執行者・夢想たる断片
蒼見から溢れ出る悪意は異常なものだった。悪意に飲まれた人間は体内にそれが留まり続けるのが普通であり、蒼見の悪意は彼自身がそれを操って外に排出しているように感じられた。
その悪意は周囲を覆っていき、蒼見と明天を外界と隔離してしまった。
「お前、いったい何者だ? 本当に人間か?」
「貴様らのようなハエと一緒にしてくれるな。俺はこの星、母様の意志。死という眠りを齎すもの」
悪意によって気が狂ってた者の発言のようだったが、心臓を貫かれても死なず、その傷も治した奇跡を目の当たりにするとただの狂言だとは考えられなかった。
「貴様にも眠りを与えてやる。ゆっくりと夢の底に落ちていくがいい」
周囲に漂う悪意が一瞬で形を変えた。理の濃い匂いが充満し、明天は立ちくらみを起こした。
重たい頭を片手で持ち上げると、隻眼は虚ろな世界を映した。枯れ果てた草原が一面に広がり生温い風が明天の体を吹き抜ける。正面に立つ蒼見は直立不動で明天を見ていた。
「狼狽えるなよ。悪夢は始まったばかりだ」
明天は宙に浮いた感覚に陥った。足元を見ると地面が消えていて、光の見えない大きな穴に引きずり込まれていた。
恐ろしい速さで落下していく中、闇しかなかった世界がいつしか色のない空に変わり、眼下には荒廃した高層ビル群が見えた。
明天はビルの隙間を抜けてアスファルトに落ちた。全身に激しい痛みが走ったが、生きてはいた。不思議なほどに簡単に立ち上がり、辺りを見回す。
ビルは軒並み破壊され、無傷なものはなかった。植物の蔓のようなものが表面を伝っていたり、葉がカーテンのようにびっしりと掛かっているものもあった。足元のアスファルトも所々が割れ、そこから背の高い草が生えていた。
明天は何が起きているのか理解できなかった。落ちた衝撃のせいか、頭もまともに働いていないように感じていた。
「廃墟と化した世界、か。いや、よく見ると外側は文明が成り立っている。縦横に張り巡らせた空の道路に車輪のない車が走っているのか。建造物も此方側の物とは質が違う。現実には存在しない世界のようだ」
気が付くと目の前に蒼見が立って辺りを興味深そうに眺めいてた。
「このエリアだけは現実じみたもので溢れている。ありふれたビルに何の変哲もない四輪の車。鉄柱、電灯、信号……見慣れたものはいくらでもあるがその全てが機能していない。まるでこの場所だけが時代から、文明から取り残されたかのように捨て置かれている。ああ、悪夢の気配が漂い始めた。真実などないこの世界に、真実を作り出す虚ろの刃がやってくる」
地面を大きく揺らす短い地鳴りが起きた。明天はバランスを崩し膝をつく。その時、大きな影が自分の背後にあることに気づき、振り向いた。
そこにいたのは得体の知れない巨大な化物だった。山のようにそびえ立つ肉塊に無数の口が貼り付き、涎を垂らすものや理解不能な言語を話すもの、嘔吐し続けるものなどとにかく不快で不気味な挙動をしていた。
肌色の表面には青く太い血管が透けて、激しく脈動していた。その血管の先、肉塊の頂点には小さな顔が1つ付いていた。血管が詰まっているかのように青い顔には目も口も鼻もないが、その部分は小さく窪み、人の顔として認識できた。
異形の怪物を前にして、明天は竦んだ。今まで対峙してきたどんな敵よりも、この怪物は恐ろしいと感じ、力量を測るまでもなく太刀打ちできる相手ではないと悟った。
怪物に気づかれないように、少しずつ後ずさりしていく。怪物に目立った動きはなく、明天を認識しているように見えなかった。明天は慎重な後退は続けた。息を殺し、砂利を擦る音すら立てずに怪物から離れていく。しかし、いつまで経っても怪物との距離が離れることはなかった。
「逃げても無駄だ。悪夢の世界に安寧は存在しないだろう? これから起こる事象に身を委ねるしかない。さあ、見せてもらおう。微睡みの底に生きる思念の集塊を」
怪物の頭が明天を見るようにして垂れた。同時に体中の口が一斉に奇声を上げ始めた。
その奇声は聴覚よりも視覚に影響を及ぼした。音波で空気が歪み、怪物が捻れて見えた。それに引きずられるように三半規管に異常が現れ、立っていることすらままならなくなった。
怪物の顔の窪みから黒い血が噴き出した。窪みを突き破って出てきたのは人の指のようなものだった。目、鼻、口の部分から突き出たその指は鋭利な爪を明天に向けていた。
避けなければ、と明天は思ったが、奇声が未だ体の自由を奪っていた。五本の指は一度激しく痙攣した後、骨を断つような音と共に発射された。
明天はただ、捻れながら飛んでくるそれらを見ているだけしか出来なかった。