09
峰岸さんと歩いていて痛感した。抜群の美貌だとは思っていたけれど、まさかこれほどとは。路上でも駅でも、みんなが峰岸さんに目を留めていく。ホームの向こうからまるで信じられないものが視界を横切ったとばかりに二度見をする若者もいれば、神様にでも会ったかのように足を止めて拝む女性もいる。峰岸さんが雇ったサクラかと疑いたくなるくらい、峰岸さんを主人公に世界が展開する。
一番多かったのはスマホで写真を撮る人だった。最初は気のせいかと見逃したものの、明らかに違った。すみませんが、とこちらも下手下手に薄笑いを浮かべてやめてもらう。私を傍観していた峰岸さんも、途中からは『ネットにアップするのはやめてね』と微笑を浮かべて協力しはじめ、相手をぽうっと赤面させていた。
電車に乗り、空いている座席を見つけて座る。
「峰岸さんって外を出歩くたび、いつもこんなに騒がれているんですか」
「そうなのかな。意識していないけど」
峰岸さんはにこにこしながら向かい側の席に座る男の子に手を振る。中学生くらいだろうか、学校名の入ったジャージ姿の彼はぷいっと目をそらし、耳を赤くした。
瑛主くんがいちいち送っていた理由がわかった気がする。峰岸さんは危なっかしくて放っておけないんだ。素敵な外見でふわふわゆらゆらしていて、どこにでもついて行ってしまいそうだった。
「あっ、今のって電機屋さん?」
「みたいですね」
窓の外に見えた看板のことを言っているようだ。
「行く。行きたい! ねえ、止めてもらって」
「は。なに言ってるんです」
私たちは電車に乗っていて、その電車はゆるやかに動き出して加速しはじめている。
「どうにかならない? 今ね、美顔器がなくて困っているの。こっちに持ってくるのを忘れてしまって」
峰岸さんは上目遣いで私の腕にすがる。
「……じゃあ次で降りて、一駅戻りましょうか」
「ええ」
断って変に機嫌を損ねさせるより、そうしたほうがよさそうだった。スマートフォンを取り出して、瑛主くんに峰岸さんを連れだしている件と併せて連絡する。止せと言われても、瑛主くんがしてきたようにマンションのまえまでは送るつもりだ。
「ところであるわよね、美顔器。美容家電の売場は何階?」
私は専属のナビじゃないです、と言い返すよりも、じゃあ検索してみましょうねと応じてしまったあたり、私も結構毒されているのかもしれない。
家電量販店では美顔器とマイナスイオンドライヤーを買った。同じフロアの店員につかまり、売り込まれてしまったのだ。髪がつやつやさらさらになります、と話しかけられた峰岸さんは、
「私は間に合ってるから。そうだ、あなたやってもらいなさいよ。ちょうどいいじゃない」
と私を売り子さんに押しつけ、体よく実験台にした。
夏場の一日の終わりということで髪は汚れているはずだ。そこへ他人からマイナスイオンの風をあててもらうというのがひどく申し訳なくて、なんだかすみませんと私は店員さんに謝りたおした。
「あなたがいてくれてよかった。滅多な人に髪を触らせたくないものね」
こういう発言するあたり、もう本当、私のこと実験台としか思ってないよね。
「ドライヤー、ちょうど欲しかったの。谷口くんのお家のはなかなか乾かないし、髪にもあんまりよくなさそうで」
「うちの実家で使っているやつなんかもっと古いですよ。いつ火を噴いてもおかしくないような音がするし」
「嫌だ、怖い。火を噴いたら教えてね」
行動を共にして多少は距離が縮まった気がする。くすくす笑いが止まらない峰岸さんに、なに言ってんですかくらいは言えるようになっていた。
買い物で消耗したこともあってお腹がすいたので、目についた看板を指さして冗談半分に誘ったところ、峰岸さんはあっさりついてきた。大乗り気で暖簾をくぐる。丼物のチェーン店だ。
