凍てつく一矢
城南琉華にとって世界の変容は歓迎すべき事態であった。
自分が持つ才能と力が多くの人々に認められ、存在そのものを崇めてくれる環境に満足しない他ない。5年前に自律理源クリスタルストリングを道端で拾って以来、理使いとしての才能が開花し、混沌とした世界を戦い抜くには充分な力を得た。それを発揮する場所として、彩角市はうってつけだった。名もなき正義と呼ばれる集団は自分よりも格下の強さで目立とうともしないから、望まなくとも自分が日の目を浴びることになる。
所属しているアーチェリー部での成績も重畳で充実した日々を送っている琉華だったが、その日常に思わぬ変化が訪れることになる。
鳳学園の最寄り駅から歩いての登校。大抵の生徒は駅からバスを使って学校まで来るのだが、琉華は絶対にバスを使わず徒歩で登校している。理由は簡単で、歩いていれば悪意の罹患者と遭遇しやすいからであり、毎度一人か二人と戦って学校に到着する。
しかし今日は珍しく罹患者とは遭遇せずに退屈な登校となった。その代わりに出会ったのは中学を共にした友人だった。
「おはよう、琉華」
「おはよう。海里が歩いて登校なんて珍しい」
仄瀬海里は寝癖混じりの髪を揺らしながら、琉華の背後から現れた。
「いつもよりバスが混んでて乗れなかったから、歩いていくことにしたの」
「バスでの睡眠時間は大事って言ってなかった? 次のを待てば良かったのに」
「そうだけど、たまには歩くのも悪くないかなって。琉華とも会えるかもって思ってたから」
「じゃあ正解だね」
琉華は海里の寝癖を整えようと髪を撫でた。
「いつものことだけど、寝癖は直してきなよ。メデューサみたいになってる」
「そんなに酷いかな。もともとくせっ毛だから、気にしてないんだけど」
「ちょっとは気にして。クラスの皆に笑われるよ」
撫でても撫でても跳ね返ってくる髪に苦戦しながらも、だらしない跳ね方をする髪は鎮めることに成功した。琉華は続けて、海里に学校でのことを聞いた。
「クラスの人とは仲良くやれてる?」
「うーん、普通にはやれてる」
「……全員と仲良くなれとは言わないけど、一人くらい面倒を見てくれる人がいたほうが良いよ。私が同じクラスだったら、そんなの必要なかったけど」
「でもね、園芸部は仲良くできてると思う。先輩優しいし、色々教えてくれる。男子たちも変なのばっかだけど、面白くて楽しいよ」
海里の部活の話を聞いて、琉華は園芸部のある男が頭に浮かんだ。それは好意を持っているからというわけではないし、嫌悪しているからというわけでもない。妙を違和感をもたらすその男子は琉華の脳内に居座り続けている。神宮寺縁。何の変哲もない男子学生、肩書はそれだけ。
退屈な授業が全て終わって放課後になると、琉華はいつものように部活へと急いだ。更衣室で着替えた後、射場に向かう。
ストレッチを終えて防具と矢筒を装着し、弓を持つ。照準器を合わせ、器具の緩みをチェックする。全ての準備が完了して短く息を吐くと、矢をつがえ、弓をゆっくりと持ち上げ弦を引き、50メートル先の的に狙いを定めた。
照準器から覗いた的をブレずに留め、機を計らって弦を開放する。的の中心に矢が突き刺さると、琉華は体の緊張を解いた。その一連の流れを六度繰り返した後、的に刺さった矢を取りに行った。
完璧だったのは最初の一射のみで、撃つ度に的の中心から外れていた。弓を構え、維持する筋力のなさは勿論、集中力が次第に薄れていくのが課題だった。それはアーチェリーだけに関する問題ではなく、理を使う上でも重要な要素でもある。
