杏樹の試される夏
西欧のとある島。ミカドグループがまるごと所有権を持つその島で、連日パーティーが催されていた。
そのパーティーというのは、数日後に行なわれるこの島での人工衛星打ち上げの記念パーティーで、ミカドグループの関係者のみならず、共同開発した某国の航空宇宙局のキャリアや各国の政府官僚、果ては国の最高責任者まで来ていたりと、とにかく招待された人間には並々ならぬ箔が付いていた。
島の中央にある無意味に馬鹿でかい屋敷に集められた彼らは、美酒に酔いしれ、優雅な踊りに明け暮れ、この世のエデンを思いながら、打ち上げの日を待っていた。
杏樹は朝からパーティーの会場でお偉い方の対応に追われていた。次々とやってくるどこぞの国の某に、笑顔を振り撒き、彼らの言語で流暢に返事をし、満足の行った彼らを見送る。そして、一秒の休みもなく次の人がやってきて……それの繰り返しだった。
3日もこれが続いては、流石の杏樹も疲労を覚え、ストレスも蓄積されていた。しかし、それに屈することなく彼らをもてなさなければ、という強い使命感を持っていた。仕事の関係でまだ島に到着していない父に代わり、ミカドグループの代表として杏樹はこの場に立っていた。ここで屈するということはミカドグループの顔に泥を塗ることに他ならず、それだけでなく、父を超える超偉大な人物になるという目標を持つ杏樹にとって、この程度の試練は軽く突破しなければならなかったのだ。
その確固たる意思で取り繕っていた杏樹は某国の首相との話を乗り切ることができたが、次に現れた人物のおかげで不覚にも崩されてしまった。背後から首に腕を巻きつかれ、甘い匂いと柔らかい感触と共に彼女が耳元で囁いた。
「ハロー、ア・ン・ジュ・ちゃーん」
杏樹は大きな溜め息を吐き、伸し掛かる彼女を押し返した後、振り向く。
肩まで伸びたピンクの髪と目が痛くなるほどに輝く真紅のスパンコールドレス。露出した肌は透き通るような白さをしていて、顔立ちも綺麗に整っているのだが、派手すぎる髪とドレスが彼女の清廉さを貶めている。
この二律背反を、如何にも己のアイデンティティーであると自負していそうな自信に満ちた表情は、彼女の血筋の問題でもある。この痛々しい女は杏樹の従姉妹、御門ルージュである。
「ひっさしぶりだねえ、アンジュ。暫く見ない内にデカくなったなあ」
ルージュは杏樹の体を舐めるように見た。
「ルージュの方こそ、以前より独特なファッションに磨きが掛かっていますわ」
「そう? あーでも、ほら、バンド始めたじゃん? それで魂にロックが芽生えた的な?」
「……意味は分かりませんが、そうなんでしょうね」
「ちょっとー、反応うっすいー。もっとアタシに興味持ってよぉ」
ルージュは杏樹の腕に絡みつき、顔を首下に埋めた。
キツめの香水の匂いの中に、誤魔化しきれない酒気を感じた。そういえば、ルージュは年上だったな、と杏樹はどうでもいい情報を思い出した。
杏樹は首に顔を擦り付けてくるのが鬱陶しく感じ、べったりくっつくルージュを力尽くで引き剥がした。ルージュは物足りなさそうな顔をして杏樹を上目遣いで見てくる。
「過度なスキンシップは相変わらずですわね。貴女ももう大人なのですから、落ち着きというもの覚えるべきですわ」
「えー、ヤダよ。アタシは常に乱れていたい……なんちゃって。あははは!」
下品な笑いが会場に響き渡る。杏樹は怒りを通り越して呆れてしまった。
「ああ、やはりルージュはルージュのままなのですか。こんな破天荒な娘を持ってしまった叔父様に心底同情いたしますわ。というか、叔父様は何処にいらっしゃいますの? 差し詰め、貴女が此処に来たのも、叔父様に連れられてでしょうし……」
「んー? パパはいないよ。なんか色々あって来れないって。だからアタシがパパの代わりに来たの」
杏樹は苦い顔をして「げっ」と鳴いた。
「ほら、アンジュだって今はパパに代わってぱーちー盛り上げんでしょ? だから、アタシもそんなかんじ? むしろ、アンジュの助っ人で参上しちゃった、みたいな?」
こうも嬉しくない助太刀はないと杏樹は思った。下手をすれば、ルージュの面倒を此方が見ることになりかねない状況に頭痛がしてきた。
