兆し
何かの死を間近に見たのは初めてだった。とはいえ、それが死に至った経過を直接的に見ていたわけではなく、振り返るとそこにいたはずの生命が面影も残さず来ていただけだ。
その時は何も思うことはなかった。ただ、自分を殺そうとしていた妖怪が死んだ、それだけしか感じなかった。しかし、その夜から、嫌な夢を見るようになった。
誰かが死ぬ夢だ。誰かが、誰かに殺される。どちらも顔は不鮮明で、性別もはっきりしない。ただ、殺される誰かは僕のことを見ていた。僕のことを見ながら、誰かに殺された。
黒いマーカーで塗りつぶされたような顔。それが吹き飛び、粉々になって、血飛沫が視界を塗り潰して夢は終わる。目が覚めると、じっとりとした汗が全身から噴き出している。そんな最悪な目覚めを数日味わっている。
「ねえ、本当に大丈夫」
口ぶりからはそうと思えないが、天音は心配そうに聞いてきた。
「……うん。なんでもない」
素直に悪夢にうなされていると答えても問題はないだろう。しかし、何故かそれを口にすることが憚られた。これが何かの予兆ではなく、ただの杞憂であることを望んでいた。
天音は縁の異変に気付いていた。最近、上の空になっていることが多く、元気がなかった。それが何に起因しているのか、縁の口から聞きたかったが、本人がそれを拒むならどうともしようがなかった。ただ、黙って見守ることしか出来なかった。
縁の異変に気付いていたのは天音だけではない。園芸部の部員たちも、漏れなく縁がおかしいことに気付いていた。縁はサボることなく部活に来ていたが、余計なお喋りもなく、花の世話を粛々とやり、それを終えるとぼうっと空を見上げていた。それだけなら普段とさほど変わりがなかったが、誰が話しかけても生返事で、決して目を空から下ろしてくれなかった。
「なあ、縁。これ見てくれよ」
ある日、明はスマホの画面を見せつけながら縁に話しかけてきた。縁はしつこい明に折れて、視線を落とす。
「なんだよ。新しいゲームでも始めたのか?」
「違うっての。よく見ろよ、この公園、コスモスで有名なんだって。ほら、丘いっぱいに綺麗に咲いてるだろ?」
縁は画面に映る無数の鮮やかなコスモスをまじまじと見た。明は手応えを感じ、話を続ける。
「でさ、今度の日曜日に皆で此処に行こうって話なんだ。一面に広がるコスモスに囲まれて、気分をリフレッシュってな」
「でも、ここ結構遠いな。入園料もあるし、移動費と合わせると馬鹿にならない額だ」
「心配ご無用。なんせこの遠征は部活動の一環として行くことになったからな。ね? 寿々子先輩」
縁は明の背後に寿々子がいることに今更気付いた。
「うん。色々と勉強になるからね。学校には申請出しておいたし、部費もあるからお金の面は大丈夫だよ」
「そういうこと……本当は寿々子先輩と二人で行きたかったんだけど、しょうがなく皆で行くことになりました」
「砂和くんと仄瀬さんは来られるみたいだから、あとは神宮寺くんがどうかなって。急で申し訳ないんだけど、どう? 予定空いてる?」
縁は答えに迷った。その日は何もすることはないが、自分の中の虚ろな感情が参加を躊躇わせた。
まごまごとはっきりしない態度に、明は痺れを切らした。
「暇なんだろ? じゃあ決まりだ、お前も来いよな。絶対に来い。ぜっっったいに!」
「でも……」
縁が断りを口に出しかけた時、腰に付けている狐の尾が微かに揺れて、縁を優しく叩いた。天音が行ってみたい、とアピールしているのだろう、と縁は思い仕方なく参加を決めた。
当日、天気に恵まれて、絶好の行楽日和となった。