本当の心
社務所の居間に場所を換えると、戸張の顔色がはっきりと分かった。元々あった目の隈が一層酷くなっていたし、顔色も青い。異常な姿になった原因で思い当たるのが1つあった。
明天は戸張の腰に付けてある銀環を取り上げた。
「血吸いの銀環は名前の通り、持ち主の血を吸うかの如く『心』を吸い上げて力を形成する。それゆえに持ち主の精神に多大な悪影響を及ぼすこともある、って渡す時に言ったはずなんだがな」
銀環に付いた無数の錆色の鍵が崩れて消えていく。同時に新しい銀色の水滴のような粒が生まれそうになったが、すぐにそれは引っ込んだ。
「少しは楽になったろ。ん?」
明天がそう聞くと、戸張は軽く息を吐きながら頷いた。
「すみません。ご迷惑を……それにまだ敵討ちと夜色の幻想の奪還も出来ずに……」
「閃を捕まえられないことが心労になった、とは思えないんだが」
戸張が羽黒に対して、熱のある感情を抱いていることを明天はよく知っていた。本当の兄のように慕い、目標としていた兄弟子の裏切りは戸張の中で絶望よりも憎悪が勝っていた。だから、行方を眩ました羽黒を無鉄砲に追っていき、諦めて帰ってくることもなかった。
戸張の心が折れるとしたら別にある。それは彼の感情移入しがちな性格と他者の心が見えるという力があるゆえに起きること。その切欠となった誰かがいるはずだ。明天はそれを知りたかった。
「定期報告を怠っていたのは、閃のことが二の次になったからじゃないか? 閃以上に優先したいことが、和巳の思考を支配した。そしてそれが、今の見るに堪えない姿にさせたんだと推測するが、どうだ?」
戸張は明天から目を逸らして沈黙した。答えを急かすように明天は戸張を睨む。
「先生、そんな顔しないでくださいよ。戸張君が怖がってます」
「庇わなくていいです、飛跿乃さん。僕が悪いんです。全部、僕が……」
口を開いたかと思うと、自分を責めるようなことしか言わなかった。答えらしい答えは返ってこなかったが、戸張の精神状態が芳しくないことは明白である。
明天はわざとかと思うくらいに大きな舌打ちをした。それを聞き、戸張は更に俯いてしまった。
「だから先生、そういう態度を……」
「なあ、和巳」
飛跿乃の忠告を無視し、強い口調で戸張に語りかけた。
「お前の悪いところだ。誰かがいなければ、誰かに認めてもらわなければ、自分の存在を保てない。そうやって自分を責めて、俺がお前を慰めてくれるのを待ってる。お前は悪くない、お前は頑張った、やれることはやったんだから仕方ない……そんな言葉を欲しがってるのが見え透いてる。だが、お前に甘い言葉を吐いてやるつもりはないぞ。自力で立ち直れ。自分で自分を肯定しろ。自我を保つのは自分自身の感情だ。他人の感情を利用するな」
明天はまくし立てるように言った。戸張は依然目を合わせず、一層顔を深く沈めてしまった。
「自分と他人を割り切って考えろ。お前は戸張和巳という人間であって、俺でもなければ飛跿乃でも、閃でもない。お前が閃を追ったのはなんでだ? 俺の怒りを汲んだからか? 違うだろ。お前自身が閃に対しての思いがあったからだ。それを思い出せ。そこにお前が、戸張和巳がいる」
戸張は少しだけ顔を上げた。虚ろな目をしたまま、小さく口を動かした。
「僕がそこにいたとして、その後は何をすべきなんでしょうか」
「知るか、そんなもん」
明天は即答で切り捨てると、戸張の口角が微かに上がった。それに釣られて明天も鼻で笑った。
「じゃあ、課題だ。次に会う時までに答えを見つけておけ。それまでは血吸いの銀環は預かっておく。もし腑抜けのままだったら、これは永久に返さないからな」
戸張が軽く頷いて応えると、明天は戸張の頭を乱暴に撫でて居間から出ていった。明天を追って飛跿乃も出ていくが、最後に振り向いて戸張に言葉を掛けた。
「頑張れ、ってエールしか送れませんけど、頑張ってください。戸張君なら大丈夫だって信じてますから」
「ありがとう。お師匠のこと、引き続きお願いします」
「はい! 任せてください!」
響く声を残して飛跿乃も去っていった。戸張は深く息を吐きながら、目を閉じた。
瞼の裏にはいくつもの人影が映った。それらの影は次第にはっきりと姿を見せたが、1つだけ、ぼやけたままのものがあった。
「そうだよね。この感情がそうさせてるんだから……」
小さな独り言を呟いた後、静かに眠りに落ちた。