まだパーティーは6日は続く。その間、ルージュをどうやって封じ込めるか。それに頭を悩ませていると、背後から男性が声が掛けてきて、するりと杏樹の前に回り込んできた。
浅黒い肌に少し縮れた黒髪、びっしりと決めたフォーマルスーツが良く似合う長身の男性は、彼の国の言葉を遠慮なく使って話しかけてきた。杏樹は即座に頭を切り替えて、彼に合わせて応える。
「ご機嫌よう。貴方は……」
杏樹は彼を何処かで見た覚えがあった。思い出そうとする前に彼は丁寧に自己紹介を始めた。
「初めまして、ミス・ミカド。お会い出来て光栄だ。ナンタラカ王国の第一王子、ナンタラカ・ン・タラという者です。以後、お見知りおきを」
道理で見た覚えがあると思ったら、かの石油王国の王子だった。現王のナンタラカ・ン・タリは子宝に恵まれなかったが、齢50にして漸く跡継ぎが生まれた。それがこのナンタラカ・ン・タラである。
彼は生まれた当時も話題になっていたが、最近はその美しく勇ましいルックスから『世界一のイケメン王子』として有名になっていた。実際、タラを目の前にして見ると、なるほど、彼を上回る美男はこの世にはいないのではと思うほどであった。
「わー、超カッコいい。ヤバイよ、アンジュ。ここ今、美男美女フィールド出来てるよ」
「ちょっと、黙っててください」
杏樹は小声でルージュを窘めて、すぐにタラに愛想を振り撒く。
「申し訳ありません。この子、少しばかりお酒に酔ってしまってて」
「ハハッ、良いことですよ。お酒は心を解放してくれる。折角のパーティーでも、心の底から楽しまなきゃ損だからね。ミス・ミカド、君はお酒を飲まないのかい?」
「ええ。わたくしはまだお酒を許される年齢ではありませんので」
「そうだったのかい。君の容姿とか、立ち振舞いからてっきり成人しているのかと思ったよ」
「ありがとうございます」
杏樹は微笑みを浮かべつつも、嫌な予感を胸に抱いていた。タラが単に主催者の代理人に挨拶をしに来ただけではないということが彼の態度から読み取れた。
「君の国ではこういうのをオセジと言って、真に受けないのだろうけど、ナンタラカではそういうのはない。僕は本気で、君の全てが美しく完璧だと思ってるよ」
「まあ。一国の王子にべた褒めされるなんて。わたくしの生涯でこれに勝る名誉はもう訪れないでしょう」
「そんなことはない。これから何度だってその機会はやってくる。特に、僕の瞳に君が映っている間は絶対に賛美の言葉は途切れないよ」
「嬉しいかぎりですけれど、王子に無理強いさせてしまうようで心苦しいですわ」
「心配なんていらない。君が目の前にいるだけで、勝手に言葉が出てきてしまうんだから」
杏樹は笑ってお茶を濁した。出来れば、自分の思い過ごしであってほしかったが、ルージュがにやけながら耳元で囁いた言葉で、確信へと昇華した。
「アンジュ、王子様に惚れられてんじゃーん。羨ましいなあ」
杏樹からしたらとんだ迷惑である。自分には既に想い人がいて、その人以外の男は眼中にない。たとえそれが稀代の美男で、次代の王となる人物であろうと揺らぐことはないのだ。
しかしそういった恋愛感情のすれ違いで、タラを蔑ろにするのは論外だ。自分は今、ミカドグループの代表として、パーティーの主催者となっている。ゲストをもてなすのはホストの務め。ゲストを不快にさせる行為は一切許されていない。それ故に、タラの積極的なアプローチを拒絶することは出来なかった。彼の甘い言葉を躱して、ぼかして、その場を取り繕う。杏樹に出来る抵抗はそれだけだった。
必死の抵抗はその日のパーティーのお開きの時間まで続いた。杏樹はタラとの会話の隙に、ちらりと時計を見て、その時を確認した。
「もうこんな時間。王子、お話してくださってありがとうございます。ナンタラカ国のこと、色々と知ることが出来て、勉強になりましたわ。また機会があれば、お会いしましょう。それではご機嫌よう」
「ああっ、ちょっと待って!」
タラは足早に去ろうとする杏樹の腕を掴んで引き止めた。
「ミス・ミカド、君に渡したいものがあるんだ。これを受け取って欲しい」
タラが杏樹に渡した物。それはこの島での在留期間、杏樹の頭から決して離れることのない悩みの種となるものだった。
パーティーが終わり、屋敷に静けさが訪れる。ゲストはこの広い屋敷の中で1人1室ずつの部屋を与えられ、夜を過ごす。
