夢の終わりは
明天は金縛りにあったかのように体が硬直していたが、何かが脇腹に向かって猛烈な勢いで衝突した。
視界の端には異形から発射された五本の指が見えた。指はそれぞれアスファルトに突き刺さり、明天に当たるものはなかった。しかし、一本の指にだけ返り血で塗れていた。
明天は自分の体にしがみつく者を見た。白い髪に細長い耳、紛れもなく飛跿乃だった。
「せ……んせ……だいじょ……ぶ……?」
消え入りそうな声と青ざめていく顔を見て、明天は嫌な予感を覚えた。しがみつく力が弱くなった飛跿乃を引き離して体を見ると、腹部の中程までを異形の爪が貫いた痕があった。飛跿乃の生暖かい血が明天の手に伝わった。
「飛跿乃! なんで此処に……」
「し……ぱいに……なって……すみま……せん……」
飛跿乃はもう焦点も合わなくなっていた。最期の力を振り絞って明天の頬に触れた。
「で……も……やっと……おやくに……たて……」
飛跿乃の手が頬から落ちた。明天は飛跿乃に何度も呼び掛けて体を揺するが、目覚めることはなかった。
「いつの間に入り込んだかは知らないが、命を賭してまで悪夢に抗うとは理解できない。それほどまでにこの男に価値があるのか? それとも人が持つ感情ゆえか? ……まあ、どちらであっても行き着く先は変わらないか」
蒼見がぶつぶつと呟いていると、飛跿乃の体が次第に透明になっていった。
飛跿乃の感触も残っていた体温も明天の腕から徐々に薄れていき、飛跿乃が完全に消えると共に、それらもなくなった。
「悪夢の世界に命以外は存在を許されない。悪夢を生み、喰われるために命は存在を許されている。消えた、ということは命が尽きた証明であり、悪夢が導く当然の結末でもある」
茫然自失となった明天に向かって蒼見は淡々と語った。
「死は悪夢を加速させる。そのまま絶望し続ければ、すぐに夢から醒めて現実に帰れるぞ。命という代償を払ってだがな」
明天は蒼見の言葉が耳に入っていなかった。愛すべき弟子の死の重さは何物にも勝っていた。
竜聖の言伝、死の運命は絶対なのだろう。強い因果の力に導かれ飛跿乃はこの場所に来てしまい、死んだ。自分も飛跿乃に続いて死ぬのか。明天は諦めた気持ちに支配されそうになった。
指先に冷たいものが触れた。何気なくそれに目をやると、腰に付けた血吸いの銀環が盛んに釘を精製していた。明天は我に返った。自分の心はまだ死んでいない。絶対の運命の前でも闘いを続ける意志が確かにそこにあった。
明天は銀環の釘を一本取り、立ち上がった。目の前では怪物が再び顔から指を発射しようとしていたが、振り返って蒼見を見た。
「……なんだその目は? 何が言いたい?」
蒼見は明天の隻眼に強い煌きを感じた。それが何を示すものかは知り得なかった。
「戦う意味……生きる意味……人が命をもって成すべきことはなんだと思う?」
「先程も述べたが、俺の理解を超えている。あえて答えるなら生物なぞ己が種の繁栄以外に役割はないだろう」
「……虚しいな。しかし哀れだとは思わない。お前は答えから逃げているだけだ」
「戯言を続けていて良いのか? 背後にいる悪夢はもう死を送る準備が出来ているようだが」
それでも明天は振り向かない。釘を自分の胸に突き立て、大きく息を吐いた後に突き刺した。すると攻撃間近だった怪物の体が傾き、氷のように溶けていった。
「なんだと?」
蒼見は仰天し、怪物を眺めていた。その隙に明天は蒼見に向かって駆けていった。
崩れかけの怪物だったが、力を振り絞るように顔から出ている指を真っ直ぐに伸ばし、明天に目掛けて発射した。しかしバランスを保てない中での攻撃であったため、動く明天には当たらなかった。
それでも怪物は驚くべき早さで指を装填し、崩れ行く中、何度も明天の命を奪おうとしてきた。
