(8)
翌日、ジャンとアンジェリーヌはリュシアンの私室に呼ばれた。
二人とも何故呼ばれたのかは聞いていない。
心当たりがあるとすればジャンとアンジェリーヌの結婚のことだけ。
アンジェリーヌは久々にジャンと逢うことができ束の間喜んだが、やがて現われたリュシアンとイレールの硬い表情を前に不安の芽が生まれた。
何かあったのだと思った。
ジャンとの結婚に暗雲が立ち込めているのを感じた。
今になってやはり結婚は駄目になってしまったのかもしれない。
アンジェリーヌの心は不安に捕らわれていた。
リュシアンがテーブルに着く。イレールはその横に座った。
リュシアンの前にはジャン、イレールの前にはアンジェリーヌという位置だ。
「兄上、今日はどうして俺達を呼んだんだ?」
ジャンもリュシアン達の様子からただならぬ何かを感じ取っていた。
リュシアンは一度俯く。何と言って切り出そうかしばらく迷っていたが、心を決めてジャンを見た。
「会議でアンジェリーヌが王妃に決まった」
リュシアンの信じられない一言に、ジャンもアンジェリーヌもすぐには何も言葉が出なかった。
(王妃? ……誰が? 私………が?)
何のことかと思った。
ジャンとの結婚が取り止めになるどころか、リュシアンの……国王の正妻である王妃にとはアンジェリーヌはすぐに呑み込めなかった。
「アンジェリーヌが王妃? ……兄上の妻に?」
ジャンも放心状態で呟いた。
リュシアンは二人の様子を見て無理もないと思った。しかしリュシアンは辛い言葉を更に口にするしかなかった。
「そうだ。私の妻に、だ。お前達の婚約は破棄された」
リュシアンのとどめを刺すような一言にジャンはようやくその意味を理解し、そのとたんテーブルを叩いて立ち上がった。
「どういうことだ、兄上!?」
ジャンの瞳からは戸惑いと怒りが見て取れた。
そんなジャンをリュシアンは落ち着いた眼差しで見上げる。
「言った通りだ。大臣達がアンジェリーヌを推挙してきた。私にはそれを断る力がなかった。ジャン、お前なら国王とはいえ今の私の立場がどんなものか分かっているだろう?」
「何故アンジェリーヌが……? 紅の女神だからか? イレール、まさかお前がアンジェリーヌが紅の女神だとしゃべったのか!?」
ジャンは鋭い視線でイレールを射抜いた。
イレールは顔色一つ変えずありのままを口にする。
「いえ、マルシーナ伯爵です。私もまさか彼がしゃべるとは思っていませんでした。アンジェリーヌの存在が知れてしまったのは私の落ち度です。マルシーナ伯爵の精神状態を見抜けなかった私のせいです。……申し訳ございませんでした」
ジャンは怒りの矛先をどこへ向けたらいいのか分からなかった。
リュシアンもイレールも、アンジェリーヌと自分を守ろうとしてくれたのは二人の言葉から分かっていた。大臣達に怒りをぶつけたところでリュシアンに迷惑をかけるだけ。アンジェリーヌを王妃にすることを阻止出来るものでもない。
「くそっ!!」
ジャンは怒り任せにテーブルに拳を叩きつけるしかなかった。
その横でアンジェリーヌはどうしたらいいのか分からなくなっていた。
ジャンと結婚出来ない。
一度は諦めたジャンとの結婚を再度諦めなければならない。幸せの絶頂から突き落とされた思いだった。
それだけではない。
彼の双子の兄と結婚しなければならない。それも国を背負う国王の妻、王妃として。
出来るわけがないと思った。
ジャンと同じ姿をしていても別人であるリュシアンの胸に、夜ごと抱かれることを考えるだけで身を裂かれる思いがした。
アンジェリーヌの顔は青ざめ、何も言葉を口にすることが出来ないほどだった。
「アンジェリーヌ、そしてジャン。私は今でもお前達二人の仲を引き裂きたくないと思っている。……アンジェリーヌを王妃にする、その決定は覆すことは出来ない。しかし大臣達が望むのは、紅の女神を王妃という立場に縛り付けることだけ。神の血と紅の女神が国王と王妃の形として納まることを望んでいるだけだ。だから私はアンジェリーヌを王妃として迎えるが、それは表面上のことだけにする。妻として迎えたりはしない。……アンジェリーヌ、そなたはたとえ王妃になろうともジャンへの想いを殺さなくともよい。心も体も自由にジャンを想っていていいし、ジャンと愛を育んでいきなさい。約束するよ、私はそなたにむやみに触れたりはしないと」
「兄上、それでは俺達に陰でコソコソ愛し合えというのか? そんなのは嫌だ。俺は俺の妻として堂々とアンジェリーヌを愛したいんだ!」
「私もお前達にいつまでも肩身の狭い思いはさせない。今回断れなかったのは国王としての私の立場の弱さだ。だから何年かかるか分からないが、大臣達に有無を言わせないほどの力をつけた後、お前達を正式に結婚させる」
リュシアンの苦肉の策はイレールでさえも仰天するような破天荒な手段だった。
愛人を臣下に下げ与えることがないわけではない。しかし正妻を自分の兄弟と再婚させることなど異例中の異例。そんな話は誰も聞いたことがなかった。
「世継ぎはどうなさるおつもりです? 神の血を受け継ぐ者を産むことも王妃の務めに含まれているのですよ。愛人に産ませるおつもりですか? ご自分の二の舞を子供にさせたいのですか!?」
イレールは幼い頃よりこの双子の王子、とりわけリュシアンが貴族達から「愛人の子で王太子か」などと冷たい視線を向けられていたのを知っていた。
心優しいリュシアンが血を分ける我が子にそんな思いをさせたいはずがない。