先日、多くの悪意の罹患者が校門前に出没した際には、連続した戦いに疲弊し、集中力が途切れてしまったがために、一人の罹患者を校内に侵入させてしまった。その悔しさは消えておらず、いつも以上に練習に身が入っていた。
琉華は弓を使った練習を一通り終えると、射場を出ていき走り込みをした。アーチェリーをやる上ではあまり必要とされないが、継戦能力の要である基礎的な体力を付けるためにそれを行うことにした。
学園の外周を走りながら向かったのは近くにある運動公園だ。そこにあるランニングコースを使い、走り込みを続けていると突然、男の叫ぶ声が聞こえてきた。琉華は足を止めて声の聞こえた方向を見る。
20メートル先の道路脇、軽トラックの横で男同士で揉み合っていた。目が血走った男がもう片方の男を突き飛ばすと、トラックに乗り込みエンジンを掛けた。
「こら、何するんだ!」
倒れた男の制止も聞かず、トラックは急発進して逃げようとした。琉華はジャージのポケットから水晶のように透き通った弦を取り出し、弦の中程を持った。
弦の両端から氷が伸びて弓の形を作り上げると、そのまま弦を引いた。同時に弦を引く指先から氷の矢が生まれ、弓に充てがわれる。引き絞った段階で狙いは遠のくトラックに定まり、間を置かずに矢が放たれた。
氷の矢はトラックの後輪に命中すると、タイヤを凍らせて路面と接着させた。琉華は急停止したトラックに走り寄って、運転席を覗いた。割れたフロントガラスと額から血を流して気絶する男から事態の収束を察すると、氷の弓を霧散させ、弦をポケットにしまった。
「いやあ、助かっちゃいましたねえ」
背後から襲われていた男がやってきた。丸ぶちのサングラスをかけ、無精髭を生やした怪しい見た目をしていたので、琉華は警戒を解かなかった。
「あなたがこのトラックの持ち主?」
改めてトラックを見ると、荷台には暖簾が掛かり、その奥に大きな釜が乗っていた。
「そうですそうです。商売道具なもんで、盗られたら生死に関わってました……あっ、割れてるな。まあこれくらいで済んで良かったか」
トラックを公園の脇に戻し、琉華は気絶する悪意の罹患者と思われる男をトラックの横に捨てて、回収に来るのを待った。その間、サングラスの男はトラックが壊れていないか確かめていた。
その様子が目に付いてトラックの方ばかり見ていた。暖簾に書かれた「石焼き芋」の文字に目が行くと、タイミングよくサングラスの男が琉華を見てきた。
「噂には聞いてたけど、理使いの女子高生っていうのは君のこと?」
琉華は愛想悪く頷いた。
「へえ、確かに見事な腕前だったねえ。襲われるなんて思ってもなかったんだけど、君のおかげで大事には至らなかったよ、ありがとう。それでお礼になんだけど、私の特製石焼き芋をプレゼントしてあげようかなあって」
「焼き芋?」
男は首を振りながら返した。
「ノンノン。『石』焼き芋ね。普通の焼き芋じゃないのよ。この立派な石窯で焼いたお芋さんはそんじょそこらの石焼き芋の数十倍美味しいんだから。このお芋も特別なものを使っていてね。全国津々浦々旅に旅して放浪すること四年とちょっと。もはや理想のお芋さんは見つからないと諦めかかったいたその時! 眼前に現れたのは楽園、お芋さんの楽園がそこにはあったのだ。そのまま私は導かれるように……」
「あ、いいから、そういう話は。焼き芋も別に」
話の腰を折られ、石焼き芋屋は大げさにのけ反った。
「ちょっとちょっと! 『石』焼き芋だって。石! い・し!」
「そこ突っ込むの?」
「大事なとこだから何度だって言うよ。なんたって石焼き芋屋に誇りを持ってるから」
彼の突き抜けた阿呆ぶりが見た目の印象を超えた。もはや会話をすることすら面倒だったが、罹患者の引き取り手が来るまでは動けない。早く彼らが来ないものか、と琉華は待ち遠しく思っていた。
