長電話
*
あたしも午後九時過ぎなどに友達から電話が掛かってきたりすると、ついつい長電話してしまう。本来なら十分で済む用件が、一時間とか一時間半などになってしまうのだ。ゆっくりとベッドに寝転がり、スマホを右耳に押し当てて話し続ける。三十代女性は安定しているようで、何かと心寂しいのだ。
「美樹子の彼氏って何してるの?」
――ああ。今、街のパチンコ店でバイトしてるわよ。いつも帰りが遅いから。先に寝てることもあるわ。
「そう。……じゃあつまんないでしょ?」
――まあ、そう言われればそうね。確かに夜もご無沙汰だし。……岬の方は?
「うちも同じよ。旦那が遅くてずっと待っててもいつのまにか寝ちゃう」
――じゃあ、あたしの方とまるで変わらないわね。
「ええ。でも気にしてないわ。娘も息子も早く眠ってくれるし」
あたしと美樹子はこうやってずっと長電話するのだ。スマホを耳に押し当てたまま。ずっと友達だったが、あたしの方には旦那と子供が二人いて、彼女は彼氏の卓生と同棲しているようだった。元々高校時代、同級性同士で仲がいい。そういった何気ない感じで関係が続いている。美樹子は大概午後九時頃に電話してくるのだった。彼氏の帰りが遅いので……。
女性同士だとお互い長電話に慣れる。もちろん街のカフェなどで会うこともあるのだが、そういったときはあたしの方が子持ちなので、母の恵津子に見てもらう。母も早くに連れ合いである父を亡くし、女手一つで一人娘のあたしを育ててきた。あたしも母には頭が上がらない。
*
「お母さん、澪と陵のこと頼むわ。今から美樹子と街のカフェで会って、その後食事するの。午後八時までには戻ってくるから。お願い。ね?」
「仕方ないわね。澪も陵もまだ小さいんだから、あんたもちゃんと子育てしなさい」
「うん。……だけど、あたしもお母さんが一人っ子のあたしを育ててくれたことが身に沁みて分かるわ。大変だったんでしょう?」
「あんた、子供時代のこと覚えてないの?」
「うん、あんましね。でも、確か良介叔父さんがよく家に来てくれたのは覚えてる」
「良介も亡くなっちゃったしね。早かったし」
母の弟、つまりあたしの叔父の良介は典型的なヘビースモーカーで肺ガンを患い、四十代の若さで亡くなった。小さい頃、姪のあたしとよく遊んでくれたのは覚えている。今はもういない。やはりタバコと過労が祟ったのだろう。それに父も叔父を追うようにして亡くなった。叔父がガンで倒れて死亡してから数年後に、胃ガンで息を引き取ったのである。父も五十代前半で亡くなり、孫である澪や陵の顔を見ることなしにこの世を去った。
その日、午後三時過ぎに待ち合わせ場所に指定していた街のカフェに行った。約束の時間よりも遅れて行ったのだが、美樹子はテーブルに座り、注文していたコーヒーを飲みながら、電子書籍端末を使って本を読んでいる。彼女は読書好きなのだ。本格推理などミステリーが好きなようだった。逆にあたしの方は恋愛小説を好んで読む。
「あ、岬。こんにちは」
「ああ、こんにちは。……本読んでるの?」
「ええ。あたしも読書好きだから」
「そう?意外。美樹子って昔はコミックばかりじゃなかった?」
「まあ、そんな時代もあったわね。だけど今の漫画って全然面白くないわ。だから活字の方を選んだの。岬は本読まないの?」
「そうね。一応新聞取る代わりにネットでニュースを見たりはするけど」
「これからは高度なIT社会になるし、パソコンだけじゃなくて、ケータイやスマホも使いこなせて当たり前になるけどね」
「うーん、怖い時代だな」
思わず唸ってしまう。スマホは持っているのだが、アプリケーションも含めて全部の機能を使いこなせるわけじゃない。単に電話とメール、カメラなどが使えれば十分だった。別に特別なことをするつもりはない。美樹子にメールするときは、カメラなどで撮った写真を文章に添付して送るだけだ。使えない機能の方が圧倒して多い。
*
「岬、テーブルに座ってよ。そこに突っ立ったままじゃ、疲れるでしょ?」
「うん。じゃあとりあえず」
そう言って目の前の椅子に座る。さすがに女性でも三十代を迎え、妊娠・出産までしたので、今は小さな子供たちの事に追われているのだが、ひとまず母が面倒を見てくれているので安心していた。美樹子ともずっと電話ばかりじゃ何だし、しばらく会わないとお互いの事が分からない。まあ、あたしもそれだけ充実した時を送れているのだったが……。
「コーヒーか紅茶頼んで。スイーツも付けてもらっていいから」