入るなりきょろきょろと店内を見回している峰岸さんを食券販売機のまえに連れていき、紙幣を投入。食べたいものを選んでもらう。
「あのね、私、こういうところに来るの初めてなの」
声から興奮が伝わってきて、私も笑いがこぼれそうになる。有機野菜や契約農家の肉しか食べていなさそうな人をこっちの庶民の世界に引き入れたようで、おもしろかった。峰岸さんは目をきらきらさせながら私と同じ親子丼を食べた。
瑛主くんのマンションの最寄り駅で電車を降りる。構内標示を見ながら出口は何番だろうと考えていると、こっち、と逆に峰岸さんに教えられた。複雑な気分だ。ドライヤーも買ったし、峰岸さんはいつまでこの生活を続けるつもりなのだろう。
「あなたは谷口くんの彼女なの?」
「違いますけど」
「でもさっき、谷口くんの部屋のドライヤーを見たことがあるようなこと、言ったよね」
「鋭いですね」
あれは、私も失言と気づいていた。追及されないといいなと思っていた。でも峰岸さんはそこを突いてきた。私に疑いをかけているのは明らかだった。
手に提げている量販店の紙袋が足に当たって音をたてた。ドライヤーを私が、美顔器を峰岸さんが持っている。マンションまであと少し歩かなければならない。
「恋人を部屋に呼べないって嘆いていましたよ」
私は言い、峰岸さんの視線を感じるまで待ってから、
「主任を泊めている部屋の住人さんが、ね」
と受け流した。峰岸さんは動じなかった。
「あなた、年はいくつ?」
「二十代です。主任よりは年下ですけど、同期入社です」
「それで打ち解けているふうなのね」
私があと五つ六つ若かったら、後先考えずに言えることもたくさんあっただろうと思った。感情の赴くまま、瑛主くんを渡さないと宣言できた。渡すもなにも、私と瑛主くんとは上司と部下なだけだし、その気はないと釘を刺されて動けなくなっているし、そこへきて昨日の『自殺行為』発言もある。
「望みを叶えたいのにいろんな事情があって行動に移せないときって、どうしたらいいんでしょう」
ひとりごとのような物言いで私が聞くと、それ私に聞くの、と峰岸さんは艶やかに笑った。
「皮肉にしか聞こえないのだけど」
「そういうつもりはなくて。でも、そっか。ごめんなさい、さっきおごった親子丼に免じて許してください」
峰岸さんは軽く笑って受け流した。そのあとの回答は早かった。
「叶えたいなら行動すればいいし、事情があるなら解決すればいい。どうもこうもないでしょう」
「そうは言っても解決しきれないこともあるんじゃないかな、って思って。たとえば恋なら相手の気持ちも絡んでくるし、自己啓発ならお金だってかかるし」
「好きな人に振り向いてほしいなら、振り向くまで呼べばいいじゃない。自分を磨くお金だってそう。資金面で手伝ってくれる人を探せばいいだけの話。できないなんて言い訳よ」
瑛主くんのマンションに着いた。エントランスのドアを峰岸さんは手持ちのバッグから鍵を出して開けた。瑛主くんの部屋の鍵が未だにポストにあると思っていた私はそのことがショックだったし、それを見逃す峰岸さんではなかった。私に流し目をくれながらまえを横切り、先にエレベーターに乗り込んで、迷う様子もなく目的の階のボタンを押す。ドアを開けたままにしながら「行く?」と聞いてきた。私は頷いて乗り込んだ。瑛主くんがしてきたのと同じように部屋のまえまで送るつもりでいた。
「結婚は夢を叶えるための処世術」
と、階数表示を見ながら峰岸さんは言った。
「心までは満たさない。そのくらい谷口くんもわかっているの。彼、頭いいから」
反論したいのはやまやまだったけれど、相手は既婚者でありながらかつての恋人に心を満たしてもらおうとしている人だ。いいほうと悪いほうのどちらへ転ぶかわからなかったから言えなかった。峰岸さんにかかればそれさえも『できないなんて言い訳』と切り捨ててしまうのだろう。
