相対するは嘗ての友
戸張の案内で通されたのは生徒会室だった。はな婆はこの学園の実権を生徒会長が握っていることを既に頼人たちから聞いていたが、未だ眉唾物で、からかわれているのではとさえ思うくらいだった。しかし、生徒会室に入り、それらしき女子生徒とその隣に老いた紳士が立っているのを見て、真実味がにわかに増してきた。
「こんにちは」
生徒会長、伏水が優しく微笑みながら挨拶をした。
「こんにちは。えへへ」
零子も笑いながら挨拶を返した。はな婆と零子は伏水に促され、長机を間に挟んで着席した。
「戸張君から事情は聞いています。どういった陰謀があったのかは分かりませんが、いたいけな少女を監禁するなんて酷いですね。あなたがこうして無事に助け出されたのも、戸張君をはじめ、我が校の生徒の尽力があったからです。それに加えて、三福議員の不正も暴いたとなると、生徒会長として、学園の責任者としても……」
「姉さん、脱線しかかってます」
理事長が小声で注意をすると、伏水は恥ずかしそうに咳払いをして、話を中断した。代わって、理事長がはな婆と零子に話し始めた。
「それで、零子さんの我が校への編入についてですが。通常であれば、学力検査や面接を含む編入試験を行い、必要な能力を満たしている場合に編入を認めているのですが、今回は特例として試験は行なわずに無条件での編入を認めることにします」
「融通を利かせてくるのう。裏があるのかと疑ってしまうくらいじゃ」
「額面通りに受け取ってくれればいいんですよ、神宮寺はなさん」
説明を任せていた伏水が、再び口を開いた。その言い方自体に含みを感じたはな婆は、伏水をじっと睨んだ。その一方で理事長が説明を続ける。
「まあとにかく、編入手続きを一通りしていただければ、零子さんは晴れて鳳学園の生徒となれるのです。書類はここに用意していますので、まずは保護者のはなさんに書いていただきましょうか」
いくつかの書類を目の前に置かれて、はな婆の視線はそちらに移った。しかめっ面のまま、その表情を崩すことなく書類に目を通した。
書類に書かれている文言を確かめている間も、伏水のことが気になっていた。鼻にかけた物言いが年不相応であり、年配者への配慮を感じさせず苛ついた。だが、すぐにこの女子生徒が、普通の人間でないことを思い出した。
頼人たちの話によると、伏水日奈美は理の力によって転生紛いのことを繰り返し、高校生を演じているとのことだ。いくら見た目が幼いままでも、精神の成長が止まるはずはなく、本来の年齢相応の熟した思慮と傲慢さを持っているはずだ。その傲慢さを、老婆である自分にぶつけられる度胸は、伏水の実年齢に伴った当然の応対と見て取れる。だがそれだけで、赤の他人に対して、横柄でいられるだろうか。
だんだんと伏水の正体が気になってきた。しかし、その思考を戸張の急かす声で遮られた。
「読んでるだけじゃなくて、書くとこはちゃんと書くんだよ?」
「分かっておるわい!」
意味もわからずに怒鳴られて、戸張は首を傾げた。それでも忠告通りに、はな婆はペンを持ってスラスラと必要事項を記入してくれた。
適当ともとれる速さで書き終えて、書き漏らしがないか書面を今一度眺めた。すると、はな婆はあることに気が付いた。
『鳳学園理事長 鳳逸郎』。穴が空くほどその文字を見て、その後、全身の力が口から抜けていった。
はな婆が椅子にだらしなくもたれ掛かるのを、戸張と零子はそれを不思議そうに見ていたが、理事長と伏水はお互いの顔を見てほくそ笑んでいた。
「あれ、おかしいですね。もっと驚くかと思ってたんですけど」
伏水は尚も笑みを浮かべながら言った。
「驚いておるわい。驚きすぎて、なんにも感情が出てこんのじゃ。旧友とこんな形で再会するとはのう。しかし、いつの間に理を使えるように……」
「あれ以来、色々と努力したんです。はなちゃんのこと、羨ましく思ってたから」
伏水は遠い目をして天を仰いだ。
「寧ろ、嫌われたと思っておったがのう。まあ昔のことをとやかく言うまい。生きている内にまた会うことが出来たのじゃから。ほっほっほ、逸郎君もすっかり老け込んだのう」
はな婆は視線を理事長に移した。
「気付けばこんなに年老いていました。常に姉さんと共にいるものですから、自分が老化していることに疎くなってしまいます」
