覚悟と想いを胸にして
約束の期日。彩角市の中心地、多くのビルが立ち並び、近代化の著しいこの場所に彩角プリンスホテルがある。
50にも昇る階層からなるこのホテルの前で、花凛は1人、摩天楼の頂上を仰いでいた。
「みんな、来てないね。やっぱりちゃんと会って、話し合っておけば良かったんだよ」
「そんな時間なかったって分かってるでしょ?」
愚痴を言う如意棒を花凛は強い語気で咎めた。
「そうだけどさあ。これで誰も来なかったら、どうすんのさ?」
「どうもこうも、あたしたちだけで行けばいいでしょ。だから、あとちょっと待って誰も来なかったら行くよ」
「親切心で言ってあげてるのに。まあいいよ。花凛ちゃんの好きにして」
投げやりな言葉を最後に如意棒は黙ってしまった。花凛は吹き下ろすビル風を受けながらも微動だにしないまま、猶予の時を過ごした。
待つと決めてから数分もしない内に、花凛を呼ぶ声が聞こえた。その声がする方を向くと、赤い髪の大男とそれに体の半分が隠れて見えなくなっている巫女の装束を纏った華奢な女の子がいた。
「紅蓮ちゃんと……ぜろ子? なんでぜろ子まで……」
「私も戦う。皆のために戦うよ」
零子は紅蓮の前に出て、その表情を花凛に見せた。零子の顔は決意を秘めた表情をしていて、花凛もそれを読み取ってそれ以上は零子に何も言わなかった。
「来てるのは獅子川だけか?」
「うん。でも、あんまり待っていられない。最悪、あたしたちだけでおじさんを助けに行こう」
「そうか……だが、頼人と……御門も待ってやった方がいいんじゃねえか?」
「そうしたいのはヤマヤマだけど、早くおじさん助けに行かなきゃ何されるか分かんないんだよ? あと5分だけ待って、来なかったら行く。いいね?」
「……分かった」
紅蓮は不服そうに返事をして背を向けた。
宣言通り花凛はきっちり5分、頼人たちが来るのを待った。そして、何処からか頼人が来るのを期待して周囲を見回す紅蓮を呼んだ。
「行くよ」
「待て、待ってくれ。あれ、頼人じゃねえか?」
花凛は紅蓮が指差す方向に目を凝らした。少しずつ近付いてくるその人影は確かに頼人のようだった。
頼人は花凛の目の前まで来て足を止めた。花凛の目を数秒見た後、その後ろにそびえ立つ摩天楼を仰ぎ見た。
「じゃあ改めて、行くよ」
花凛は頼人と会話を交わすことなく、淡々とホテルの玄関口に向かった。それに続いて頼人、零子、紅蓮もホテルに入っていった。
淡い光が満ちているロビーはその広さに対して、驚くほどに閑散としていた。受付にいるフロントスタッフは貼り付いた笑顔を崩すことなく頼人たちを迎えた。
「長永頼人様でございますか?」
スタッフの問いかけに一同は訝しんで顔を見合わせた。頼人は困惑しながらも、小さな声で返事をした。
「そうですが」
「お待ちしておりました。六藤様より言伝を預かっております。『あのみすぼらしい刑事と共に最上階で待っているぞ。宴が始まる前に君たちが来るのを願っている』とのことです」
「あいつ、オレたちをおちょくってんのか?」
「探す手間が省けて良かったでしょ。ありがとね」
スタッフに礼を言い、エレベーターに向かおうとするが、スタッフは頼人たちを呼び止めた。
「お待ち下さい、御門杏樹様はいらっしゃらないのでしょうか?」
「……杏樹はいないよ」
花凛がそう答えると、スタッフの顔が曇った。
「いない? あの女だけは好きにしていいって言われてるのに。此処で恨みを晴らせないなら何処で晴らせばいいの? 私をキズモノにしたあのニンゲンへの怒りを誰にぶつければ……」
スタッフの笑顔は崩れ、見る見るうちに醜い表情になっていった。顔や手から棘のような毛が生えてきて、耳が毛で隠れると、その上から獣の耳が伸び、指も丸く、鋭く光る爪を忍ばせた手に変化した。顔面は鼻が縮まり、目は大きく楕円形になり、口は裂け、長い犬歯を覗かせていたが片方が折れていた。