主催者の杏樹はパーティーが開かれている間、この屋敷から離れた別棟を根城としている。別棟に明かりが灯るのは夜遅く、杏樹が帰ってくる時だけで、その時を除いて無人となっていた。とは言っても、杏樹が帰ってきたところで、別棟に居るのは杏樹を入れて2人だけである。
「お呼びでございましょうか。お嬢様」
杏樹の部屋に燕尾服を着た、背の高い青年が入ってきた。
「左京! これです、これを見てくださいまし!」
杏樹は興奮した様子でその青年、左京に細長いレースのリボンを見せつけた。
「それは……ああ、リボンでございますか」
「そう。確かにこれはリボンです。ですが、ただのリボンではありません。いきますわよ……」
そう言うと、杏樹はリボンを片手に巻きつけ、手のひらを左京に向ける。すると、間もなくして手のひらから人形が生まれ出て、左京の前に着地した。
「なるほど、理解いたしました。そのリボンは以前おっしゃられていた自律理源というものでございますか」
「流石、わたくしの完璧執事。説明するまでもありませんわね。その通り、これは自律理源のリボンです。しかも、火、水、風、土、4つの属性の理を引き出すことが出来る、素晴らしい代物なのです」
『理』というものに関して、左京は杏樹から存在を知らされていた。それだけでなく、悪意や妖怪についても教えられていて、杏樹の知りうる情報は全て網羅していた。杏樹は身近な人物に家族や他の使用人にはそれらに関して一切話していなかったが、自分に付いている唯一の執事、左京にだけはもしもの時も考慮して隠し事をせず、全てを話していた。
「お嬢様が持つに相応しい一品だと思います。ですがそのような貴重な物、いったいどのようにして手に入れられたのですか?」
「今日のパーティーで、ナンタラカの王子から頂戴いたしましたの。なんでも、王家に古くから伝わる物らしいのですけれど、今日出会えた奇跡を記念してプレゼントしよう、と。なんとまあ気前の良い御方ですわ。おほほほ」
「ナンタラカ王国の王子が、ですか。お嬢様の美貌は万人を魅了するものであると、常々思っておりましたが、一国の王子さえも虜にしてしまうとは、恐れ入ります」
「そうですわ。わたくしは完璧なる美の化身。ああ、恐ろしい。自分の美しさが恐ろしくてたまりませんわ」
杏樹は上機嫌にそう言って、満足のいくまで自分の完璧さを左京に語った。左京は不満も疲弊も一切表に出さずに、杏樹の話を聞き続けて夜が過ぎていった。
朝霧が濃く見える朝、杏樹はシャワーを浴びた後、自室で今日のドレスコードを選んでいた。
使用人は左京1人しか連れてきていないので、当然着替えは自分で行う。自分1人で出来ることは全て自分でやるのが、杏樹のモットーであり、覇の道を行く者のプライドでもある。甘えた生き方はしたくないのだ。
シックな黒いドレスに着替え終え、鏡の前で自分の姿を見る。美しい。自分で自分に惚れてしまいそうな危うい美しさだ。これだけ美しければ、目の肥えた一国の王子も惚れてしまうのは致し方ない、と杏樹は改めて自分の罪深さを憂いた。そして同時に悲嘆もしなければならなかった。
完璧な美しさを持っていると自負しているのに、頼人を前にするとそれが自信にならないのだ。自分に不足はないはずなのに、彼が視界に入るだけで完璧である自分を認識できなくなり、思考が正常に働かなくなる。俗に言う「恋の病」というものなのだろう。それはあらゆる困難も試練も楽々と越えてきた杏樹でさえ、苦しめ悩ませるものだった。
しかし、今それを嘆いていても仕方がなかった。今は御門の人間として、この連日のパーティーを成功させることだけに集中しよう、と頬を軽く叩いて気持ちを切り替えた。
切り替えた直後に、昨日タラ王子から貰ったリボンのことを思い出した。今日も王子は来るだろうし、心象を良くするためにもリボンは身につけておこうと思い、小箱に入れたリボンを取り出そうとした。
小箱を開けた杏樹は、中を見て目を細めた。小箱の中には確かにリボンがあった。しかし、色や模様が全くの別物に成り代わっていた。
白いレースを基調としていたリボンが入っているはずなのだが、黒のシルク生地のリボンがそこに鎮座していた。杏樹はそれをじっと睨み続けていると、タラが言っていたことを思い出した。
