幻霧と雷光
不自然な霧の塊の外で刹空は己の体を改めて見直していた。
衣服にこびり付いた血と泥はもはや取り除こうなど思いもしなかった。それよりも自分が本来持っているべきものを確かめたが、それらはどこにも存在しなかった。
「……仙雷沱禍!」
おもむろに天に向って叫んだ。しかし、その声に何かが返ってくることはなかった。
「むう、あれだけ可愛がってやったのにのう」
惜しむように呟いた後、掌を見つめた。指に力を込めると、バチバチと静かな音が鳴り、手に電撃が迸った。
「力だけは残っておるか。戯れにはこれでも充分だろう。ただ、彼奴があれから出てこれなければ無意味だが」
刹空は霧に目をやった。あまりにも濃いその霧の中には明天がいる。しかし、外側からはその影も見えず、中で何が起きているのか知ることすら出来なかった。
明天がどうやって霧から出てくるのか。それを想像しながら刹空は待っていたが、その想像を超える早さで明天は姿を見せた。
視界を遮るほどの霧は何かに吸い込まれるように収縮していき、瞬く間に消失した。代わって明天が何食わぬ顔で現れ、これ見よがしに銀環を指先で回していた。
「いわゆる相性ってやつだ。あの霧は水の理。これは地の自律理源。適当に理を使ってりゃ霧は消える」
明天は刹空が問う前に答えを差し出した。刹空はそれを鼻で笑って返した。
「何が適当だ。濃霧に加え我の幻影が数体いたのだ。相応の理量を要さなければ消えぬはずだが?」
「こちとら妖怪相手はプロでね。要領良く理を使うのは慣れてんだ」
明天は理の癖を読み取っていた。普通の理使いでは判別できないような個々が持つ理の波やムラ、精度などを感知し、穴となる部分に狙いを定めて自分の理をぶつけていた。それにより、理の量を最小限に留めて濃霧と幻影を打ち消すことが出来た。
余裕の表情を見せる明天に、刹空は大いに満足した。玩具としては上々。本気を出してもすぐには壊れないだろう、と思わぬ強者に胸が昂ぶっていた。
明天は刹空の纏う気配が変わったことに気付いた。禍々しいはずなのに無垢で幼稚で巫山戯た気配。それに似つかわしくない尖った理が刹空の右手の人差し指に宿っていた。次にその口からも理が漏れた。
「穿ちの一滴」
その言葉と共に指先に露のように小さな水の粒が垂れる。それを明天に向かって弾くようにして撃ち出した。
小さいだけでなく、不安定な理を明天は一瞬だけ見失った。そしてその一瞬の過ちが致命的な傷を負わせた。
明天がそれを再び視認したのは眼前だった。右目に飛び込んだ水滴は弾けて溶けることなく、目玉を抉った。明天は痛みに叫び、目を抑えて悶えた。
「目は2つもいらぬ。真実を見るなら尚更な。さあ、その残った目に我を映っておるか? 真実はそこにあるか?」
血の涙を流しながら明天は前を見た。残った目で見えたのは刹空ではなく、鬼面を被った鎧武者だった。
戸惑いや絶望に打ちひしがられている場合ではなかった。鬼面武者は刀を構えて襲ってきた。咄嗟に銀環から鉄釘を放ち牽制した。
釘を弾き落とすことに夢中になっている間に、明天はもう1つの武器を顕現させようとしていた。それこそ明天の持つパーソナルそのものである。
形を成したそれは30cmほどの柄を持った木槌だった。釘を捌き切り、接近してきた武者の一刀をその木槌で防いだ。
柄に刃が食い込み、力で押し切られそうになったが、一向に刃は進まなかった。その原因はこの武者から感じる理にあると明天は気付いた。
この鎧武者は刹空が作り出したものだ。理の癖が武者の体全体から感じ取れた。そして、この鈍い輝きを放つ刀も同様。その全てが刹空の水の理で出来ていた。
明天の木槌は地の理で形成されている。だから武者の腕力が勝っていても、理の相性でどうにか均衡を保っていた。
冷静さを徐々に取り戻してきた明天は刀に流れる理の波を読み取った。その揺らぎの部分が柄に刺さる刃に訪れた瞬間、木槌で押し返した。すると簡単に刀は折れ、武者も押された反動で後退りした。
明天は勢いのまま、木槌で武者を襲った。理の穴となった部分を的確に狙い、鎧を打ち砕いた。砕けた鎧は露に消え、武者本体も急所への一撃で煙となって消えていった。
木槌はその一撃で、打撃部が欠けてしまった。いくら有利相性とはいえ、その理量に圧倒的な差があった。散らばる木片を唯一の目で見下ろした。
「余所見をしている暇があるのか?」
明天は声がする方に瞬時に体を向けた。そこには嘘偽りのない刹空の姿があった。刹空の片手には微かな音を立てて雷光が迸っていた。
「啼け、仙雷残光・這柏槇」