変化が終わり、その姿が露わになる。スタッフの正体は化け猫の妖怪だった。
「何こいつ、猫の妖怪?」
「たぶん三福のとこにいた奴だ」
頼人は言い終わるや否や、化け猫に向けて光弾を放った。しかしその奇襲は難なく躱され、化け猫はカウンターの外に出て、頼人たちと距離を取った。
「そう、そうね。決めたわ。あなたたちを代わりにすればいい。私たちに命じられたのは案内だけだから。それも終わったことだし、好きにしていいわよね。この影雪に痛みと屈辱を与えた罰……報いを受けてもらうぞ、ニンゲンども!」
影雪が吠えると、辺りにいた人々は急に化け猫に変化し、更にはどこかに隠れていた化け猫たちも現れて頼人たちを一瞬にして囲んだ。
「どうやらホテルそのものが奴の手に落ちていたようだな」
紅蓮が詰め寄ってくる化け猫たちに警戒をしながら呟いた。
「こんなの構ってられないってのに。とにかく蹴散らしながら、エレベーターまで行くわよ」
花凛の指示通り、頼人たちは化け猫を払い除けながらエレベーターに行こうとするが、彼らも頼人たちの目的が分かっているため、捨て身の覚悟で進行を防いできた。化け猫の妨害により、エレベーターまでの道程は見た目より遥かに遠く、果てしないものになってしまった。
停滞を強いられる一行だったが、唯一頼人だけは前進し続けた。光弾と剣で迫り来る化け猫を容赦なく返り討ちにし、いち早くエレベーターの前に着いていた。
頼人はエレベーターのボタンを押したが、扉はすぐには開かなかった。扉の上にある表示灯が上階から降りてきていることを報せていたが、それを悠々と待っていられる状況になかった。背後から来る化け猫たちを相手しつつ、エレベーターと花凛たちを待った。化け猫たちの対処に苦がないことに気付き、気の緩みが出始めた頃、一匹の化け猫に剣の一振りを乱暴に弾かれた。
「その油断、頂くわ」
影雪の鋭い爪が頼人の喉元を捉える。爪の先が皮膚に掛かり、深く突き刺さろうとする直前、影雪の腕が止まった。
毛むくじゃらの腕を掴んだのは生気のない人形だった。人形は頼人の胸を軽く押して影雪の爪から逃がすと、影雪の腕を締め上げながら乱暴に投げ飛ばした。化け猫の群れの中に落ちた影雪だったが、すぐに起き上がり人形を恐ろしい形相で睨んだ。
「前と姿は変わったようだけど、匂いで分かる。何処にいる、御門杏樹!」
影雪の叫びがロビーに木霊する。化け猫たちも頼人たちも、硬直して杏樹の登場を待っていた。
「何処、と言われたなら、此処、と返す他ありませんわ。わたくしは此処にいます」
玄関口から堂々とした佇まいで歩いてくる杏樹に視線が集まった。
「まさか貴女がいるとは思いもしませんでしたが、良い機会ですわ。あの時の清算をさせていただきましょう」
「やる気のようね、好都合。殺し甲斐が増すというもの。お前たち、狙いは御門杏樹だけでいいわ。我が一族の誇りと名誉に掛けて、奴を殺しなさい!」
花凛たちを囲っていた化け猫の群れは影雪の号令を受けて一斉に杏樹に向かっていった。津波のように襲いくる化け猫に杏樹は眉一つ動かさなかった。ストーンホルダーに手を入れると、その瞬間に化け猫たちは上に軽々と吹き飛び、天井に激しくぶつかって落ちていった。
花凛は落ちてくる化け猫たちの隙間から、杏樹の顔を見た。杏樹も花凛を見ており、軽く首を振って自分の意志を伝えてきた。それを汲み取った花凛は呆然とする紅蓮の肩を叩き、零子の手を取った。
「あいつら杏樹に夢中になってる。今のうちに行くよ」
「御門を残していくのか?」
「平気。そういう顔してる。ほら急いで」
2人を強引に連れて、花凛は頼人の待つエレベーター前まで走った。そして丁度、到着した所で扉が開いた。
全員エレベーターに乗り込み、最上階のボタンを押す。静かに閉まっていく扉の隙間から、杏樹の勇姿が見えた。杏樹は戦いの最中、一瞬だけ此方を向いた。微かに見える表情に花凛は違和感を覚えたが、その真相を探る前に扉を閉まりきった。