「このリボンの何が凄いって、色彩が日毎に変わることさ。不思議だろう? 時に綺羅びやかに、時に上品に、時にファッショナブルに。どういう原理で変わってるのか分からないけど、とっても便利でオシャレなアイテムなんだ」
そもそもタラがしてくれた不思議なリボンの説明はこれだけだったということを忘れていた。自律理源であることを解明してから、タラの言葉が綺麗さっぱり記憶から抜け落ちてしまっていた。気が逸っていたとはいえ、不覚だった。
ともあれ、この黒いリボンは貰ったリボンで間違いないはずだ。リボンを手に取り、理を引き出そうとすると、しっかり理は取り込めた。これで一安心できだが、何故か妙な不審感が湧いていた。黒いリボンを凝視し続けること数分。それに気付いた時、館内に響き渡るほどの絶叫を上げていた。
「お嬢様!」
すぐに駆けつけた左京は、部屋の隅で縮こまって怯えている杏樹を見つけた。杏樹の前にはリボンが無造作に落ちていた。
左京は周囲を見回し、異常がないことを確かめると、杏樹の前に跪いて震える手を優しく握った。
「どうかなさいましたか?」
「あ、あのリボン……」
「リボン? あれがどうかしたのでしょうか?」
パニック状態になっている杏樹を宥めながら、左京は言葉を待った。
「あ、あれ……昨日と変わって……昨日もわたくしの……ああ!」
要領を得ない発言に左京は何も意図が読めなかった。ただ、まず最初にすべきことは決まった。
「お嬢様、紅茶をご用意いたします。それを飲んで落ち着きましょう」
左京は杏樹をベッドの淵に座らせてから部屋を出た。少しの間を置いてから、ティーセットが乗ったワゴンを引いて帰ってきた。慣れた手つきで紅茶をティーカップに注ぎ、杏樹に手渡す。
紅茶を受け取った杏樹はそれを一口飲むと、小さく息を吐いた。天井を仰いだ後、目を閉じて落ち着きを取り戻そうとした。
「……みっともないところを見せてしまいましたわね。ありがとう、左京。もう大丈夫ですわ」
「落ち着かれたようで、安心いたしました。それで、いったいあのリボンがどうしたのでしょう」
2人の視線は床に落ちたリボンに集中した。杏樹は紅茶をまた口に含んだ後、事情を説明し始めた。
「あれはタラ王子から頂いたリボンです。昨日とは全くの別物になっていますけれど」
「見た目が変わる自律理源、ということでしょうか。ですが、それが何故お嬢様を狼狽えさせたのでしょう?」
「あれは……ただ見た目が変わるだけではないのです。あの愚物は、わたくしの今着けている下着と全く同じ材質に変化するのです」
左京は激しく瞬きをした。冗談で言っているのかと杏樹の顔を伺うが、真剣な表情をしていたので、そうではないことが分かった。
「左様でございますか。しかし、下着の色と断定するのも些か早計ではないでしょうか。事実、今お嬢様が着ていらっしゃるドレスも黒でございます。それならば、ただお嬢様のお召し物の色に変わっているだけだとも考えられるはずです」
「左京、貴方は色に関してしか意識がいっていないのです。わたくしは材質、と言いました。このドレスはジョーゼット素材の布地で出来ていますが、あのリボンはシルクです。触ってみれば違いは明白ですわ」
杏樹はドレスの端を掴んで、左京に触れさせようとした。左京は断りを入れてから跪いてそれを触った。その後、床のリボンを拾って感触を確かめた。
「……確かに違いますね」
「そう。そして、わたくしの下着はそのリボンと同じ色、同じ材質なのです。それに、昨日のリボンも、わたくしが着けていたそれと一致します。つまり、この変態リボンは常にわたくしの晒されたくない乙女の領域を、厚かましくも堂々と、公然に喧伝しているのです。いくら無限に理を得られようと、こんな辱めを受けねばならないのなら、頼まれても使いたくありませんわ!」
「しかしながら、お嬢様。これは自律理源でありますゆえ、使用しないのは勿体無いのではないでしょうか。それにナンタラカ王国の王子から賜った物、王子がこの島に在留している間は身につけていないと、ナンタラカとミカドグループの関係に少なからず影響を及ぼします」