扉が開いた。促され、私が先にエレベーターを降りる。もう時間がなかった。峰岸さんとこうして話す機会がまた次にあるとは思えない。
私は峰岸さんを引き寄せ、エレベーター横の壁に押しつけるようにし、両腕を伸ばして閉じこめた。峰岸さんが私と壁とのあいだに挟まれる恰好だ。間近で大きな目が瞬いた。
「私、壁ドンなんてされたの初めて」
「私だって今日までしたことなかったですよ」
なんの告白しているんだか。緊張が弛んだのを好機と捉え、私は踏み込む覚悟を固め、一息に言いきった。
「谷口主任が頭がいいというのなら、主任がどうなることを望んでいるのか、あなただってうすうす気がついているんじゃないですか?」
いつでも出せるようにとバッグのポケットに入れていた、私にとっての切り札を、文字が読める高さで峰岸さんに握らせる。
「この名刺は映画を手がけたことのある友人から譲りうけたものです。あなたの魅力をこんなところで無駄に発散させておくのがもったいないと思って」
「これ、芸能事務所? 聞いたことのない名前ね」
疑わしげに言いながら、峰岸さんは名刺を細部まで読んだり裏返したりしている。「こう見えて私だって以前、有名どころから声を掛けられたこと、あるんだけど」
「私が話を通したのは昨日今日といった最近の話です。声を掛けたきり音沙汰のない有名どころがどうしてもいいというならそれまでですが、こういう出会いって、ご縁やタイミングもあると思うんですよねー。次々に新しい才能が発掘されていく業界でしょうから、ある程度は売り込みも必要かと思いますし。もちろん、峰岸さんにその気があるのなら、という前提で話しているんですけど」
にこやかに微笑みながら一度は渡しかけた名刺に目を落とし、不要なら返してとばかりに手を差し出す。峰岸さんは私から逃れるように名刺を持った手を下げた。返すつもりはないらしい。となればもう一押しだ。
「ご縁やタイミングか。恋と似てますね!」
「……いかがわしい業界じゃないよね?」
じろりと刺すような目で睨まれる。乗せるつもりが逆に警戒されてしまった。
「どうして私にエロい業界のつてがあると思ったんです? ないでしょ、この平坦なボディーに! ニーズなんて!」
「うん。そうね」
キイイっと大袈裟なくらいこっちが自虐的に騒いでみせたら峰岸さん、あっさり納得した。わかっていたけど面倒くさいな、この人。
やれやれやっとご理解いただけたようだと胸をなで下ろす私を余所に、峰岸さんはなにか思いついたらしい。
「芸能界もいいけど、まずは目先のものよね」
私の脇をすり抜け、瑛主くんの部屋のまえまで行き、振り返った。
「ありがとう。あなたには感謝するわ。いいアイデアをくれて」
そう言われてもなにが峰岸さんのアンテナに触れたのか私には見当もつかない。止めようと腕を掴んだ。
「なに、考えているんですか?」
ごまかされるかと思ったら、意外にも話してもらえた。それは、私という人間が、峰岸さんの敵としてはあまりにも弱い存在だと、相手にするほどじゃないと思われているからに違いなかった。
「私ね、今、谷口くんのベッドも服も自由にできるんだ。彼のシーツを乱して、きわどいランジェリー姿の私が横たわって、雰囲気のある写真でも撮ったらおもしろいかなって思ったの。谷口くんの服も脱ぎ散らかしたように端に写し入れて、彼の気配をちゃんと残して、ね。見た人はそこでなにがあったか、嫌でも想像しちゃうような」
豊満な身体つきの峰岸さんだ。この人にベッドに誘われて断れる男性なんているはずがない。作り物だとしても、そんな人の夜を思わせる写真が存在したら、本当にあったことだとみんな信じてしまいそうだった。峰岸さん自身、そのことをよくわかっていた。
「写真を主人にも見せたいって言ったら、谷口くんは私から目が離せなくなるよね。私の主人に知られたら困るものね」
