森と闇
サラが気付いたのは、すぐ傍でパチパチと何かが弾けるような大きな音がしたからだった。
鼻を突く煙の臭いと、すぐに異常と分かる容赦ない熱さに、彼女の生存本能が警鐘を鳴らす。
やがて周りの様子が視界に入ると同時に、彼女は咳込んだ。
「…なっ、ケホケホッ。どういうことだ?」
サラは無意識に口元を押さえる。辺りは暗く、視界は悪いが、どう見ても先ほどまで居たはずの自分の家の庭ではない。森の中みたいだ。しかもあろうことか周囲の草や木の枝が燃えていて、火の手がすぐ傍まで迫っていた。
訳がわからないが、それでもサラは 動き出した。とにかく逃げなくては。このままここにいては間違いなくすぐに丸焦げになってしまう。一度そう思うと気持ちは焦ったが、視界も足元も悪く、思うように逃げられない。その時ふと、片手に握り締めているものが先ほどまで吹いていたフルートだと分かり、少しだけ落ち着きを取り戻した。口元を押さえたままとにかく火の気の無い方へ向かう。
煙を吸ったからか、再び意識が遠のきそうになるのを懸命にこらえて、サラは歩き続けた。火の気から距離をとるにつれ、あたりの闇はどんどん深くなり、方向感覚が失われそうになったが、周囲の木々の間から僅かに見える月灯りに励まされるように、彼女は歩を進めた。
そうして、どのくらい歩いただろうか。歩きながら、サラは意識を失う前の出来事をぼんやり思い出していた。
「不思議な光の玉と話したんだったな。月の精霊と言ったか?」
思わずまた月を探したが、気付けば月はとうに隠れてしまったらしい。
夜明けは近いのだろうか。
休みなく歩いてきていたが、徐々に足下もおぼつかなくなってきた。
「我と我の主の願いを叶えよ。闇を照らして世界を救え…。」
記憶力のいいサラは不思議な言葉を繰り返し反芻していたが、その意味は解らなかった。それでも歩みを進めているうちに、とうとう彼女は足を滑らせてしまい、足を痛めたようだった。上がってきていた息を吐き出して、彼女は木の根に寄りかかった。そうして少し休もうとした時だった。
「おい、お前。ここで何をしている。」
不意に数人の男たちが現れ、近づいてきた。皆、ランプのようなものを掲げたり腰に下げたりしていて、簡単な鎧のようなものを身に着けている。日本では見たことがない格好だ。しかも帯剣している。薄暗くてよくは判らなかったが、ブラウンやグレーの髪色のように見えた。
「おい、答えろ。」
一人の若い男が声を荒げた。
言葉はサラと変わらないのに、外国人の兵士に見える。しかも怒っている。なんと答えれば良いのだろう。つかの間、サラが答えを探していると、男はいきなり剣を抜いた。
「答えられないというのが答えか。」
切っ先がサラの首筋に向けられた。彼女は恐怖に凍りつく。
「死にたくなかったら立て。連行する。」
男が一歩前に踏み出したその時、
「…まぁ、待て。」
後ろに居た少し年かさの男から声がかかり、サラは助けてもらえるのかとそちらを見た。が、それは甘い考えだったと一瞬で悟る。男は、サラが…これまで何回も見てきた、ギラギラした目でニヤついていた。
「ほら、よく見てみろ。まだ少女じゃないか。…とびきり上玉の。」
「…っ。」
サラは思わず自分の身体を抱きしめた。幼い頃から美少女として有名だった彼女は、これまで同世代の少年たちから沢山の好意を向けられてきた。そしてそれにとどまらず、周囲の大人たち、見ず知らずの男や学校の教師からでさえ、同様の視線を向けられることがあった。まして、この時はまだ彼女は知らなかったが、この世界での成人は十五歳。黒髪というのも珍しい。以前よりも圧倒的に彼女はそういう危険にさらされる立場となっていたのである。
しかも彼女が男の言葉に反応を示したことで、後ろにいた男たちにも、先の年かさの男の言葉の示す意味が伝わったらしい。ランプの灯りが、彼女の身に着けている白いワンピースからスラリとのびた華奢な手足を艶めかしく浮かび上がらせていた。両腕に隠された二つの膨らみに長い黒髪がかかっている。
ほかの男達が口々に言った。
「小隊長の言うとおりだ。こんな少女にこんなことができると思うか?それに、疑いのかかっている少年も、やつら賊の姿も、一匹も見えないじゃないか。」
「ああ。少女一人、わざわざ隊長のところまで連行する必要はないさ。」
皆に同じような汚い笑みが広がるのを見て、最初に声をかけた若い男は、戸惑いの表情を浮かべた。
「…ですが、」
「お前は見張りをしてろ。」
若い男を横に押しのけ、他の男たちがサラに近づいてきた。
「…嫌だっ」
逃げたくても体の動かないサラは身体を丸めて顔を思いっきり横にそらした。そんな彼女の意思など少しも問題でないと言うように、複数の男たちの手が彼女に伸びる。必死に抵抗しようと手足を動かそうとしたが、四方から手足をつかんで抑えつけられては彼女に為すすべなど無い。手からフルートが転げ落ちる。そして年かさの男が下賤た笑いを顔に張りつけたまま、サラに手を伸ばしたその時だった。
深い森だと言うのに、突然強い風が吹き、サラを囲んでいた男たちは弾き飛ばされた。
周囲の木々がざわめき、木の葉が激しく周囲に舞い上がる。
「何事だっ。」
皆が自分の顔や体を抑えて、風がやむのを必死に待った。吹き荒れる風と木の葉が、男達の顔や手足を切り刻んでいく。
「もしかしてと探してみたけど、まさかこんな所に居るなんて。」
風がやんだとき、目の前には不思議な服装をした一人の青年が、その腕にサラを抱えていた。
疲労と恐怖から、とうとう遠のき始めたサラの意識に、
「間違いないね。ちょっとだけ、ごめんよ。」
という小声が聞こえるや否や、彼はサラを高く抱き上げた。
また空へと浮かび上がっていく。と同時に、先ほどよりもさらに強い突風が吹き付け、渦を巻いて男達を周囲の木々へ叩きつけていった。男たちには、その姿はほとんど見えなかっただろう。
森全体が見渡せる高さまで浮かび上がると、青年は、ある方向の空を睨んだ。
夜空が赤く燃え上がっている。
「嫌な風だなあ。」
そして、少しの間見つめていた青年は、背を向けるとサラを抱きかかえたまま飛び去って行ったのだった。