このこ、ぜろのこ
もう通い慣れてしまっている大丸病院。だが、白い少女の見舞いは戸張以外は一度もなく、頼人たちは部屋の場所さえ知らなかった。戸張は心なしか鈍い足取りで院内を先導していく。
焦らされているような気がして花凛は悶々としていたが、それが爆発する前に目的の一室に着いた。扉の横のネームプレートには名前が書いてなく、一見すると空き室のように見えた。だが、戸張は迷いなく扉を開けて中に入っていった。頼人たちも続いて入っていく。
そこは紅蓮がいた部屋と同じく個室になっていた。幅の広いベッドの上にその少女はいた。一度見たら忘れない、雪のように白い髪と肌、そして白さに際立たされる赤い瞳。その瞳がこちらに向くと、少女はにこやかに頼人たちを迎えた。
「こんにちはー。今日はお客さんいっぱいだね、カズくん」
「カズくん?!」
少女の容姿以上に、その呼び名に花凛は驚いて声を上げた。だが戸張は気にすることなく、少女に頼人たちを紹介していた。
「この人たちは僕の学校の……知り合い。お見舞いに来たいって言うから連れてきた」
「へー、そうなんだ。みんな、ありがとう。嬉しいな、えへへ」
少女は屈託のない笑顔を頼人たちに向けた。
「思ってたより、元気みたいだ。体の方は大丈夫?」
「なんともないよ。ここのご飯おいしいから、すぐに元気になっちゃった」
「病院食、美味いか?」
紅蓮が疑問をぽつりと呟いたが、少女は力強く頷いた。
「食に不便してないなら、獅子川の土産も用なしのようだな」
「ご飯とおやつは別物だからセーフよ。ってことで、じゃーん! ケーキ持ってきたの。良かったら食べてね」
花凛がケーキの箱をサイドテーブルに置いて中身を取り出そうとした時、少女が信じられない言葉を放った。
「ケーキってなに?」
その言葉は花凛を驚かす意味などないということは少女の表情から分かることだった。純粋なる好奇心に満ちた顔で見つめる少女に、花凛は戸惑った。
「ケーキ知らないの?」
「うん。聞いたことない」
「えー……ありえるの? ケーキ知らずにこの年まで生きるって」
頼人たちも花凛と同じ感情を抱いていた。今の御時世、どんな環境で暮らしてきたとしても、ケーキの存在を認識しないで生きていくのは困難である。明らかにこの少女はおかしいと誰もが思った時、戸張が事情を説明し始めた。
「彼女は記憶をほとんど失くしてる。その影響で知らないことも多いんだと思う」
「それって、三福のとこで捕まってたことが関係ある?」
「いや、直接は関係してない。原因は僕の力の副作用だから」
「戸張殿の力、ということは鍵で何かを施したのですね」
花凛が少女にケーキを与えている横で、頼人たちは戸張に注目していた。
「彼女の中には負の気が満ちていた。それが彼女を蝕み、壊そうとしていたんだ。僕はそれを止めるために、鍵の力で負の気だけを封印しようとしたんだけど、彼女の精神にもそれが根付いてしまっている部分があった。だから、それに関わる彼女の精神もまとめて封印することによって、負の気の侵食を防いだんだ」
「精神を封印? あんなに脳天気なツラをしてるのに、心が不自由になってんのか。解せんな」
ケーキを頬張り喜んでいる様子は、傍目から見ると普通の女の子だった。それゆえに戸張の発言は不可解だった。だが1人、杏樹だけはその違和感を感じ取っていた。
「あの子、ずっと笑っていますわね。記憶がないのならば、自分の今の立場に不安を覚えるのが道理だと思うのですけれど、そのような思いを彼女から微塵も感じませんわ」
「……精神の封印っていうのは、つまるところ感情の閉鎖。負に繋がる感情は喜怒哀楽でいうと怒と哀。今の彼女は怒ることも哀しむことも出来ない状態なんだ。記憶がないのも、負の感情を呼び起こさないための自衛の心理ってことだ」
「怒ることと哀しむことが出来ない……良い事にも聞こえてしまうけど、人としては正しくない状態なんだろうなあ」
「当の本人はお気楽ですわね。感情が欠けていることをどうとも思わないんですもの」