美樹子がそう言って、近くにいたウエイターを呼ぶ。そしてあたしに注文させた。ここは彼女が奢るようである。言葉に甘えてホットコーヒー一杯にケーキを一品頼んだ。あたしも電子書籍端末を生で見るのは初めてだ。美樹子はずっとそれで読書しているらしい。紙の本じゃなくて、電子書籍の方を選んだようだった。確かに質感で言えば紙の方がいいだろうが、彼女はそんなことを気にしてないらしい。
「ゆっくりしようよ。普段は電話ばかりなんだから」
美樹子が手元の端末から目を上げてそう言い、あたしにリラックスするよう促す。さすがに彼女も普段はゆっくりする時間があまりないようだった。座った後、美樹子が奢ってくれたコーヒーが届いたので口を付ける。そしてフォークでケーキの山を崩した。普段からずっと家事や育児に追われている。たまにはゆっくりする時間も必要だった。
「主婦業って案外しんどいのよ。あたしも日頃からそう思ってるし」
「そう?あたしなんか、卓生とは同棲してるだけだから、気楽だけど」
「それはいい関係よ。いざ家庭なんか持ったら、とてもじゃないぐらい大変だから」
「分からないことはないわね」
彼女がそう言って端末をいったん脇に置き、ゆっくりと呼吸する。疲れ目を撫でて擦りながら、いろんなことを感じているようだった。そしてカップに入っている冷めたコーヒーを飲み干し、ウエイターに、
「もう一杯お願い。エスプレッソで」
と言う。ウエイターが「かしこまりました」と言ってカップを受け取り、厨房奥へと入っていく。美樹子はこの時間帯はまだ濃い目のコーヒーでも構わないようだった。彼女も時間を惜しむことはないらしい。暇を持て余しているからである。卓生との同棲生活は彼が外に働きに出ている分、フリータイムが増えていた。どうにもならないような類の。
*
「岬」
「何?」
「さっき主婦業はしんどいって言ったわよね?」
「ええ。……それがどうかした?」
「あたし、卓生とは結婚までしない方がいいかな?」
「うん、そう思う。今のままの方が気楽でいいわよ」
そう言ってテーブルに届いていたコーヒーのカップに口を付ける。美樹子が、
「岬は割り切ったのね?旦那さんとの結婚生活に加えて、二人の子育ての生活に」
と訊いてきた。頷くと、一呼吸置いて彼女が、
「――そうか。でもそんな人生の選択肢もありかも」
と言う。人生は一度きりだと思っている。あたしも美樹子が卓生と一緒に過ごすだけで、これから先、特に目立った変化はないものと感じられた。しばらく経ち、二杯目のコーヒーがテーブルに届くと、彼女がブラックのまま口を付け、
「……熱い」
と呟く。あたしも気になり、
「あまり熱いのにいきなり口付けちゃダメよ。少し冷ましてからね」
と言った。まるで澪がグラタンなど熱い料理にいきなり口を付けたときみたいに。美樹子が笑って、
「そんな子供じゃないんだから。大丈夫よ」
と返す。あたしもついつい笑ってしまった後、翻ってゆっくりと、
「そうね。こんなところに親の心が出てきちゃうものね」
と言い、また笑い出す。美樹子が、
「でも、こうやってお互いに素が出るところが人間ね」
と言ってきた。あたしも同感だ。残っていたケーキは食べかけだったので、それに口を付けた。そしてそれからいろいろとお喋りする。中年女性同士の会話だったが、別に変化はない。ゆっくりと話し続ける。気が紛れるまで。いつもはお互い電話だったので、声は聞けても表情までは分からない。だけど高校時代の同級で気心が知れていたので、何も遠慮は要らなかった。ずっと付き合えるのがそういった学校時代の同級同士だ。夏のように青春の一番暑い季節を一緒に過ごしているので、簡単には絆が壊れない。
揃って立ち上がり、あたしの方が「じゃあ行きましょ」と言うと、美樹子が「ええ」と返す。これから食事を取りに行くのだ。このカフェを出て。そして歩きながら、また他愛のないお喋りを続ける。あたしたちぐらいの年代になれば、女性なら女性同士、男性なら男性同士の方が話しやすかった。返って異性よりも。
また今夜も旦那は遅くなるだろう。あたしも思っていた。これが現実だと。そしてそれを受け入れられてこその人間だ。ずっと互いに感じているのだった。これから先の事を。ゆっくりとやっていくつもりでいる。不満や不平を言い出せばキリがないのだし、今どっちのカップルも何とか上手く行っているので。愚痴の掃き溜めとなる長電話は変わらずに続いていたのだが……。
(了)