大人をぶん殴りたいと思ったのは初めてだ。いい加減にしてと罵りたかった。立場も恥も外聞もなくやってしまいたかったけどしないで済んだのは、私が暴れたところで瑛主くんのためにはならないとわかっているからだった。
「そんなことしないでください」
激しい憤りを押し鎮め、理性に変えて絞りだした。
「瑛主くんも困りますし、峰岸さんのご主人も困りますし、峰岸さんだって下手したら自分の家庭を損ないます。どうしてもやりたいというのなら、ビジネスとしてやってください。峰岸さんの周りにある善意や好意につけこんでわざわざ裏切るようなこと、しないで」
そこまで言ったことで峰岸さんはようやく私に興味を示したようだ。名前、なんて言ったっけ? とわずかに距離を詰め、冷たく冴えた目で私をしげしげと眺める。国宝級の美人に至近距離で凝視されるなんてそうそうあることではない。たじろいでしまいそうなのをどうにか堪え忍んだ。
「意外ね。暴力に訴えたり泣きわめいたりするかと思ったら、根性あるじゃない」
峰岸さんは観察の体で、私は警戒心全開で、少しのあいだお互いを見合った。
「困るって言うけど、あなたはどうなの姫里さん。あなたもその、困るうちのひとり?」
「困ります。大困りです!」
「困る理由は……姫里さんから聞くまでもないね」
ふんわりとほどけるような微笑みを峰岸さんはこぼすと、んーっと言いながら今までの視線の攻防はなんだったのかと思うようなリラックスした様子で両腕をあげて大きく伸びをした。
「困るってはっきり言われたの初めてかも。ちょっと新鮮」
そして斜に構えた角度からにこりといたずらっぽく笑いかける。
うわっと声に出しそうになった。私が男だったら間違いなく落ちてる。惚れてる。こんなの見せられたら誰もが惚れ込んでしまう。ここにきて一番のかわいい微笑みだった。
今ここに瑛主くんがいなくてよかった。それでなくても昔の恋人だ。再燃したっておかしくない。
ひっそり胸を撫でおろしたそのとき、私でも峰岸さんでもない声が廊下に響いた。
「話は終わり?」
廊下の死角からぞろぞろと、瑛主くんと山田さん、あと一人は見知らぬ男性が出てきた。いつから、と無意識に問いかけた私に山田さんが答えてくれる。
「全部聞いてた。最初っからね」
瑛主くんに目配せをしながらにやけている。瑛主くんはというと、やっぱりほぼ同じで、真顔を保とうとしているのがなんとなく伝わってくる。「俺たちのほうが早く着いていたんだよ。今日の夕方、姫里がおかしな動きをしているってわかった時点で連絡を取り合って、先回りしてた。峰岸氏が繰り上げ帰国する日だったし、これ以上ないタイミングだった」
待機していたいきさつはわかったけれど、妙な笑いの意味がまだ理解できない。峰岸氏というのは峰岸さんの旦那様のことで、瑛主くんたちに挟まれて立っているこの男性がそうなんだろう。両脇のふたりの顔や体つきがいかついせいか、とても穏やかで柔らかい印象が伝わってくる。話に聞いていたよりだいぶ若く見えた。
その凪いだ海のような雰囲気が、口を開くと一変した。
「面白そうだからこのまんま見ていようかって、三人で意見が一致してね。いやあ、笑いを我慢するのが大変だった!」
「女って怖えーっすな!」
「ねー」
ははは、と先頭になって豪快に笑っているのが峰岸氏で、それを煽っているのが山田さん。瑛主くんは立場が立場だから、さすがに相槌を打つのは控えている。
「俺は姫里の、人の懐にぐいぐい入ってくるような距離の詰めかたが怖くてはらはらしてた」
私の真横でそう言い、少し笑った。一応、心配はしてくれていたらしい。
どんなに穏便に進めても、不倫の現場を押さえたと峰岸さんが糾弾されるか、あるいは瑛主くんが峰岸さんの誘惑に負けたと責められるかするものと思っていた。なのに現実は想像の遙かに上をゆき、あっさりとしていた。