頼人たちは少女を見る目が変わっていった。それぞれ差異はあれど、彼女への憐れみに違いはなかった。空気が重苦しくなる中、花凛はケーキを食べ終えた少女に尋ねた。
「あんた、名前なんていうの?」
「零子。数字の零に、子供の子で零子」
「零子か。うーん、それじゃあ……ぜろ子! ふふん、我ながらいいあだ名を思いついたわ」
「変なあだ名を付けるのはやめろ!」
戸張は気に食わないようだったが、零子の方は満更でもなかった。
「私はぜろ子? えへへっ、面白い名前。ぜろ子だよ、よろしくね。えーっと……」
「あたしは花凛よ。それから、こいつが頼人で、その隣のデカいのが紅蓮ちゃん。そんで、あのお嬢様っぽいのが杏樹」
「名前いっぱいだ。頑張って覚えるよ。花凛ちゃん花凛ちゃん花凛ちゃん……よし、覚えた。次は……えー……誰だったかな」
独特な覚え方に一同は和み、誰もが零子の笑顔に釣られて笑っていた。零子が全員の名前を呼べるようになる頃には日が落ちて、外は暗くなり始めていた。しばらく雑談をしていたが、疲れてしまったのか零子はいつの間にか眠りについていた。頼人たちは静かに別れの言葉を言い、戸張を残して病室を出ていった。
「いやあ、面白い子だったわね。仲良くなれて良かった良かった」
跳ねるように歩きながら、満足そうに花凛は言う。
「いきなりおかしなあだ名を付けたのには度肝を抜かれましたわ」
「友達の最初のステップはあだ名付けってのがセオリーなのよ。そのおかげで話も広がったわけだし?」
「またお見舞いに行く約束もしたしな。過去の記憶がない分、今を楽しい記憶で満たしてあげないと」
「その通り! さっそく明日も行こうかな」
「見舞いに惚けて勉強を疎かにしそうだな。赤点取ってオレたちの負担を増やすのだけは勘弁しろよ」
紅蓮が釘を刺してきたが、花凛は適当な返事であしらった。そのまましばらく歩いていると、ふとあることを思い出して、頼人の方に向いた。
「頼人、せっかくだから寄ってく?」
「そうだな、色々言わなきゃいけないことあるし。じゃあ……」
頼人は何かを切り出そうと紅蓮と杏樹に顔を向けた時、杏樹が慌てたように頼人の言葉を遮った。
「あー! 忘れてましたわ。なんといううっかり者でしょう。わたくしとしたことが、生徒会長殿から頼まれごとをされていたのを今の今まで失念しておりました。申し訳ありませんが、ここで失礼させていただきますわ。行きますわよ、大田島くん」
「は? なんでオレまで……って、おいちょっと!」
杏樹は紅蓮を引っ張り、足早に去っていってしまった。頼人と花凛は急な退散に唖然としながら、2人を見送った。
「なんかよく分かんないけど、会わせるのはまた今度ね。とりあえず、あたしたちだけで行こっか」
「ああ。今日は色々話せそうだ」
杏樹は病院を出ると、紅蓮の手を離した。安堵の溜め息を吐くと、紅蓮に向き直ることなくこう言った。
「では、さようなら」
「おいなんなんだ。用事があるんじゃないのか?」
1人去っていこうとする杏樹に、紅蓮は急いで言葉をかけた。
「そんなのありませんわ。ただ逃げる口実が欲しかっただけですもの。あやうくわたくしたちも誘われるところでしたから。貴方から感謝の言葉を貰いたいくらいの好判断だというのに」
「話が全く見えん。逃げるとはなんだ? オレが何故お前に感謝しなくてはならない?」
紅蓮は杏樹の前に回りこみ、行く手を阻んで説明を求めた。杏樹は紅蓮から目を背けて、自棄気味に言った。
「あれを直視する勇気と覚悟が、貴方にはないでしょう。このわたくしでさえ、あれを知った時は愕然としました。わたくしたちの狼狽した姿を長永くんに見せるわけにはいかないのです」
「あれとはなんだ? もっとはっきりと言ってくれ」
「そうですね。言葉を濁しても意味はないでしょう。今、長永くんと花凛さんが会いに行っている人物、それは長永くんの母君です。そして、その母君は……」
杏樹は一度言葉を区切った。そして、しっかりと紅蓮の目を見て真実を伝えた。
「死んでいます」




