ぜろ子のはじまり
目を覚ますと、頭の中を抑えつけられるような感覚がなくなっていることを確かに実感した。それでも、過去の記憶は戻ってきていないが、思い出す必要もないので、それを憂うことはなかった。
疲れと痛みからか眠気は衰えず、布団から起き上がるのに苦労した。辛うじて上体を起こしてぼんやりと木目の天井を見上げる。天井をスクリーン代わりにして、昨日のことを思い返していった。
ユカリは死んだ。幼き命を散らせた原因は自分にあった。無警戒にも見知らぬ男に付いていき、人質となったがために最悪の悲劇となった。ユカリの死を思い出すと、涙が一筋流れていった。
それをすぐに拭って頬を何度も軽く叩くと、布団から脱して部屋を出た。隣のはな婆の部屋に行くと、そこにはな婆の姿はなく、代わりに戸張が部屋の隅で膝を抱えて縮こまっていた。影になって見えづらかったが、戸張の目の隈はいつも以上に酷くなっていた。
「カズくん」
戸張は声でようやく零子の存在に気付いた。顔を僅かに上げたが、目が充血していて、衰弱しているように見えた。
「もしかして、寝てないの?」
「寝られるわけないよ。あんなことがあったんだから」
弱々しい声で戸張は言った。
「でも、お布団に入るくらいしないと、体が保たないよ。私の使っていいから、そこで横になろう?」
零子は戸張に手を差し出すが、それに応じることはなく、がくりと項垂れた。
「もういい。もういいんだ」
「良くないよ。元気になって服部さんを助けにいかなくちゃ」
「無理だ。助けられる力なんてない。あんなのから奪い返せはしない。人を殺すのに躊躇しない奴らに、勝てっこないんだ」
戸張は弱気な発言を繰り返した。
「でも、助けに行かなきゃ服部さんも危ないよ」
「嘘かもしれないじゃないか。本当は服部さんは捕まってなくて、僕たちをおびき寄せる罠なんだ」
良くないことばかりを考えて怯えてしまっている戸張を、零子は憐れに思った。こんな思考に陥ってしまったのも、戸張が敏感で繊細な心を持っているからだ。彼の不安を取り除き、心を癒やすためには言葉だけでは足りないと直感し、零子は決意をした。
零子は戸張を優しく抱きしめた。そして彼の耳元でそっと囁いた。
「心配いらないよ。もう悪いことなんて起きない。私がカズくんがイヤって思うこと全部、追い払ってあげる。カズくんが私にしてくれたことを、今度は私がしてあげるから」
零子はそう言って強く抱いた後、立ち上がった。放心する戸張に笑顔を見せて、部屋を去った。
自分の心に宿ったこの決意を伝える人物は他にもいた。零子は今までにない感情の昂ぶりを胸に秘めて、その人のいる場所へと向かった。