「次の出張はありさも一緒に行こうか。もう寂しい思いはさせない。いいね」
そう言って峰岸氏は峰岸さんの肩を抱き寄せた。それが旦那様からの唯一の意思表示。柔らかいながらも有無を言わせない強さがあった。
瑛主くんと山田さんに至っては、峰岸氏と名刺交換をし、今度飲みにいく約束までしているんだとか。迷惑料代わりかもしれないけれど、峰岸氏がふたりの行動力に惚れ込んでいるということのようだった。すごいな、営業力。営業力は世界とかも救っちゃうのかもしれない。
「つまんないの」
峰岸さんも私と似たようなことを思ったらしい。瑛主くんに一定期間付きまとっていた割に瑛主くんには響かず、ろくな成果を挙げられなかったので、すねるようなことをただひとこと言って、旦那様に連れられて去っていった。
そのあと、峰岸さんの籠城していた部屋を片づけることになった。峰岸さんの持ってきたスーツケースに詰められるだけ詰め、残りは紙袋などに入れておいて、峰岸氏が人をまわして後日回収する手筈になっているのだとか。
私も手伝うつもりだったのに、その必要全くなし、と瑛主くんはおろか山田さんにまで拒まれた。
「過去の女の後始末を君にさせるとか、どういうデリカシーのなさだよ」 不機嫌そうに毒づいて山田さんが一足先に室内へ入っていった。廊下に残るは瑛主くんと私のふたりだけ。
「念のため盗聴器が付けられてないかまで調べると言ってくれたけど、さすがにそんなことはしないだろうと断ったよ」
「そう」
私はまだヘアドライヤーの入った量販店の紙袋を下げていた。別れ際に峰岸さんに渡そうとして、突き返されたものだ。あなたはもう少し自分の見た目に手を入れないと、と言われた。何様、と感じさせる態度は最後まで揺るがなかったな、あの人。
「これ、ドライヤー。瑛主くん家のが壊れちゃったんだって。さっき一緒に買ってきたの」
私がもらうのも違う気がして、瑛主くんに受け取ってもらおうと小さな嘘も混ぜて手渡した。
「珍しい。なんでもネットで買うヤツだったのに」
瑛主くんは紙袋からそっと視線を外す。
「寂しかったというのは本当なのかもしれないな」
それがわかったとしても、愛すべき一面があることを知っても、私にはこれ以上どうすることもできないし、もうその必要はない。規格破りの峰岸さんだとしても、あの心の広そうな旦那様がすべて受け止めるはずだ。
「……帰るね」
「待って」
部屋での作業もあるのだからと私が立ち去ろうとしたのを、瑛主くんはぐいと手を引いて留めた。軽くよろけたもののぶつかるほどでもなく、すぐに手は離れた。
「やっと終わった」
「うん」
改めて確認するように瑛主くんが言うので、私も同調して静かに頷く。
「今日で全部清算できた。これでやっと進める」
「そう」
山田さんから借りる不釣り合いなネクタイ姿もこれで見納めかと思ったら、そのつもりはなくても口元が緩んだ。なに笑ってるの、別に、なんてやりとりを経て沈黙が降りる。
瑛主くんが口を開いた。
「ありがとうなんて言葉じゃたりないけど。姫里が協力してくれて、助かった。今の俺の一番近くにいる女が姫里だったから、あいつを刺激するんじゃないかと恐れていたんだ。だから最初は巻き込むまいとして黙っていた。解決に時間がかかるのもわかっていた。あいつを悪者にして排除しても、納得せずにまた来そうな気がして……だったら徹底的に根比べしてやろうと、峰岸氏と連絡を密にしながら帰国を待っていた」
はい、とだけ私は答える。
「終わってよかった。姫里が俺のしていることに呆れて離れてくんじゃないかって心配してたけど、今のところまだいてくれてるし」