左京の進言は尤もだと杏樹は思った。ナンタラカ王国は世界有数の石油大国。その国のトップとなる人間との間に友好関係を築いておかなければ、ミカドグループの今後に関わる。心象を悪くすることだけは絶対に避けなければならなかった。
「分かってはいます。ですが、やはり……そもそも、こんなもの送りつける王子も王子ですわ。もしや、彼はこのリボンの特性を網羅していて、わたくしの個人的な情報を知って悦に浸ろうと考えていたのでは……この可能性は大いにありますわ。あれだけのグッドルッキングガイは女性を己の掌の中で弄ぶのが趣味になっているはずですもの。なんという侮辱行為! このわたくしが彼の思惑通りに行動すると? 甘く見られたものですわ!」
「……お嬢様」
思い込みが過ぎる主を左京は現実に引き戻そうと呼びかけたが、その後もぶつぶつと独り言を呟くだけだった。どうしたものかと困り果てていると、部屋の扉を乱暴に開ける音で2人の意識はそちらに移った。
「グッモーニン! あら、あらら?」
陽気に挨拶をして入ってきたのはルージュだった。ルージュは左京を穴が開くほど凝視しながら、近付いてきた。
「え、めっちゃイケメンじゃん。これ、アンジュのカレ?」
「違いますわ。わたくし専属の執事です」
「へえ、執事! 良いなあ、こんなカッコいい執事欲しい。お兄さん、お名前は?」
「左京と申します。以後、お見知りおきくださいませ、御門ルージュ様」
「アタシのこと知ってんだねー。教育が行き届いてるなあ。よしよし、偉いぞー」
ルージュは目一杯背伸びをして、左京の頭を撫でた。
「失礼ながらルージュ様、1つお聞きしたいことがあるのですが、どのようにしてこの別棟に入ってこられたのでしょうか? 入り口は勿論、窓や排気口など、ありとあらゆる侵入可能な場所には相応のセキュリティを用意しているので、ネズミ一匹侵入するだけでも、防犯ベルが鳴る仕組みになっています。ですので、貴方様が何の音沙汰もなく入ってこられたのはありえないはずなのです」
左京が淡々と話す間も、ルージュの手は左京から離れなかった。穏やかながら瞳の奥を光らせる左京に、ルージュは無邪気な視線を送った。
「ああ、あれね。別になんてことないよ。システムが甘々だから、適当にハックしてぜーんぶ無効にしちゃった。ごめんね」
「なっ!」
左京は似つかわしくない声を上げた後、慌てた素振りで部屋を出ていった。杏樹もルージュのしでかしたことに驚いたが、紅茶を一口飲むことで表に出さずに堪えることが出来た。
「……左京も完璧とはいえ、御門家の血は平民のそれを優に超えるものがありますからね。致し方ないことですわ。それで、ルージュ。何の御用があってこんな朝早くにわたくしの所へ?」
「ん? 用ね……」
ルージュは杏樹のティーカップを何食わぬ顔で攫い、紅茶を飲みながら部屋を見渡した。左京が落としていったリボンを見つけると、ティーカップを放り投げ、リボンに目掛けて走った。
「ちょっと!!」
杏樹は宙に舞うティーカップを慌てながらも上手くキャッチすると、その間にルージュは杏樹の前に戻って、リボンをくるくると指先に巻きつけて遊んでいた。
「このリボン、かわいいね」
「えっ、ええ。そうですわね。このパーティーのために特注したものですから」
杏樹は咄嗟に嘘を吐いて誤魔化した。ルージュはリボンを弄びつつも、杏樹から視線を逸らさなかった。
「へえ、特注……それならさ、なんで昨日はこれ着けてなかったの?」
「それは……昨日は気分が乗らなかったのですわ」
「……ぷっ、くふふふ……あははは!」
ルージュは大きな声で笑い、杏樹に抱きつきながら腕を取った。顔を鼻先が付くまで近付けて、ルージュは嬉々として喋りだす。
「瞳孔がいつもより0.08mm開いてる。脈なんか明らかに早くなってるし、汗腺からもほら、じんわり汗が出てしっとりしてる。いくら次期御門家当主の超完璧人間でもさ、結局は人間なんだ。数多ある生理現象からは逃れられないんだよ」
杏樹は何も言い返せず、ルージュの真っ直ぐな視線から目を背けるだけだった。
「アタシとアンジュの仲なんだからさあ、隠し事はなしにしようよ。本当のこと、教えてよー」
どんな仲であろうと言いたくはないことだったが、ルージュには隠し通せることではないと悟り、杏樹はリボンのことを白状した。無論、理のことは隠して。