しかし待ち人の姿は一向に見えず、苛立ちが芽生えてきた頃に道路の方から白いワゴン車が唸りながらやってきた。ワゴン車は石焼き芋屋の軽トラックの後ろに止まり、中からガラの悪い男たちが降りてきた。
「ここらへんか? ああ、あれか。おい、あいつだ。回収しろ」
男たちは琉華を無視してその横に倒れている罹患者を運ぼうとした。
「待って。あなた達だれ? 名もなき正義じゃないでしょ」
いつも見る名もなき正義たちとは風貌が違いすぎた。琉華はそれを訝しみ、罹患者を運ぼうとする彼らを止めた。
「なんだ、こいつ?」
「たぶん、あれですよ。この辺をシマにしてるっていう」
「んだよ、そういうことか。悪いな、お嬢ちゃん。そいつノしてくれたみたいだが、後は俺たちの仕事だ。名もなき正義さんから回収を命じられてんの。邪魔すんじゃねえ」
男たちは琉華に構わず、男を運び出した。琉華は不審感が勝り、ポケットからクリスタルストリングを取り出そうとするが、石焼き芋屋がその手を止めた。
「待ちなさい。彼らは怪しいし粗暴だけど、手を出すのは間違ってる」
「あいつらが言うことを信じろって?」
「そうまでは言わない。でも、罹患者は回収してくれたし、彼らも何かしてくるわけでもない。だったら、ここは静観しておくべきだ。君ほど強かったら、後手に回ってもなんとか出来るだろう?」
石焼き芋屋に言いくるめられ、反論できずにいる間に男たちは罹患者をワゴンに乗せて何処かへ行ってしまった。琉華は苛立ちを表に出しながら、その場を去ろうとした。
「あ、待ってよ。石焼き芋食べていって……」
「いらない!」
怒鳴るようにして言葉を残し、琉華は学校に戻っていった。背後からは石焼き芋屋の声がまだ届いた。
「また此処に来てよ! 絶対食べさせてあげるから!」
「ムカつく。どいつもこいつも」
大きな独り言が口から出てしまったが、却ってそれで冷静さを取り戻せた。学園の門をくぐる頃には練習に頭を切り替えることが出来た。
射場に帰る道すがら、自販機で飲み物を買おうと中庭に寄った。スポーツドリンクを買うと、休憩してから戻ろうと思い、ベンチに座ってスポーツドリンクを飲んだ。
体を休めたことで自己を省みる余裕も出来た。公園で起こった出来事で、軽トラックを止めるまでは問題はなかった。その後の言動はあまりに直情的だった。罹患者を攫っていった彼らに対して冷静であれば、彼らの正体を知ることも出来た。それが叶わなかったことで、石焼き芋屋に当たるようなことをしてしまったのも恥ずべきことだ。今度、公園に行って石焼き芋屋に謝らなければいけないと思った。
反省を終えて立ち上がると、何の気もなしに空を仰いだ。澄み渡る青空が琉華の中にあった迷いの残滓を消し去ってくれたようだ。練習に気持ちを切り替え、射場へ向かおうとした時、校舎の壁に異様なものを見つけた。
壁に張り付き、屋上へと登っていくのは黒い装束を纏った人ではない何かだった。頭の黒頭巾からは獣のような耳が飛び出し、尻の部分にも獣のような尻尾が出ているのを見て人ではないと確信していた。
琉華はその生き物を注視しながら、クリスタルストリングを手のひらに収めた。弓を発現するには至らず、まずはその生き物に声を掛け、敵意があるか確認した。
「ねえ……ねえ!」
声を大きくして尋ねると、黒装束は琉華の方に振り向いた。目元以外は頭巾で隠され、素顔も感情も読み取れなかったが、その後の行動で全てを悟った。
黒装束は琉華に向かった何かを投げつけてきた。琉華は即座に後方へ飛び退いて足元に落ちたものを見た。実物は初めて見たが、それは間違いなく手裏剣だった。明らかな敵意を向けられたことで琉華は弓と矢を発現し、壁をヤモリのように這って逃げていく黒装束を狙った。
