姫と城
花凛は静かに目を覚ました。体がいつもより重たく感じ、起き上がるのが億劫だったなによりも、それを助長するかのようなベッドの柔らかさと温かさが花凛の思考を停止させて、起き上がらせるのを止めていた。しかし、幸せな夢見心地から現実を思い出させる声が花凛の耳に届いた。
「おはようございます、花凛様」
誰とも知らぬ声で花凛は跳ねるように体を起こした。そして、ようやく自分が今いる場所を認識し始めた。
自分が眠っていたのは天蓋付きのベッド。部屋一面が綺羅びやかな装いで、艶やかな光沢のグランドピアノ、小さくも力強く照らし続けるシャンデリア、1点の曇りもなく自分をありのままに映す鏡台。そのほかにも見たことのない物が溢れるこの部屋は、花凛が別の世界に迷い込んでしまったと錯覚するほどに非日常的だった。
その中で、呆けたままに部屋を眺め回す花凛を、ベッドの横に立ったままじっと見つめる1人の青年。花凛は彼の存在に気付くと、ぎこちない動きで彼に顔を向けた。
「おはようございます、花凛様」
彼は調子も抑揚も全く変わらずに、同じセリフを言った。
「え……え?」
既に理解の領域を越えていた花凛は、どうとも言葉を返せずに固まった。青年もそれからは沈黙し続け、部屋の時間は何処からか聞こえる時計の針の音だけが動かしていた。なぜだか声を発するのも、眉1つ動かすのも出来ずにいたが、ゆっくりと開く扉の音で視線が動くようになり、そこから現れた人物によって花凛は完全に解凍した。
「やっとお目覚めになりましたか。眠り姫という柄でもないでしょうに」
「杏樹!」
花凛は飛び上がってベッドから降りたが、床に足を付けた瞬間に覚束なくなり転びそうになった。すかさず青年が花凛を抱き止めたおかげで、惨めな姿を見せずに済んだが、慣れないシチュエーションに、花凛は顔を赤らめた。
「あ、ありがと……」
「無理はなさらずに、どうぞ腰をおかけになってお待ち下さい」
促されるままに花凛はベッドに腰を下ろして、杏樹が近付くのを待った。
「まあ2日も眠り続けていたら、体も本調子とはいかないでしょう。そこで大人しくしていなさいな」
「ふ、2日!? そんなに寝てたの……っていうか、アタシ、なんでそんなことに? それにここはどこ?」
杏樹は青年が何処からか持ってきた椅子に座り、花凛と目線を合わせる。
「あの男……並木と呼ばれてましたか。彼の毒の影響で意識を失っていたのですよ。如意棒の力では誤魔化しきれなかったというわけですわ。事が事ですから、病院に連れていくわけにもいきませんでしたし、わたくしの家でこっそり養生していただいてたのですのよ」
「そうだったんだ……でも、大丈夫なの? 杏樹の家族に、バレない? それに……」
花凛は杏樹の背後に立つ青年に目を向けた。花凛が言わんとすることを察知した杏樹は少し得意気になって言った。
「彼、左京はわたくしの最も信頼する使用人です。わたくしたちがどういう力を持って、何をしてきたかも伝えています。彼が他の人間にそれを言うことは絶対にありませんのでご安心を。それと、花凛さんは秘密裏にこの部屋に連れてきましたので、バレてはいませんわ。ちゃんと左京が監視していましたし」
左京は深々とお辞儀をした。花凛もそれに合わせて軽く頭を下げた。
「それならいいんだけど……あっ、でもウチの方がヤバい。心配してるかも」
「そちらもご安心を……」
杏樹は軽く咳払いをした後、喉を軽く抑えながら声を発した。
「あー、どもども。あたし、獅子川花凛17才! 馬鹿力だけが取り柄の現役女子高生だよ、エヘッ!」
杏樹の口から発せられたのは花凛と違わぬ声だった。
「……とまあ、女性の声であれば真似るのは容易いので、これを使って花凛さんのお母様には友人宅に泊まると伝えておきました」
「そんな特技持ってたのね……スゴイというか怖いというか……」
「このわたくしに畏怖を抱くのは当然のことですわ。おほほほ」
機嫌の良さそうに高笑いする杏樹の後ろで、左京が顔を横に向け、耳に手を当てながら小さな声で相槌を打っていた。その後、すぐに元の姿勢に戻り、ご満悦な杏樹に遠慮を見せながら口を開いた。
「お嬢様、お食事の用意が出来たそうです」
「あら、そうですか。丁度良いですわ。花凛さんもご一緒にお夕食といきましょう。お腹も空いているでしょう?」
「え、ええ、うん。だけど……」
「らしくありませんわねえ。素直に頂いていくべきですわよ。さあ、ほらほら」
本人が躊躇うのも気にせず、杏樹は花凛の手を取り、部屋を共に出た。部屋を出てからも、花凛はここは日本なのかと疑ってしまう豪華絢爛な世界に放心させられてしまった。