「……ふーん、下着色に染まるリボン、か……」
「詩的な表現でこれを表すのは止めてくださいまし」
「性質を噛み砕いて表現しただけなだけどなあ。あっ、性質ってより性癖って言ったほうが適切?」
「何もかも不適切ですわ!」
「おお、上手いお返しで。で、本当にそれだけなの? なーんかまだ隠してない?」
「隠していませんわ。それがこのリボンの全てです」
「そう……そーなのねえ……」
ニヤニヤと杏樹を見つめるルージュだったが、杏樹は顔色を変えず真っ直ぐに見つめ返した。それでも好奇心の瞳を向け続けるルージュの矛先を変えようと、話題を無理矢理先に進めた。
「もう良いですから、貴女もこのリボンの秘密を知ってしまったのです。これをどうやって処分するか、一緒に考えてください」
「処分って、取っておかないの? こんなヘンテコなリボン、この世にないと思うよ? それにプレゼントしてくれた王子にバレたらヤバいんじゃない?」
「寧ろ、このリボンはこの世に存在してはならない物ですわ。絶対に抹消してやります。王子がこの島にいる間は適当なリボンを身に着けておけばバレないでしょう。見た目が変わる、というのは不幸中の幸いですわ」
「マヌーヴァには手間が掛からないってわけね。じゃあ、後も簡単じゃない?」
ルージュは部屋の端に小走りで向かっていき、窓の前で立ち止まった。鍵のかかった窓を手早く開けると、冷たい風が部屋に入り込んできた。
「換気はこれでオッケーっと」
「何をするおつもりですの?」
「簡単って言ったじゃん。解法はシンプルであればあるほど美しい……」
ルージュは何処からかライターを取り出した。ライターを点火させ、リボンの端に着火させようとする。しかしリボンはその火に屈せず、燃焼する様子は見て取れなかった。
「燃えないかあ。杏樹の下着、耐火性?」
「変な冗談は止めてくださいまし!」
「あはは、怒らないでよ。まあとにかく、こいつは燃えないってことが分かりましたっと。次は……溶剤で溶かしてみようかな。いや、それよりもっと強い薬品で……」
何処にそんなものが隠れていたのか、ルージュは手近な机の上に怪しい瓶を並べて品定めし始めた。不安を覚えた杏樹はルージュを早々に制止した。
「そういう危ない薬品を使うならば、わたくしの部屋ではなく、別の場所でやりましょう。確か、上の階に科学実験室がありましたから」
「ひゅー、気が利くねえ! 別荘とはいえ何でもある御門家、最高だ!」
テンションが上がっているルージュと共に、杏樹はその部屋に行った。
実験室での戦いも本日で4日目だ。
如何なる薬品の力を持ってしても、あの憎きリボンの繊維を一ミリたりとも溶かすことは出来なかった。
「これも駄目でしたか。困りましたわ。此処にある薬品は全て試しましたけれど、どれもリボンに何の影響も与えられませんでした」
「いやーすごいよ。普通これだけ薬漬けになったら、どんな物質も形を保てなくなるはずだもん。こりゃどうしようもないね」
白衣に身を包んだ杏樹とルージュはビーカーに満ちた液体に沈むリボンを眺めながら話した。
「燃えもしない。溶かせもしない。他に効きそうなのは……凍らせる?」
「それなら一昨日にやったではありませんか。液体窒素に触れさせても、何も起きませんでしたわ。はあ、憂鬱ですわ。こんな下劣な物に、わたくしの僅かしかない自由な時間を奪われるなんて」
杏樹はマスクを外し、ふらふらと壁にもたれかかった。
「アタシは結構楽しかったけどなあ。科学の範疇を超えた謎の変態リボン。この謎を解き明かしてみたくてウズウズしちゃう」
「ルージュは良いですわね。勝手に下着を晒されるわたくしと違って、何の害も受けてませんから」
「同情はしてるよ? アタシだってレディだもの。自分の着けてる下着を模倣するとかキモくて耐えられない。だから、アンジュの気持ちは痛いほど分かる。あっ、今日はピンクで可愛い感じね。年相応?」
「もう!」
からかってくるルージュを追いかけようとするが、ルージュは白衣を脱ぎ、杏樹の顔に覆い被せた。
「ごめんね、今日はこれでおーしまい」
「ちょ、ちょっと! まだパーティーの時間には早いですわよ」
「パーティーの前に、イケメンたちとビーチでエンジョイしてくるの! じゃあ、そういうことで、スィーユーレイター!」
