不可避の意識
やはり大豪邸の浴場は恐るべきものである。ライオンのような像が湯を吐き出す浴槽はプールの如き広さで、周囲の壁には彫刻が掘られ、何の意味があるのか理解できない柱が何本も立っていた。
美術館にでも来た気持ちになりながら、花凛は浴槽に浸かって辺りを眺め回していた。すると、浴場の入り口から誰かが入ってくるのが見えた。
湯けむりに紛れてやってきたのは杏樹だった。杏樹は何食わぬ顔で体を洗い始め、花凛は杏樹の肢体をまじまじと観察した。
「人の体をそんなに見つめなさって、何かいかがわしいことでもお考えなのです?」
視線に気付いていた杏樹は花凛に顔を向けることなく言う。
「そりゃね……そんなエッチな体してたら女のアタシでもそういう気分になるわ」
「気色悪い冗談はやめてくださいまし」
杏樹は花凛に背中を向けて、髪を洗い始めた。長く伸びた髪を肩に回したことで露わになった背中もまた艶かしく、花凛は本気で見惚れてしまった。そんな邪な感情を知る由もなく、杏樹は背を向けたまま花凛に語りかける。
「そういえば花凛さんの如意棒ですけれど、わたくしが回収しておきましたので後でお返ししますわ」
「あー、そう……え?!」
浴場に花凛の声が響く。杏樹は顔を少しだけ横に向け、怪訝そうな顔を見せた。
「何をそんなに驚いているのですか。まさか、あのまま如意棒を放置するとでもお思いで?」
「いや、そうじゃなくて、ピーちゃんってアタシしか持てないはずだから、なんで杏樹が、って」
「何を訳の分からないことを。あんな薄汚い棒切れ、赤子でも持てますわよ」
以前、如意棒は持ち主である花凛以外が持つことは不可能であると言っていた。それにも関わらず、なぜ杏樹が持つことが出来るのか。あの発言は如意棒の嘘だったのだろうか。しかし、笹本は確かに持ち上げられなかったから、事実であるはず。謎は深まるばかりだ。
答えの見つからない問いに頭を悩ませる花凛に構わず、杏樹は再び話し始める。
「如意棒といえば、先の騒動での花凛さんの戦いぶり。間近で見させてもらいましたけれど、酷いものでしたわ。ただただ如意棒で力押しをして。相性が良かったからなんとかなったものの、あのような戦い方ではこの先が思いやられますわ」
「は、はあ? あんた助けたの誰だと思ってんのよ」
「助けてもらった憶えはありませんけれど」
「最初よ、最初。あたしの窮鼠の烈花が文字通り火を吹いたじゃん」
花凛は浴槽から少し身を乗り出しながら反論した。
「その、窮鼠の烈花というのは貴女が考えたものですか?」
「そうよ。他にもあるんだから。空の桜花と怒りの銀花、あと煌めきの彗星花! カッコいいでしょ? あたしの拳とピーちゃんのサポートが織りなす必殺技の数々! 見たらビックリするよ絶対!」
素振りをしてアピールするが、杏樹の目は冷ややかだった。
「大層な名前ですけれど、結局は単純な身体強化を自律理源で補強しているだけでしょう? そのような戦い方ではこの先、苦戦を強いられるのは免れませんわ」
「じゃあ、どういうふうに戦えばいいのよ」
「パーソナル、ですわ」
杏樹は不敵な笑みを浮かべ、花凛の問いかけに答えた。
「パーソナルって……そりゃあたしも使えるようになりたいけどさ、やり方が分かんないんだもん。それに理の才能がないことくらい、あたし自覚してるんだから。パーソナルなんて現実的じゃないのよ。ムリムリ」
「無理じゃありませんわ。わたくしがレクチャーして差し上げますから」
「え? 杏樹が教えてくれるの?」
花凛は目を大きく見開いて杏樹を見た。
「ええ、超天才のわたくしの指導があれば、たとえ才能のない花凛さんでもパーソナルを自在に使いこなせるレベルに導くことが出来ますわ。もっとも、花凛さんがしっかりやる気を出して真剣に励んでくれることが前提ですけれど」
花凛は喜びが込み上げていた。自分に期待しているからこそ、手を差し伸べてくれているのだ。杏樹がそのような感情を直接向けてくれたことが嬉しくて抑えきれなくなっていた。
「ありがとう、杏樹。あたし頑張るから、よろしくお願いします!」
「良いお返事ですわ。一緒に頑張りましょう」
「杏樹……あんじゅぅ~」
花凛は浴槽から上がり、杏樹に抱きついた。
「ちょっ、どこを触っているんですか!」
「いいじゃん減るもんでもないしー。すっごいなあこれ、あたしの手に収まんないんだけど」
「怒りますわよ、もう、花凛さん! きゃっ、こら、そこは……駄目ですって!」
杏樹の怒声は次第に悲鳴へと変わっていった。浴場の騒がしさは外にまで届き、それを聞いた使用人たちは驚きと共に微笑ましく思ったという。