よかった、と白い歯をのぞかせて笑う瑛主くんが、基本は強面のくせにそんな弱気に心配をしているところが妙にかわいく思えて、私の手が動きかけた。あと少しでぎゅっと抱きつくか、頭をよしよしと撫でるか、するところだった。よほどぎこちない動きだったのか、数センチあがったその手を元に戻すのを瑛主くんは見逃さなかった。
「今、なにしようとした」
「なんでもないです」
「嘘つけ」
頬をつねられて、外そうとしたその手が逆に捕まった。指先を握られたまま、瑛主くんに聞かれた。
「俺に関わりたくないって、思ってる?」
「どうしてそんなこと。思うわけないじゃないですか!」
きっぱり言い切る。
そばにいたくて、もっと近くに行きたくて、でも今はそのときじゃないと言ってきたのは瑛主くんのほうだ。異動してきたばかりだから、職場恋愛なんてありえないと。
「距離を置いたのはそっちなのに、なんでそんなこと聞いてくるんですか。まるで関わってほしいみたいな言いかたして、それで煮え切らないまままた遠ざかるんでしょ。手口ならもう知ってます」
掴まれていても足なら動く。あとさき考えずにえいっと、つま先あたりを踏んづけてやった。ヒール攻撃でなかっただけよかったと思いなよ、ふん。
掴まれていた指先が緩んだすきにそこから逃れ、二、三歩あとずさり、肩からずり落ちたバッグをかけ直す。瑛主くんは驚いた顔をしている。まさか踏まれるとは思っていなかったらしい。ふふーんだ。
「普通、踏むか!?」
「えー? 踏んじゃってました? ごめんなさーい、気づかなくって」
「一応、俺、上司なのに……」
「自分の都合で役職持ち出さないでくださいよ、主任サマ」
ぴしゃりと言い放つと、さすがにもう引き留めてはもらえなかった。ああこれは失敗したかなあ、と帰りのバスのなかで思っていた。でも明日からまたがんばろう、くらいのニュアンスで。本人も言っていたけど、上司だからまた会社で会える。
スマートフォンがメッセージの着信を知らせたのはそんなときだ。
『遠ざかろうなんて思ってない。デートしたい』
その文言からはじまる続きを知りたくて、メッセージを表示させたけれど書かれていたのはそれだけだった。そういうことは会っているときに言ってよ、と打ってみたものの、送信せずに消去する。
既読無視を決め込んだのが功を奏し、翌朝、会議室に呼び出された。
「今週の土曜は一日あけといて」
「また出張ですか」
瑛主くんのことだからそれもあり得る。そう思っての確認だった。
「それも悪くないけど、遊びの予定」
「あいにく先約がありまして」
本当だった。あきちゃんと夏物バーゲンに行く約束をしていた。
瑛主くんは動じなかった。驚く素振りさえ見せない。
「どういうつもりで誘っているかは昨夜伝えたはずだけど、それでも……だめか?」
長机にそっと手が置かれ、視線が誘導される。見あげると私より長身の瑛主くんが心細げに瞳を揺らしていて、息を呑んだ。“デート”のフレーズが思い起こされる。
デートだと意識したら私のほうがうろたえた。会っているときに言ってほしいと昨夜は思ったのに、いざ言われると照れくさくて走って逃げたくなる。
「本当にだめ?」
「あーもう、わかりましたよ。行きますから!」
しつこく食いさがる瑛主くんを見ないようにして、これでいいでしょとばかりに返事をする。かわいげがないと自分でも思う。
瑛主くんは笑いをこらえきれない様子だ。声が明るい。
「勇気を出してよかった。まえに誰かさんに叱咤激励されたからな。ちょうどこの部屋の近くで」
「そうですか」
「初めてだな。こんな喧嘩腰にデートのオーケーもらったのは」
「でしょうね」
その日の瑛主くんは終始表情が明るかった。職場のいろんな人にどうしたなにかいいことあったかと聞かれていて、席の近い私は浮かれているその理由に思い切り心当たりがあるだけに、瑛主くんがデートの件をばらすんじゃないかと気が気ではなかった。