ルージュはあっという間に実験室からいなくなった。杏樹も逃すまいとルージュを追って廊下に出るが、ルージュの残り香だけしかそこにはなかった。
「ルージュ! ルージュ! ……もう、勝手すぎますわ」
杏樹は追う気力もなく、誰もいない廊下を呆然と眺めた。
「お嬢様」
と、背後から呼びかけられて、杏樹は力なく振り返る。そこには平然とした様子の左京が土筆のように立っていた。
「館内セキュリティの再構成終了いたしました。今度はルージュ様であろうと、侵入は不可能でございます」
「そう。ずいぶん時間がかかったようですが」
杏樹は不貞腐れ気味に言う。
「申し訳ありません。ゼロからの作り直しになったために、手間取ってしまいました。如何様な処罰も受ける所存でございます」
「罰、そうですか……」
殊勝な心がけだったが、罰を考える余裕もなかった。リボンを抹消する術が尽き、優秀な助手もいなくなり、敗北感に支配されかけてしまっていたのだ。
その敗北感に黄昏れて、窓辺に肘を掛けて外を眺める。綺麗な朝焼けに包まれた空に、宝石を散りばめたように光る海。その海にルージュは自分だけのエデンを作り上げて行ってしまった。しかしこの窓からはエデンがあるであろうビーチは見えない。あるのは海の壮大さに埋もれまいと朝日に照らされ、気高くそそり立つロケット。発射が明後日に迫り、その存在感が増しているようにも見えた。
「打ち上げももうすぐですか」
「はい。すでに人工衛星も搭載され、いつ発射しても万全な状態にあるようです」
「人工衛星……」
杏樹はロケットを見つめながら、そう呟く。しばらく沈黙が流れると、突然、杏樹が大きな声を上げ、勢い良く左京の方に振り向いた。
「そうですわ! この手がありました! 左京、貴方のお望み通り、罰を与えましょう」
「お嬢様が下さる処罰。どのようなものでございましょうか?」
「それは…………ですわ」
「なるほど。やはりお嬢様は慈悲深く、聡明でございます。この左京、必ずやその任を果たして見せます」
深々と礼をして去る左京を、杏樹はほくそ笑みながら見送る。そして、晴れ晴れとした気持ちで再び窓の外の景色を眺めた。
島中に響く轟音。震える空気を肌で感じる。
たった今、人工衛星を乗せたロケットが地上を離れ、青き空の彼方に飛んでいった。
肉眼では見えなくなり、微かに残る軌跡を臨みながら、人々は一同に拍手喝采を送った。
「見事だ。これほど完璧なロケットの発射は見たことないよ。やはり女神が見守ってくれていたからかな?」
タラ王子は杏樹の顔を覗き込みながら言った。
「勿論、それもありますが、何よりロケットの開発者、技術者、設計者、そのほかに携わってくださった多くの優秀な方々のおかげで、今回の打ち上げは何の不安材料もなくしたのですわ。そして、そのスタッフ全員をまとめ上げた父、御門厳一郎の手腕こそが真に称えられるべきことだと思います」
「君のお父上かい……確かにあの人はすごく有能そうだ。遠目から見てもはっきり分かるくらいに威厳がある。あの威厳は実力を伴わないと身に付かないものだ」
タラは複数のSPを従え、堂々とした佇まいで空を見る杏樹の父、厳一郎に目を遣った。視線を感じたのか、厳一郎は一瞬、タラの方を険しい目つきで睨んだ。そして、タラの隣に娘がいることに気付くと、その目つきを変えないままに、深く頷きまた空を仰いだ。
「こっちを見たね……なんというか、迫力が凄いね。いや、君のお父上なのだから、優しい方なのは間違いないのだろうけど」
「王子、折角なのですから父とお話してみてはいかがでしょう? 普通の方なら近付くことすら許されませんが、ナンタラカの王子ならば父も喜んで話してくださるでしょう」
「そ、そうだね。そうだ、しっかり話をしておかなければならないな……うん……」
普段の自信に満ちあふれ様子とは一変、及び腰な態度のタラ王子だったが、意を決したのか厳一郎のいる方向に一歩足を踏み出した。
「行ってくるよ。お父上とは仲良くなれる。そんな気がするんだ。ミス・ミカド、待っててくれ。次に君の前に立つ時は、きっと僕は君に相応しい人間になってるはずだ」
白い歯をキラリと光らせた後、タラは走っていった。その後姿を不憫に思いつつ、優しい潮風に髪を靡かせて耽った。
