭部をつかまれていた感触がまだ生々しく残っている。
「もう、いっぱいです」
「うん?」
「だから、もういっぱいですってば! さっきから抱くだの抱けるだの……すごく恥ずかしい。涙出てきた」
いやいやをするように逃れようとしてもなぜか身動きが取れなかった。瑛主くんが押さえつけているわけでもないのになぜソファから降りられないのだろう。首を傾げていると、面白そうに顔を覗きこまれた。
「足が立たなくなった?」
「そっか、昼間のフェスで疲れたから」
「じゃなくって。姫里、今ので腰が抜けちゃったんだよ」
「質問されて腰抜かしたなんて話は聞いたことが」
「俺だってないよ。そうじゃなくて、そのまえの。キス」
最初のうちは瑛主くんも笑いを堪えていた。だけど、私が掛け声をかけて勢いをつけて立とうとしてうまくいっていないのを見て、いよいよ笑いが止まらなくなった。そうなるとこっちも腹立たしくなってきて、もうヤツの力は借りるまいと思い、ソファの肘掛けやテーブルにもたれて体勢を整えようとする。
最後にはさすがに瑛主くんが助け起こしてくれた。行きついたのは寝室のベッドのうえだった。
「朝まで隣で寝てくれるか」
このあとどうなるのか気がかりだっただけに、そう切り出してくれてほっとしたのは事実だ。頷き、ベッドの奥側にいる瑛主くんの横に恐る恐る入った。
「もっとこっちに寄って。落ちたくないなら」
「私、寝相いいし。瑛主くんさえ突き飛ばさなければ大丈夫」
「さっきみたいなかわいい一面見せてくれたら絶対落とさないし。ああ、でも、あんまり憎まれ口ばっかりだとついうっかりするかもしれないな」
「嘘つき」
口ではそんなことを言うくせに、瑛主くんは私の首のうしろと膝の裏に手を入れてよっこいせと抱き上げ、より転落しにくい自分の側に移動させ、私を見おろしながら頭を撫でている。
「なんとでも言え」
夢を見ているようだった。瑛主くんが優しい。愛おしい。こんなふうに誰かに甘やかされたことがあっただろうか。好きな人から向けられる温かな眼差しを間近で感じながら、知らず知らずのうちに眠りについた。
翌朝、目覚めたのはほとんど同時だった。小さな身じろぎで視界に入ってきた情報からどうしてここにいるのかを思いだし、瑛主くんの寝顔を拝んでやろうとしたら、その瞼が開いた。
「おはよう」
「おはよう、ございます」
すかさず目の横にキスを落とされる。そうだった。昨夜、気持ちを伝えあったんだった。
「……一瞬、なんで姫里と寝てるんだっけ、ってびびった」
夢心地なのは瑛主くんも同じで、うれしくなる。朝ご飯をどうするか、今日はどう過ごすかをベッドにいたまま相談して、瑛主くんはシャワーへ、私は瑛主くんが浴室に消えてから洗面所へ向かった。




