なくなったもの
妖怪の襲来以降、縁に今まで通りの生活は戻ってこなかった。
妖怪撃退に奔走していた零子が大怪我をしてしまったらしく、何処とも知れぬ場所で療養していると報せが来た。見舞いに行こうにも、報せに来た名もなき正義の隊員はそれを断固として認めず、居場所を教えてくれなかった。零子の容態も詳しく話してはくれず、心配になるばかりだったが、現実は縁に歩幅を合わせてはくれない。零子がいなくなったことによって発生した問題に着手しなければならなかった。
零子が一人で管理していた水ノ森神社を、今後は誰が管理するか。その答えは一つしかなく、縁が引き継がざるを得なかった。居を社務所に移し、学校へ行く前に境内を掃除し、放課後も部活には顔を出さず、すぐに帰らなければならなくなった。部活に出ない口実としては優秀ではあったが、それが続くと寂しさが勝っていった。
やることと言っても単純な守り番をしているだけなので、空虚な時間も多い。その時間に、杏樹から届いた小さな日記帳に目を通していた。罫線のない無地のページに、印字したかのように画一化した字が一切の乱れなく並んでいる。1ページに1日分の内容が書かれていて、文の量に応じて文字の縮尺を変えることで、必ずページを使い切るように調整していた。それを毎日、絶対確実に白紙を埋めているわけだから、杏樹の一日一日が如何に充実したものかが分かる。自分だったら、普通に日記をつけるにしても、3日が限度だと縁は思った。
肝心の内容だが、まさに日記だというようなもので、杏樹の心中が細やかに綴られていた。最初の方は恋慕の情がつらつらと書かれ、読んでいると気恥ずかしさに目を背けたくなってしまった。こんな愛のポエムを読ませるために杏樹は渡してきたとは思えない。というか、これが読まれるリスクを負ってでも、読ませたい何かが先にあるのだろう。そう思い、薄目になりながら、日記を読み進めていった。
仲間との出会い、理の使い方、悪意、日常に変化が訪れ始めた時、縁の名前が現れた。杏樹と縁が初めてあった時のことだ。しかし、不可解な単語が名前の前に付いていた。「東河」を苗字として縁が並び、縁には振り仮名まで振ってある。そして驚くべきはその後、「ユカリ」という人物にも東河という苗字が付いていたのだ。そして、2人の東河縁は双子の姉弟である、とそう記されていた。
頭の中に唐突に浮かび上がってきた「東河」の正体がこれだった。自分の本当の姓は東河だったということだ。加えて、双子の姉がいたということ、それが杏樹の伝えたかったことなのだろう。
「ユカリ、東河ユカリ……」
口に出してみても、彼女のことを思い出すことが出来ない。頭の中のもやがかかった部分に、その名前が吸い込まれていった。ページをめくる手は止まり、ただ彼女の名前を凝視し続けた。
それに囚われ過ぎていて、天音がいることに気付けなかった。賽銭箱の前に座っていた縁は目の前に天音がやってきても視線を動かすことはなく、天音が縁の顔を覗き込んできて漸くその存在を認識した。
「おわっ! びっくりした。どうしたの?」
縁は体を仰け反らし、勢いで日記を閉じた。天音は尚も縁の顔を無言で凝視し続けた。
「あ、天音? そんなに見られると恥ずかしいって」
縁が顔を背けると、天音は口を開いた。
「ごめんね」
「いきなりどうしたんだ?」
「ぜろ子が怪我してしまったのは、私のせいだから。私がこの町に来なければ、妖怪たちが襲ってくることもなかった。エニシにも皆にも迷惑を掛けることもなかった」
「そんな……悪いのは狠山魔とかいう連中と妖狐たちだ。天音は悪くない」
「そうっすよ、姐さン。姐さンに非はねえっす」
急に会話に入ってきたのは銀次だ。銀次は縁に手を貸してから狠山魔の仲間たちの下に戻らず、縁たちと共に暮らしていた。人間に絆されてしまった自分は狠山魔にいる資格がない、と言うのが銀次の言い分だ。3人で共同生活をするうちに、銀次は天音のことを慕い、「姐さン」と呼ぶようになっていった。
「狠山魔の一員だった銀次でさえ、こう言うんだ。天音が謝る必要はないよ。銀次が謝ってくれ」
「え、ええ……ンじゃあ、はい、すンませン……」
「まあ、銀次1人が謝ったところで意味ないけど」
「じゃあ、なンで言わせたンだよ!」
銀次がいるおかげで、縁は過度に悲観せず済んでいた。口調に目を瞑れば飼い猫と同じ、癒し、和ませてくれる存在だ。縁は失った記憶への不安感を忘れられていた。
天音は顔色を変えることも出来ず、縁と銀次を見ていた。彼らの優しさに、何をもって返すべきか。頭の中で言葉に出来ない感情を伴い、それが巡っていた。
その答えを胸に秘めたまま、天音はいなくなった。