「万事全て、果たさせていただきました。御門家の次期当主に少しでも近付くことは出来たでしょうか?」
「当然でございます。お嬢様には類まれなる手腕と頭脳がありますから」
その独り言に背後で見守っていた左京が反応した。
「今回ばかりはどうなることかと思いましたけれど。しかし、左京もよくやってくれました。ロケットに侵入し、あの変態リボンを人工衛星の中に紛れ込ませる。その大役を難なくやってのけたのですから」
「いえ、私など大したことはしていません。燃やすことも溶かすこともできないならば、誰の手も絶対に届かない場所に封印する。流石の名案でありました。それに、この度の侵入に関しては私1人の力だけでは為せなかったでしょう」
「あら、協力者がいたんですの?」
左京が返事をする前に、杏樹にその答えを持つ者が抱きついてきた。杏樹は頬ずりをしてくるピンクの髪の派手な女を即座に引き剥がした。
「へへーん、陰の功労者、ルージュの登場だよーん」
「……ルージュが協力してくれたんですの? あの実験の後、姿すら見せなかったのに」
「イケメンパーティーやってたら、なんかリボンとかどうでも良くなってえ。ごめんねごごめんね。でも、左京クンがどうしても力を貸してほしいって言うからさ、もうどうでも良かったけど、手伝ってあげたの」
ルージュは左京にウインクを送るが、左京の表情は崩れず、主の杏樹に視線を向け続けていた。
「ルージュ様には防犯セキュリティをハックしていただきました。そのおかげでスムーズに侵入できましたし、痕跡も一切残らずに済みました」
「そうだったのですか。ルージュ、ありがとうございます。この恩は必ずお返しいたしますわ」
「ホント? じゃあ、アタシに次期当主の座を譲ってー」
「それは出来ませんわ」
ルージュの冗談っぽい願いを杏樹は間髪入れずに拒否した。
「だよね。いやーこれで譲るって言われても困るしね、アタシ。そもそも、その権利も持ってないし。でも良かったよねえ伯父様も。アンジュが生まれてなかったら、アイツが次期当主になる可能性があったんだし」
「……お兄さまのことを言ってるんですの?」
優しい潮風が途端に止んだ。杏樹はルージュの悪戯っぽい顔を真剣な眼差しで見る。
「そう、アイツ。完全無欠の伯父様の唯一の汚点だよ。財産目当ての娼婦に騙されて、生まれた子供もあの出来損ない。女は出来損ないは置いてって、金はしっかり持って逃げちゃったっていう始末。でも、エリカさんと再婚してアンジュが生まれたから、アイツの存在はなかったことになって、アンジュが次期当主の第一候補になるっていうね。でも疑問だなあ。アンジュがいるんだから、あんなクズを家に置いておく意味ないのに。手切れ金でも渡してさあ、出てってもらったほうが……」
「お兄さまの悪口は止めてください」
杏樹は強い口調で言った。
「……悪口って真実じゃん」
「お兄さまは悪くありません。少しの行き違いと、不幸があるだけですわ。ですから、出来こそないでも、クズでもないのです」
「変に肩を持つねえ。実の兄でもないのに」
「お兄さまはお兄さまです!」
杏樹は怒鳴るようにして言った。その迫力に圧されて、ルージュは少し仰け反った。
2人の間に気まずい沈黙が流れる。互いの間を取り持とうと、左京が口を開くが、それより早く、ルージュが言葉を放った。
「あはは、ごめん。アタシには分かんない何かがあるんだよね。パーティー楽しかったよ。また何処かで会おうね、バイバイ」
「ルージュ様、お待ちください!」
左京が呼び止めるも、ルージュは足早に去っていった。左京は大きな溜め息を吐いた後、主の方に向き直る。
「お嬢様。無礼を承知で申し上げますが、少し感情的になりすぎではないでしょうか。これはお嬢様の悪い癖でございます。感情の昂ぶりによって冷静な判断ができなくなることが多々ありますゆえ、一度落ち着いてから……」
「分かっています! 分かっていますが……」
杏樹の声が萎んでいった。そしてそれ以上、杏樹が何かを言うことはなくなった。
杏樹は透き通る青の空を見上げる。何を考えることもなく、ただじっと見続ける。潮風が蘇り、杏樹の頬を撫でる。それがなんとなく悔しく感じた。




