襲来の音
式神が俄かに騒ぎ出した。零子ははな婆の部屋に行き、部屋一面に広げてある彩角市の地図を見た。
妖怪の出現を知らせる赤い点が地図上に次々と浮かび上がってきた。今までにない妖怪の大量出現に零子は思考が停止してしまった。
零子を呼び戻したのはスマホの着信音だった。相手も確認せずに零子は電話に出た。
「どういうことだ!」
いきなりの怒声に耳を遠ざける。その後もスマホからは怒りに満ちた声が届いた。
「与宮区のDブロックFブロックHブロック、並びにその近辺に妖怪が多数出現している! 水際で奴らの侵入を止めるのがお前の仕事だろう! なぜ市内中心部に妖怪が入り込んでいるのだ!」
「私もたった今確認したんです。こんな突発的に、しかも大量に現れたのは初めてでビックリしてるんですから」
「驚いている場合ではないだろう! さっさと奴らを処理しろ!」
「そんなこと言っても私一人でこの数は時間が掛かります。そっちの隊員にも出動してもらってくださいよ」
「とっくに向かわせている! しかし人員が足りない上に、主力は例の作戦でほとんど残っていない。その上、妖怪との戦闘経験もない。お前が一番の戦力なんだ」
「あの隊長が残ってますよね? あの人にも出てもらってくださいよ。いつも後ろでふんぞり返ってるだけだし、良い運動になると思いますよ。ああ、もちろん貴方が出てくれても構いませんけどね、数田さん」
電話越しに唸る声が聞こえたが、零子はいい気味だと思った。
「此方も妖怪の出所を調査する。無線をオペレーターと繋いでおけ。指示はそちらで出す。以上だ」
数田はそう伝えて電話を切った。零子は自室に走り、小さなイヤホン型のインカムを手に取ると、それを耳に嵌めて家を出た。
インカムに付いている小さなボタンを押すと、声が聞こえてきた。
「神宮寺さんですね? オペレーターの鳴海です。私が妖怪の出現ポイントまで案内します」
「居るとこなら分かってます。とりあえず、どんな妖怪がいるかだけ教えてください」
「えっと、どんな、というのは……」
零子はかなり焦れたが、それを態度に出さずにこう伝えた。
「人間っぽい見た目で狐の耳と尻尾が付いてるやつがいたら教えてください。それを優先して処理しますから」
「了解しました。他の隊員からの情報を確認します」
妖怪の認知が低いことを憂えた。この一件を終えたら、杏樹に隊員たちへの勉強会を開くように言おうと心に決めた。
放課後になると、縁は部活をすっぽかして学校を後にした。スマホの地図で御門邸の場所を確認しながら、そこへ向かってたどたどしく歩いた。
地図にも載るほどに御門家は大きく、有名な場所である。観光地になっていると言っても過言ではないが、だからといって敷地内に無断で入るのは不可能だ。縁も杏樹とは知り合いだとはいえ、中に入れてもらえるかは不安があった。もし門前払いされても、警備の目を掻い潜って侵入してやろうという気持ちだけは持つことにした。
「あっ、あんたは!」
スマホの画面を見ていた縁は顔を上げる。自分に向かって飛んできた声の主は目の前にポツリと立っていた。
「君はあの時の化け猫?」
二又の尾を激しく振って二足歩行の猫、銀次はまた吠える。
「化け猫じゃなくて、猫又! 全然違うンで! 猫又の銀次、つうンで以後ヨロシク!」
猫は猫で変わりがないので彼の主張はどうでも良かったが、どうでも良くないのは妖怪である彼が此処にいることだ。
「なんで此処にいるの?」
「ンなの決まってる。妖狐の姫さんを殺しに来たンだよ。あんたのスケのな」
やはり自分と天音の正体は銀次にバレていた。縁は半歩下がり、臨戦態勢を取ろうとする。銀次は縁にメンチを切ったかと思うと、すぐに目を伏せて息を吐いた。
「姫さんだけじゃなくて、場合によっちゃあんたも殺さなきゃなンねえ。ただ、あんたたちには修羅の兄貴を止めてもらった恩がある。結果的に兄貴は死んじまったが、あっしの願いを叶えてくれたことに違いはない。だからよぉ、恩には恩を返さにゃならンわけだ。兄さん、名前はなんつうンだ?」
「え、縁。神宮寺縁」
縁は戸惑いながらそう言った。
「あっし以外にも狠山魔の仲間がたくさん来てる。みんな、血眼になって姫さんを探してるはずだ。縁の兄さんもあいつらに見つかる前にどっか安全なとこに逃げな。大丈夫だ、兄さんと会ったことは誰にも告げ口しねえ。あっしはのんびり、人間の住処の観光でもして帰るからよ」
「それはやめた方がいい」
縁は銀次に近寄ると、彼の脇腹をしっかり掴んで持ち上げた。普通の猫と変わらない体形の銀次を持ち上げるのには苦労しなかった。
「な、なにをしやがる」
縁は銀次の体を確認した。銀次には狠山魔特有の札が付いていなかった。
「君の方こそ、義姉さんに見つかったら大変だよ。せっかく札も付いてない綺麗な体してるんだから。僕と一緒に行こう」
縁は銀次を抱えたまま踵を返すと、小走りで来た道を戻った。
今日は天音とは学校に来ていなかった。本人が珍しく来ようとしなかった。何か用事があるのかと尋ねたら、オバケケヤキの丘に行くとだけ言った。
天音はまだそこにいるかもしれない。銀次を抱えている所為で足取りは思わしくないが、縁は足を緩めず只管にオバケケヤキの丘に向かって走った。