蒼見に接近しきるまでに、明天はいくつもの傷を負った。確かに働く痛覚と反対にぼやけて曖昧な五感に狂わせながらも、蒼見の胸ぐらを掴むまでに辿り着いた。
「そうか。その釘で己の心を封じたのか」
蒼見は疲弊しきっている明天の顔を凝視した。
「悪夢だってんなら、それは自分の中にあるもんだからな。そこに封をしちまえば、事も収まる」
「しかし、その封印も甘かったようだな。完璧に心を封じられなかったがゆえに化物は最後まで消えず、こうして死ぬことも出来ない痛みに囚われている。その傷だらけの体と中途半端に閉じた心で俺を殺せるか?」
「違う。殺すのは俺じゃない」
蒼見は死相すら見える明天の顔の後ろで、枝のように細くなった怪物と目が合った。その意味に気が付いた時には手遅れだった。
怪物が最後の力を振り絞り指を発射した。それは確かな精度で明天の背中を突き刺し、同時に蒼見の体を貫いた。
明天は蒼見に覆いかぶさるようにして倒れた。その直後、明天は静かに消滅していき、蒼見に刺さった指や怪物も消え、悪夢の世界も小さな気泡になって徐々に消えていった。
消えゆく世界で、蒼見は腹の傷を抑えながら体を起こした。
明天が心を完全に封印しなかった理由が分かった。あえて怪物が残る程度に封をし、最後に自ら諸共殺そうとしてきたようだ。しかし、その策も無意味だった。
腹の傷は少しずつ再生していった。傷跡すら残さず治ると、世界が変わった。一面の草原に、温かい風が撫でるように吹いた。
「これは……奴の最後の夢、か」
蒼く広がる空を呆然と眺めていると、大きな欠伸が聞こえた。蒼見は欠伸が聞こえた方を向くと、そこには目を擦り、大きく伸びをする小さな妖狐がいた。
その妖狐の顔を見て、蒼見は自分が間違っていたことに気付いた。そして、自分の体を探ってみると、やはり夜色の幻想がなくなっていた。
明天は怪物の指に貫かれた瞬間、蒼見から夜色の幻想を奪取していた。そして、封じられていない心に残った全ての理を使い、和吉の時間を戻していた。
和吉は立ち上がり、ぼうっと空を見ていた。まだ寝ぼけているのか蒼見に気づいていなかった。蒼見は好機と判断し、和吉に襲いかかろうとした。
和吉の顔に風に吹かれた綿毛が掠める。鼻がむず痒くなり大きくくしゃみを蒼見にかける。すると、蒼見の体は一瞬のうちにシャボン玉に変わり、無数のシャボン玉が空に高く上がり蒼に混じって弾けていった。
和吉は綺麗なシャボン玉を楽しそうに見ていると、背後から声を掛けられた。
「良い天気だな」
和吉が振り向くと、そこには明天がいた。
「あっ、おじちゃんだ。夢で見たのと一緒の人」
「夢?」
「うん。わちきが悪い人にいじめられてたの、助けてくれたの」
「へえ、知らない間に徳を積んじまったか」
和吉は明天の回りを跳ねながら喜んだ。
「わちき、すごく嬉しいんだ。だからね、恩返しする。おじちゃん、何をしてほしい?」
「じゃあ、これを頼めるか」
明天は夜色の幻想と血吸いの銀環を和吉に渡した。そして、いくつかの言葉を和吉の耳に残した。
「……ちょっと多かったか?」
「ううん、だいじょうぶ! でも、ちょっとしたら忘れそうだから、もう行ってくるね。バイバイ、おじちゃん!」
和吉は大きく手を振りながら、草原を走り去っていった。それを見送った明天は軽く息を吐くと、草原に寝転んだ。
「先生」
一面の青空しか映らなかった視界にウサギの耳が入ってきた。そのまま全面に出てきた見慣れた顔に、明天は気だるげに返した。
「なんだ? 俺はもう働かないぞ」
「分かってますよ。頑張りましたもんね」
「……だから、なんだ? 言いたいことあんだろ?」
「へへ、お見通しですね、流石です。あの、その……」
「めんどくせえな。早く言えよ」
「ですから、その……一緒にお昼寝していいですか?」
「ああ」
飛跿乃は明天の横に寝そべった。2人は静かに瞼を閉じ、優しい風に包まれて眠りに落ちた。