決断
親しき者の死。それがどれだけ心の荒廃を進めるのか。味わったことのない経験を前に、杏樹が危惧したのは己の精神ではなく、想い人のそれだった。
頼人がいるであろう場所はなんとなく分かっていた。彼が心を安らげる安息の地であり、同時に闇を深める場所。生ける屍となった長永幸子の眠る病室に頼人はいるだろう。
杏樹の予想通り、そこに頼人はいた。杏樹が病室に入ってきたことに気付いていないのか、眠る母の前に座ったまま、その寝顔を虚ろな目で見つめていた。
頼人に会うことが出来たものの、どんな言葉をかけるべきなのか分からなかった。この病室の雰囲気が杏樹の思考力を惑わしていた。結局、何も考えられないままに、声を発していた。
「頼人くん」
頼人の肩が少し動いた。しかし振り向いてはくれなかった。杏樹は意を決して歩み寄っていき、頼人の背後にまで近付いた。
此処まで接近したものの、言葉が出てこなかった。しどろもどろになっていると、頼人が覇気のない声で呟いた。
「悲しいって思うこととか、辛いって感じることとか、そういう気持ちってどうして湧いてくるんだろうって思った」
杏樹は頼人の言葉に黙って耳を傾けた。
「あいつらが目の前にいる時は全然感じなかったんだ。でもいなくなってから、ずっと心がざわついて、もやもやして、苦しくて。でも、この気持ちって何かに似てるって気付いた。母さんといる時も、同じなんだ。それでやっと分かった。自分が迷ってたことが。振り切れずにいることが。でも、もう迷いはない。それが正しいって、あの時の感情が正しいって、そう決めた」
「頼人くん、いったい何を言って……」
頼人はおもむろに立ち上がり、杏樹の方に向いた。
真っ直ぐ見つめてくる頼人の目に、杏樹は怖さを感じた。それに気圧されて後退りしたが、両肩を力強く掴まれた。その後は一瞬の出来事だった。
頼人はかなり強引に杏樹の唇にキスをした。杏樹は咄嗟に頼人の手を振りほどいて突き放すと、力の限り頼人の頬を叩いた。
頼人は頬を叩かれても尚、表情を変えず杏樹を見つめていた。瞳を潤ませていた杏樹はすぐに顔を背けて、走って病室から逃げていった。
頼人は直立不動で杏樹の出ていった扉を見ていた。拒絶された悲しみはなかった。だが、寂しさは深くなっていった。
寂しさに比例するように頬が痛みだす。更に頬を自分の手でつねると、痛みが緩んだような気がした。