もう一人の姉
縁は煮え切らないまま、社務所を去った。しかし、零子の言葉を素直に受け止めたわけではない。
零子にはあえて伝えなかったが、木見浜公園で修羅にクラックを仕掛けた後、ある言葉が脳内に浮かび上がって頭から離れなくなっていた。
『東河』
何かの名前だということしか分からなかったが、自分の失くした記憶に関するものであるのは間違いないと思った。そして、修羅へのクラックが発動せずに修羅の記憶が頭に流れてきたことも不可解に感じていた。その二つの謎を解き明かせば自分の記憶が蘇る。縁は確証のない予感を覚えていた。
縁は自宅へ戻った。「ただいま」と声を上げると、奥から天音が顔を覗かせた。
「おかえりなさい。どこ行ってたの」
「義姉さんのとこ。ちょっと聞きたいことがあって……」
縁はドアポストの受け口にはがきが入っているのに気付いた。受け口から取り出してみると、送り主を一目で理解した。丸みのある文字が書き並べてある裏面を見ながら、リビングに戻った。
「それは」
天音がはがきを覗き込んできた。縁は書かれている文字を読みながら、生返事をした。
「花凛姉ちゃんからのはがき」
「もう1人お姉ちゃんがいたの」
「そういう意味の姉じゃないよ。昔からそう呼んでたから癖が抜けなくて」
天音は縁から遅れて文字を追っていった。その中で気になる言葉が出てきて、それが口に出た。
「……修行。この人は修行をしてるの」
「そう。中国……あー、外の国に行って拳法を学んでるんだ。なんて言ったかな、竜爪拳だっけ。それをマスターするために、3年くらい前から留学してる。でも、もう修行も最終段階に入ったみたい」
一通り読み終えた縁は文字に添えられた花凛の似顔絵らしきものを見て笑みを浮かべた。花凛が修行に出てから、月に一度ははがきが送られてくる。そして、縁もそれに返事を出す。花凛からは修行が辛いだの、師匠のセクハラが酷いだの、飯が不味いだの、毎回大変そうな話をしてくるが、縁は平凡な日々を送っていたために書く内容に苦労をしていた。しかし、最近は天音が現れたことで書きたいものが一枚のはがきに収まらないほどだ。
何を書こうかと考えていると、先程のことが頭に過った。自分の過去を知る者は零子だけではない。花凛もまた5年前、世界が変わるあの瞬間を戦っていた人物だ。当然、自分の空白の記憶にも関与している。少し心苦しかったが、縁は花凛に記憶のことを聞くことにした。
「ねえ、この人、カリンのはがきって他にもある」
いざ書こうという時に天音がそう尋ねてきた。縁は小物入れの引き出しから貯めこんでいるはがきを取り出して天音に渡した。
「ほら、これが全部そう。花凛姉ちゃんが気になるの?」
「うん、そんな感じ」
あやふやな返事をすると、天音は一枚一枚を熟読し始めた。天音が大人しくなったことで、縁は花凛への返信に集中できるようになった。
すらすらと文字が書き並べられて、時間もかからずにそれは出来上がった。読み直して万全であることを確かめると、あることに気付いた。
このはがきを送り、返事が返ってくるのは一ヵ月後。それまで何も記憶について情報を得られないのはもどかしい。待っている間に他にも5年前を知っている人に聞くべきだ。しかし、連絡を取れる人物は花凛以外にはいない。縁は頭を悩ませながら、花凛から送られてきたはがきを見直した。
花凛の似顔絵は縁の知る花凛とは見た目が変わっていた。トレードマークのカチューシャは変わらずだが髪は黒く描かれていたし、後ろ髪は細長く伸ばした三つ編みにしていた。その先端が良く知る金髪に染まっていた。花凛のイメージはこの金髪の髪だ。着崩した制服とその金髪に初対面で縁は怖いという印象を持っていた。
それが払拭された後も花凛の金髪は俗っぽく見えていた。それもこれも、花凛が同じ金色の髪をした清楚で高潔な女性と常に並び立っていたからだ。
「ああ、そうか」
縁は思わず声を上げた。連絡は取れずとも居場所を知る人物を思い出した。
御門杏樹。世界経済を牛耳るミカドグループの息女であり、世界をあらゆる悪から守る、名もなき正義のリーダーである。