素早い上に不規則な動きで撹乱してくる黒装束に狙いがなかなか定まらなかった。業を煮やして一射放ったが、壁を凍らせるだけだった。
黒装束は壁を蹴り、琉華の頭上にまで跳んでくると、そこから手裏剣を投げてきた。射ち終わった後の隙を狙われて避ける暇がなかったが、間一髪の所で弓を盾にして防いだ。
琉華の背後に着地した黒装束はどこからか短刀を取り出し、琉華に斬りかかった。琉華は振り向きながら弓を引き、狙いを定める前に矢を放った。体勢が崩れ引きも甘い、感覚だけで放たれた矢だったが、運良く黒装束の腕に当たった。
短刀を持った腕は凍っていき、肘から下を短刀を含めて、完全に氷によって封じられた。動揺した様子の黒装束に、琉華は追撃の一矢を足元に向けて放った。足を凍らせ、動きを完全に止めた時点で、琉華の口が開いた。
「あんた何者? 罹患者? というか人間?」
黒装束は答えようとはせず、氷から抜け出そうと藻掻くのに必死になっていた。琉華はもう片方の腕にも矢を放ち、四肢の自由を完全に奪った。それでも藻掻くことをやめずにいる黒装束に、琉華は対話を諦めて無理に正体を暴きにかかった。
黒装束の頭巾を強引に剥がすと、人間の男の素顔が顕になった。ただ本来、人間の耳がある位置にそれはなく、そこより頭頂部に上がっていった位置に三角形の獣の耳がしっかりと付いていた。
引っ張っても取ることは出来ず、皮膚と同化しているようだった。それ以上は正体を知ることは出来ず、あとは黒装束の口を割らせるしかなかった。
「何も言う気ないなら、このまま氷像になるだけなんだけど?」
「……此処で死ぬわけにはいかない。私には離反者を裁く使命がある。それを成し遂げるまでは死ねぬ」
「離反者? 誰かを追ってるってこと?」
黒装束は光のない瞳で琉華を凝視した。
「左様。我が里の神器を持ち去り、人間の世界に入り込み、悪しき企てを為さんとする者を追っている。その者の匂いを辿り、此処に来たのだ」
「私から見れば、あんたも大概悪そうなんだけど。物騒なもの投げつけてくるし」
「すまない。離反者は人間に匿われているという報せがあってな。お前から異様な力を感じたので、疑って攻撃してしまった。しかし、確かにお前は特異な力を持っているようだが、離反者とは関係なかったようだ」
琉華は早とちりで殺されかけたことに不満を持ったが、謝る姿勢を見せる黒装束に強い言葉は投げつけなかった。
「じゃあ、こういうこと? その離反者っていうのは人間と手を組んでて、この学校に潜伏してる。あんたはそいつを探しだすために、此処に入ってきただけ」
「そうだ。だが、匂いはあれど姿も気配もない。中を探ろうにも人間が多すぎて、隠れながら探すのは困難だ。故にお前に頼みがある」
「協力しろって?」
黒装束の思惑を読み取り、先に口にした。
「此処はお前の学舎だろう? そこに得体の知れぬ者が潜むのは気味が悪いはずだ。実害が出ない保証もない。ならば、早々に排除する必要があるのではないか?」
言われるまでもないことだった。今までも学園に侵入してきた悪意の罹患者を駆逐してきた。その対象が正体不明の生物に変わっただけのことである。琉華の答えは一つだった。
「まずはそいつのことを教えて。それから、あんたのことも」
黒装束はニヤリと笑みを浮かべた。
「私は露消。妖狐忍者の露消だ。離反者は名を天音という。災禍の力を持ちし天雷の姫だ」
琉華が露消の四肢を覆う氷を解かすと、二人は人気のない場所に移った。琉華は未知の存在である妖狐と出会い、好奇心と共にさらなる自己の進化の予兆を感じていた。