黒き妖狐
羽黒を追って辿り着いたのは小高い丘だった。頂上に立つ一本の枯れた木のあたりから嫌な空気が流れ出ていることを感じ、明天は急いで丘を駆け上がった。
丘の上に着き、明天が見たものは穏やかな顔で眠る羽黒と同じように眠る妖狐の子供、そしてその妖狐に夜色の幻想を向ける男だった。
「何をしてる!」
蒼見はその声で誰かが来たことに気付いた。明天は止めようとして近付くが針は既に回りきっていた。
和吉から強烈な閃光が迸り、明天は目を背ける。それでも目が光に耐えられず眩んでしまった。光が消え、徐々に視界が鮮明になった。蒼見たちに視線を戻すと、そこにいた小さな妖狐の姿が消え、代わりに大人の女妖狐が立っていた。
「やはり、そうだったか」
蒼見はその妖狐に見惚れるかのように、全身を眺めた。幾重にも重ねた日本古来の衣裳は血と泥で美しさを損なっていたが、それを着る妖狐の顔は反対に化粧で塗り固められて妖艶な印象を見せていた。長く伸びる黒い髪と縦に凛と立つ獣の耳もその怪しさを一層に引き立てるような光沢を放っていた。
妖狐の細く艶めかしい目が蒼見の視線と合うと、蒼見は彼女の存在を確信させるべく尋ねた。
「黒の妖狐、刹空だな?」
その名を問われた妖狐は蒼見から顔を逸し、周囲を見回した。彼女は羽黒を見つけてしばらく目を止めたが、その後また辺りに目をやって明天を見るとまた見つめた。それを終えた後、妖狐は羽黒に近寄りながら口を開いた。
「斯様に現世の記憶を持ちて顕現できるとは思うておらんかった。まさか、人間を手篭めにしようとは、我が身は幼けれど強かであったようだ」
妖狐は愛おしそうに眠る羽黒を見ながら、頬を細い手で撫でた。
「しかし幸運には悪運も付き纏うもの。我を如何にして知り得たか、人ならざるものよ」
妖狐は蒼見を向いて問い返した。その目をより細めて、訝しんでいるようだった。
「そんなことはどうでも良い。お前が刹空であることは確かなようだ。ならばその猛る力を人間どもに振るってみせろ」
「我が力を求めるか……ふっ、ふふふふ……」
刹空は袖で口を隠しながら笑い、視線を明天に向けた。片手を天に掲げると、掌に水が湧き上がり歪な球体が形成されていく。
明天は頻りに瞬きをしてそれを見ていた。妖怪としてのレベルの高さをその1つの水球だけで察知した。
異様なまでに乾く瞳、口内の水分も消え唇から湿りがなくなった。さらには足元の土から水気が失われ、草葉が萎れていった。あらゆる水分を根こそぎ奪い、あの水球を作り出していたのだ。
身動ぐことすら忘れ、はっと我に返った時には既に水球は刹空の手元から消えていた。死という結果が脳から全身に伝わったが、それが伝達されただけということを理解したのは水球の行方を見つけてからだった。
刹空の水球は蒼見の胸を貫いていた。心臓を抉り取られたかのように空いた穴からは血と弾けた水球の飛沫が垂れていた。
「な……にを……」
蒼見は刹空の背中を睨みながら倒れ、間もなく死んだ。刹空はそれに一瞥もくれず、より高らかに笑った。
「ふっふふふ! 阿呆な奴だ。我が主にでもなったつもりか。我は誰にも従わぬ。我の気の赴くままに事を成すだけよ」
再び跪き、眠る羽黒を起こそうと頬を叩く。しかし、羽黒は寝息を崩さずに眠りこけたままだった。
「何を熟睡しておるのだ。おぬしの忠誠心も欲には勝てぬのか?」
明天は勘付き始めていた。この刹空こそが羽黒を狂わせた存在なのだろう。ただの魔性の女ならば良かったものの、この妖狐に関わらせることだけは避けなければならない。
銀環を静かに取り出し、生み出された鉄釘を摘み取る。その僅かな音に、刹空の耳が反応した。
「その音は聞いたことがある。幼子の時分に耳障りな音だった。だが、持ち主が代わっておる。前の持ち主は羽黒の弟弟子だったはずだ」
「あの野郎、不完全な時戻しをしやがって。おかげで今の記憶もがっつり残ってやがるな」
刹空は羽黒を片手で掴みながら立ち上がり、丘の下に向かって乱暴に投げた。
「そちはあの時計の力も知っておるようだな。一体何者だ?」
「お前が今ぶん投げた男の師だ」
刹空はまたけらけらと笑った。ただそれだけの動作を明天は固唾を呑んで見ていた。
「成程な。我から羽黒を取り戻しに来たという訳か。弟子想いの良い師だ。しかし、今や奴は我の持ち物だ。返してやるつもりは微塵もない」
「お前のような悪名高い妖怪じゃなけりゃ、別に諦めてやったさ。黒野狐の刹空」
刹空は顔を少し歪めて明天を見た。
「なんだ、我のことも知っておったか」
「飢餓と大洪水を起こした災厄の黒い野狐、刹空。数多くの陰陽師を犠牲にして滅ぼしたと聞いていたが、妖狐の子として生きながらえていたとはな」
「滅ぼした、か……それが真ならば、我がここに存在するはずもなかろう。彼奴らは野狐を見縊っていたようだ。その気になれば死を偽り、生を一から始め直すことなど造作もないこと。しかし、その代償として我の記憶が犠牲になったわけだが、何の因果かこうして記憶も体も戻ってきた。また再び人間どもを甚振り、嬲り、弄び、我の心を潤すことが出来るのだ」
邪な笑みを浮かべる刹空の周囲を突然霧が囲い、姿を朧げにさせた。明天は慌てながら鉄釘を刹空に向かって投げたが、釘が霧の中に入った瞬間に刹空の影は消え、それを追うように霧も散っていった。
そこには刹空の姿はなかった。散った霧は次第に濃くなりながら広がり、明天もその中に迷い込んでしまっていた。霧で全てが隠された中、どこからか声が鮮明に聞こえた。
「まずはそちで愉しもう。さあさあ、我を探してこの濃霧から脱してみせよ。ほうら、此処だ。此処に我はいるぞ」
霧の中にいくつも影が現れた。明天は見回しながらも、一歩たりともその場から動かなかった。
動揺はなかった。最悪だとも思わなかった。精々じんわりと肌に纏わりつく霧が不快だということくらいだ。銀環を揺らしながら、状況の打破への準備を整えた。