「とんでもない力じゃのう。ああ、懐かしい思い出がどんどん思い起こされるわい」
昔話に花を咲かせる3人に、戸張が入りづらそうにしながらも割り込んできた。
「あ、あのー……置いてけぼりになってる僕たちにも説明が欲しいんだけど」
「ん? ああ、すまんのう。まあ簡潔に言えば、この2人はわしの知り合いだったということじゃ。もうウン十年も会ってなかったもんじゃから、今の今まで気付けんかったわい」
「戸張君から紹介を受けた時、驚いちゃいましたよ。長永君たちに、はなちゃんが関わっていたのなら、彼らが理を使えるのも合点がいきます。それを知ってたなら、あんなことはしなかったのですが……」
『あんなこと』とは、頼人たちを理の力を使って自分の理想の生徒にしようと画策したことだ。戸張はそれが何年も前の話のように思えたが、あれから4ヶ月ほどしか経っていない。それまでの間、様々な事件が起きて、目まぐるしい毎日を過ごしていたため、妙な錯覚に陥ってしまったのだろう。
戸張が記憶を呼び戻している内に、またはな婆たちは昔話に花を咲かせていた。もう割り込む余地もなく、戸張はそれを聞いているだけになっていたが、話しながらもしっかり書類に必要事項を記入しているのを確認したので、零子の手を引いて、生徒会室を後にした。
戸張と零子は2人だけで帰路についた。歩きながら、零子は興奮気味に話しかけてきた。
「学校、すごかったあ! 病院みたいにおっきくて、楽しそうだった!」
校内を周った訳ではないのに、もう感動しきっていた。校内を案内する時には、どれほど興奮してしまうのだろうか。戸張はそれを見るのが楽しみになっていた。
「きっと、もっと楽しいって思えるよ。色んな施設があるから」
「へえ、見てみたいなあ。あっ、あとね、制服も早く着たい! 花凛ちゃんと杏樹ちゃんの見て、可愛いなって思ってたんだ。そうだ、お勉強用に色んな物を揃えなきゃ。ペンとか、ノートとか……」
「用意する物はいっぱいあるよ。今度、一緒に買い物に行こうか」
「一緒にお買い物……それって、デートって言うんだよね? やった! カズ君とデートだ!」
戸張は否定のしようがないため、照れながらも頷いた。しかし一方で、零子に『デート』という言葉を教えた犯人を突き止めて抗議したい気持ちも生まれた。あまり軽々しい、俗っぽい言葉を教えるのは零子の品位を落としかねないからだ。
ただ、誤解されたくないのは、零子自身に杏樹のような上品さを求めているのではなく(まあ、杏樹も本質は上品とはかけ離れているが、一般人から見たら最高級品質である)、世間から浮かない程度に普通で平凡な人間であって欲しいがために、下品にも上品にも振り切らないよう、物事を客観的な観点から教えてあげてほしいということを思っているのであり、少し目を離した隙に零子が自分の知らない零子になってしまっていることを恐れているとか、零子を誰かに変化させられたことに嫉妬するとか、寧ろ自分だけの知る神秘的な零子のままでいてほしいとか、そういった自己中心的な考えは一切ないと主張したい、と戸張は脳内で言い続けた。
何に向けているのかも分からない、過剰な言い訳に神経を使っていたため、目の前に現れた人影に気付くのが遅れた。それが自分の仇敵だと分かったのは、零子がその人影と話し始めた後だった。
「何か御用ですか?」
「お前に用はない。用があるのは、うつつを抜かしてるそこの弟弟子だ」
戸張の目にその人影の姿がはっきりと映った。
「羽黒……」
憎しみのこもった声で名を呼ぶ。羽黒は向けられる敵意を意に介することなく、平然と戸張に近付いてきた。
「正確に言うならば、俺が和巳に用があるのではなく、和巳が俺に用がある、だろう。散々嗅ぎ回ってくれて、こちらもいい加減うんざりしているんだ。そろそろ忠告の1つでもくれてやろうと思って、出てきてやったんだが……」
「減らず口を!」
戸張は怒りに任せて鍵を投げつけた。鍵は羽黒の顔に真っ直ぐ飛んでいったが、羽黒が咄嗟に手で顔を守り、直撃するには至らなかった。
手のひらに鍵が差さる5本の指が力なく垂れた。羽黒はその様をしげしげと観察した後、事も無げに鍵を引き抜って放り捨てた。
「少しは成長したようだが、まだまだだな」
