杏樹の本気
杏樹が行き着いた教室には確かに問題が置いてあった。とりあえず先程の問題が正解していたことに安堵した。問題を見てみると、頭に『最終問題』という大きな文字が付いていた。
『Q.次のうち、パーソナルとして存在しないものはどれか』
『瞬間移動』
『生物の生成』
『時間の停止』
『ない』
最終問題らしく悩まされる内容のものだった。提示されている能力はどれも出来ないように見える。『ない』という選択肢も機能しているのが憎らしい。さてどうしたものか、と頭を捻った。
前の問題で無駄に時間を浪費してしまったので、ここで挽回したかった。大きく深呼吸しから、どこからか眼鏡を取り出して装着した。度が入ってない伊達眼鏡なのだが、頭をフル回転させたい時に着けると、不思議と集中力が増すのだ。思い込みといえど効果は絶大であると自負しているが、負担も大きく、短期間しか効果がない上にその後は思考力が著しく低下してしまう。だが、これが最後の問題なら全てを出し切っても良い。その考えのもと眼鏡の力に頼った。
早速1つのカードを切った。『生物の生成』は出来るだろう。自分のパーソナルもそうだが、理の力を生物に似せて発現させるものはある。要はこの能力が行き着く場所が生物の生成だ。
生物の定義など明確ではない。パーソナルの力で生物が持つ能力全てを、限りなく近い形にして再現してしまえば、生物と呼んで間違いはない。よって『生物の生成』はパーソナルとして存在する。
同じ要領で考えれば、残りの2つも存在するかしないかが分かってくる。『瞬間移動』はある点から別の点に空間を飛び越えるワープのようなものとは考えず、視認不可能な速さで移動するものだと考えれば、パーソナルと理を最大限に使えば出来るだろう。勿論、瞬間移動と呼べるほどのものだから、並大抵の力では出来ないだろうが。
最後に残った『時間の停止』。これは言葉通り、時間そのものを止めるという能力だろう。今までのように代替の利かない『時間』という言葉の縛りがある。流石に概念に介入するのは人間にも理にも不可能だ。断言できる。『時間の停止』は絶対に無理。つまり正解はこれだ。
1分と経たぬ内にその結論を導き出した。すぐに『時間の停止』カードをめくると、『家庭科室』と記されていた。第3校舎の1階にあり、ゴールの図書室へも家庭科室の近くにある階段を上がるだけで着く。己の体力に全てを賭けて、急いで第3校舎へと向かった。
問題が置いてあった場所よりも遥かに分かりやすく、鍵は天井から糸でぶら下げられていた。
杏樹は力任せに鍵をもぎ取り、踵を返して家庭科室を出た。その時、階段を上がる人影が一瞬だけ見えた。杏樹はその人影を追うように階段を駆け上がっていく。
視界の中心に捉えた人物は紅蓮だ。先を行く紅蓮は背後にいる杏樹の気配を感じつつも、振り向くことはなく、一心不乱に走っていた。一心不乱なのは杏樹も同様で、とにかく足を前へ前へと本能のままに動かしていた。そうして徐々に紅蓮との距離を詰めていき、紅蓮の背中を目の前にして4階に辿り着いた。
勝敗の行方は図書室までの短い直線に託された。有利なのは紅蓮。その大きな図体が活き、杏樹の道を阻んでいた。体力の差もあったのか、触れられる距離までにいた杏樹だったが、息遣いさえ届かなくなり、見る見る離されていった。紅蓮はもう勝利を確信してしまっていた。
遂に紅蓮が図書室の扉の前に着いた。勝者となった紅蓮は、その優越感を見せつけんと杏樹の方を向いた。
「惜しかったな、御門。オレの勝ちだ」
杏樹は既に立ち止まっていた。肩で息をするほど疲労していて、言葉を返す余裕もなかった。だが、紅蓮への返答は用意してあった。杏樹は指を差した。
「憎んでくれるなよ。これは勝負だ。どんな結果であれ、互いを称えて清々しく終えよ……あ?」
自分に向けられたものだと思っていたが、指先が微妙に逸れていた。その先を目で追うと、紅蓮は驚愕した。
扉の鍵穴に小さな人形が鍵を差してぶら下がっていたのだ。人形は顔を紅蓮に向けて申し訳無さそうな表情でこう言った。
「ごめんなさい。ご主人様の勝ちです」
流暢に喋りを見せた人形は鍵の上に飛び乗り、主人を手招いた。
「ふ、ふふふ……惜しかったのは貴方の方でしたね、大田島くん」
唖然としている紅蓮に、息が整ってきた杏樹は近付いていった。
「勝ちを宣言するなら、鍵を差してからにすべきですわ。この勝負、先に鍵を使って中に入った方が勝ちなんですもの」
「理を使いやがったな。いつの間に……」
「スタート地点でその人形を貴方の背中に張り付かせていたんですの。接戦にもつれ込んだ場合に役立つと思いまして。杞憂に終わると思っていましたが、それが幸いしましたわ」
扉の前に来た杏樹は人形の頭を指で撫でた。人形は喜んだ顔を見せて消滅した。
「後はわたくしが鍵を回してしまえば中へ入れます。妨害行為が禁止されている以上、貴方が出来ることはもうないでしょう」
紅蓮は悔しさに唇を噛み締めた。杏樹の言う通り、自分が出来ることはないと悟ると、震わせていた体を鎮めて、口を緩めた。
「この勝負、オレの負けだ。だが、次は絶対に負けねえ。次に頼人の隣に立っているのはオレだからな」
「良いでしょう。何度でも相手してあげますわ。貴方の心が折れるまで」
「どんなことがあろうと、折れねえよ」
紅蓮は背を向けて歩き出していた。
「そう。たとえ頼人のおふくろさんが死んじまっててもな。オレは頼人の友で居続ける覚悟がある。どんな現実にも立ち向かってやるよ」
敗者の背中は熱く滾っていた。自分にはないものを感じた杏樹は、この時初めて紅蓮に尊敬の念を抱いた。
紅蓮に報いるわけではないが、勝者として恥ずべきことは出来ないと思い、両頬を叩いて気合を入れた。いよいよ頼人のいる図書室に入る。何のために戦ってきたか。それは頼人と2人でいる時間を得るためだ。燻ぶる不安を払拭し、頼人との距離を詰めるため、杏樹は今、扉を開くのだ。




