善と悪
善悪の判断は経験によって下される。第一印象から始まり、その行動、行為の利害の比重、そして道徳的観点からの思考を経て、瞬時に判断される。
それらは生まれたときから知らず知らずのうちに培われて、当たり前のように善と悪を見分けられるようになる。善が正しく、悪が間違っている、と。ただ、悪が間違いだと分かっていながら、支持する人間も少なからずいる。
悪に堕ちる人間は、悪を受け入れている者と、善悪の分別が付かない者の2つのタイプがいる。前者は救いようがなく、後者はたちが悪い。
善悪が分からないということは、自分の行いがどの位置に属するのか理解していないということだ。そして、それを理解するのには他者からの指摘があってからである。その行いが完了してしまってから気付くため、後の祭りになる。自分が間違いを犯したと、反省することでしか、経験を得ることが出来ない。
また、善悪の判断を必要とする場面が来たとしても、その選択に気付くことはない。特に、その場面の空気や流れに身を任せてしまいがちなのだ。
今の零子はまさに、そのような判断能力が乏しい。しかも、負に繋がる感情には蓋をされているため、極端に良い方向に捉えてしまう。神社の裏の人気のない雑木林で見知らぬ男と遭遇しても、参拝客だとしか思わなかった。
「こんにちは」
零子は疑いもせず、満面の笑みで挨拶をした。男は暗い瞳でじろじろと零子を見ていた。その間も、零子は返ってくるであろう挨拶を、笑みを浮かべながら待つ。
男は少しずつ零子に近寄ったが、零子は一歩も動かなかった。鼻と鼻が触れるほどの距離になっても、全く動じることはなかった。
「へえ……普通じゃねえってのはこういうとこもか。面白いな、忌神子」
「私の名前は零子だよ。数字の零に子供の子で零子」
男は吹き出すようにして笑った。
「こりゃホンモノだな。もったいねえなあ。色々遊べそうなのになあ」
「遊びたいの? じゃあかくれんぼ一緒にする? 今やってるから。エニシが鬼ね」
「かくれんぼ……いいねえ、楽しくなりそうだ。じゃあ、とっておきの隠れ家に案内しよう。ついてこいよ」
男は強引に零子の手を取り、林の奥へ進んでいった。やがて、木々を抜けて閑静な住宅街の道路に足が掛かると、今まで為すがままだった零子はピタリと止まった。
「神社から出ちゃ反則。そういうルールだよ」
「ああ? ルールは破ってこそルールなんだよ」
「そうなの? 知らなかった」
「へっ、俺様のおかげで賢くなったな。感謝しろよ」
「うん、ありがとう。えーっと、あなたの名前は?」
男は気味の悪い笑顔を見せて名乗った。
「古錦勇だ。心に刻んでおけ」