鍵の刺さっていた手から黒い靄が出てくると、すぐにそれは大鎌の形になって両手で握られた。一気に戸張に詰め寄ると、勢いのままに柄を押し当てて、アスファルトの地面に打ち倒した。
起き上がる猶予も与えずに、片足で腹を強く踏みつけて動けないようにすると、鎌の切っ先を戸張の喉元に当てた。刃の冷たさが喉から伝わり、戸張が瞬きをすることすら許さなかった。
ただじっと羽黒を睨むことしかできなかったが、羽黒は顔を背けて、戸張を気になどしていなかった。
「……こうも人間的でないと、薄ら寒く感じる」
羽黒が見ていたのは零子だった。零子は無表情で戸張と羽黒を見て、立ち尽くしていた。
「あの負の気を封じ込めたのは称賛に値するが、弊害も出ているようだ。失った感情の枠が空白のままだから、その感情が起きる事態になっても、正しい表現が出来ずショートしてしまう。本来なら不安や恐怖が襲っているに違いないのに、彼女はそれを感じることのないまま、何を思うこともなく、自分の処理できる感情が生まれるまで待つしかない。哀れな娘だ」
愚弄するかのような言い振りに、戸張は我慢が出来なかった。鎌の柄を掴み、力任せに押し返そうとする。だが、体勢の不利は覆せず、刃を微かに浮かせることしか出来なかった。
「馬鹿にするな! 零子を馬鹿にすることだけは絶対に許さない!」
羽黒は漸く戸張に顔を向けた。怒りのままに叫ぶ戸張を不思議そうに見ていた。
「零子が今まで味わった痛みや苦しみが分かるか? 絶望に心を飲まれた人間の、痛みや苦しみが分かるかって聞いてるんだ!」
怒声と共に力がこみ上げ、鎌を僅かながらに押し返すことが出来た。その力を維持したままで、更に押し返そうとするが、不意に鎌を霧となって消え、肩透かしを食らうことになった。
腹を踏みつけていた足も退き、羽黒は完全に戸張に背を向けた。戸張は上体を起こして、その後姿を睨む。
「和巳、お前は本当に、夜色の幻想を取り返したいのか?」
戸張に聞いているのにも関わらず、その声は空に向かって放たれていた。
「当たり前だ。それが僕の使命。どんなことがあろうと取り返す義務がある」
「たとえ自分が死ぬことになってでも、その使命を貫くのか?」
羽黒は振り向くと、そのまま言葉を続ける。
「俺はお前を殺す覚悟も、死ぬ覚悟もある。自分の身を引き換えにしても、夜色の幻想を守り抜かなければならない。それが俺を救ってくれた和吉様への忠義の証だ。お前はどうだ? あの師に己の命を預け、その身に換えて使命を果たす覚悟があるか?」
今まで険しい表情で羽黒を睨み続けていた戸張だったが、目が泳いで動揺してしまった。
羽黒は本気だった。戸張を真っ直ぐに見据えるその瞳に迷いは見えず、確固たる思いが暗く光っていた。その鈍い光を戸張は直視できなかったのだ。
死を覚悟して使命を果たす。今まで一度たりとも意識したことがなかった。羽黒と戦うことは夜色の幻想を奪還する上で避けられないと見込んでいたが、その戦いの果てで自分や羽黒がどうなるか、という想像までは働かなかった。そして今、羽黒に突きつけられた『死』という問に対して、戸張は確かな答えを持っておらず、更には解き明かすこともできなかった。
心の戸惑いを表すように定まらずにいた戸張の視線だったが、ふと零子が視界に入ると、その一点で留まり、落ち着きを取り戻した。依然として無表情のままだったが、それを見ているだけで、戸張の心は安息に導かれていた。
「そうだろうな。お前はもう、課せられた使命を果たすことも、死ぬほどの覚悟を有することもできない。その娘がいる限り」
羽黒が静かに言うと、戸張は我に返り、そちらに目を戻す。
「今のお前の使命はその娘と共にいることだ。それは誰よりも、お前自身が分かっていることだろう。その使命を終えた時、また俺を追うが良い」
羽黒はそう言い残すと、黒い霧を纏い、その中に消えた。霧が晴れると、羽黒がいた形跡は全てなくなり、静かで平穏な住宅街が戻ってきた。
戸張は急いで立ち上がり、棒立ちの零子に駆け寄った。零子の感情を呼び戻そうと、平静を装いつつ、何事もなかったかのように微笑んだ。
零子の表情が蘇った。いつもの、無垢で純粋な笑顔だ。その笑顔に釣り合う表情を自分はしているだろうか。戸張は胸の奥に慌ててしまい込んだ蟠りを抑えつけるのに精一杯だった。