「私は、神の血が私の代で潰えてしまっても構わないと思っている。こんな印のために誰かを傷つけて生きることなど、私でもう終わりにしたい」
この神の血のために母親も王太后も、彼女の子の本来なら正式な世継ぎだったカミーユも、悩み苦しんできたに違いない。
そして今また愛し合う者達を引き裂いてしまうのだ。
人の心を犠牲にして神の血の力を得たところで、残されるのは虚しさだった。
「アランテル王国が滅んでもよいとおっしゃるのですか?」
「この国が滅びていいなどとは思っていない。ただ神の血のしがらみを終わらせたいのだ。私に子が出来なくても、カミーユか彼の子が継いでくれるだろう。本来の正当な血筋に王位が戻るだけのことだ」
「……陛下は神の血も紅の女神も、その存在を軽く考えておられる。大臣達がそれで納得するわけがありません。もし王妃との間に子がなければ、彼らは次々と愛人を紹介して何としても神の血を存続させようとするでしょう」
リュシアン本人にしか分からない神の血を持つ者としての苦しみ。
大臣らがそれを理解しようとすることもなく、ただ国を守る力を得るためだけに次の代にも神の血を持つ者を王に望む。
そんな大臣らがリュシアンの考えを受け入れるはずがない。
イレールはリュシアンの立場がこれ以上悪くならないために、ある決意を密かに決めるのだった。
「とにかく世継ぎのことはまだ先のこと。まずはアンジェリーヌの件だけは承知しておいてもらいたい」
「兄上、俺は……!」
「ジャン、もう後戻りは出来ないのだ。すまないがしばらくの間我慢して欲しい。……イレール、二人には少し時間が必要だ。行くぞ」
リュシアンはイレールを促すと二人して部屋を出て行った。
残されたジャンとアンジェリーヌはお互いしばらく何も言えなかった。
アランテル王国の国王の妻、王妃になる。
それだけでもアンジェリーヌを戸惑わせるには充分だった。
リュシアンはああ言ったが、本当に一度は王妃になっておいて、その立場を捨ててジャンと一緒になれるのであろうか。
たとえ身は清らかなままだとしても、ジャンが一度は他人の妻となった自分を受け入れてくれるのだろうか。
リュシアンの言ったしばらくの間とは何年先のことなのだろうか。
もうどうすることも出来ない状態なのは分かっている。しかしアンジェリーヌはその現実をいまだ拒絶せずにはいられなかった。
夢であって欲しい。目が覚めれば夢だったと笑い飛ばしてしまいたい。
アンジェリーヌはじっと俯いて身動き一つ出来ずにいた。
「……アンジェリーヌ」
ジャンの重い声に、アンジェリーヌは肩をビクッと縮まらせた。
アンジェリーヌは恐る恐るジャンを見る。その顔は強張っていた。
彼から終わりの言葉を告げられるのではないかと思ったのだ。
ジャンもまた思い詰めた表情をしていた。
「何もかも捨てて俺についてくる覚悟、あるか?」
(それって……)
ジャンの言いたいことは分かった。だがアンジェリーヌは息を止めるほどの衝撃を受けていた。
「俺は何もかも……王子であることもこの国の人間であることも家族さえ失っても、お前だけは失いたくない。……お前はどうだ?」
アンジェリーヌの胸にジャンの心が痛いほど伝わってくる。
これほどに想われていて嬉しいと、幸せだと感じた。
しかしアンジェリーヌはすぐに返事が出来なかった。
今すぐにでもついて行きたい。何と引き換えにしてもいいほどジャンを愛している。
(でも私達が国外へ逃亡したら、この国は、陛下は、……私の家族はどうなってしまうの?)
ジャンはこの国にとって、リュシアンにとって掛け替えのない大切な存在。
リュシアン一人残し自分達だけ幸せになっていいのだろうか。自分達のために親身になってくれる彼を裏切ることは出来ないと、アンジェリーヌは思った。
それに国の決定に反したことで、家族にどれほど迷惑を掛けてしまうのだろうか。家族を不幸に陥れるような親不孝などしていいはずがない。
ジャンとの未来のために自分の過去と決別する覚悟は出来ていた。しかしそれは家族の未来にも支障がないから出来た覚悟だった。けれども今は違う。反逆者の家族となってしまったら、どんな未来が待っていることだろう。
「ジャン、………私」
ジャンについて行くことも残ることも選べないアンジェリーヌは、言葉を続けることが出来なかった。
ジャンにもアンジェリーヌの迷いがその表情から伝わってきていた。
「何も考えるな。周りのことは何も考えずに俺とのことだけ考えてくれ」
「でも陛下は……家族はどうなってしまうの? 皆を犠牲にしてしまったら、私達本当に幸せになんかなれないわ」
「じゃあ兄上の妻のなるのか? 兄上はああ言ったが、俺達が一緒になれる可能性は極めて低い。ずっと人目を忍んで逢うような仲で終わってしまうかもしれないんだぞ」
ジャンの言葉にアンジェリーヌは唇を噛み締める。
ジャン以外の男性との結婚を望んでいるわけなどない。
アンジェリーヌは思おうとする。初めに戻っただけなのだと。まだ彼にプロポーズされる前、彼と愛し合えるなら妻でなくていい、愛人でいいと思った時に戻っただけのことだと。
ジャンと想いを交わせるのならば、本来それだけで充分なことなのだ。それ以上望むのはやはり我が侭なのかもしれない。
それでも一度夢に見てしまったジャンとの結婚をなかったことにするのは、アンジェリーヌにはまだ出来なかった。夢を断ち切れずにいた。
「ジャン、……私に考える時間を下さい。一生のことだから今すぐ答えを出せない。ちゃんと自分の納得出来る結論を出したいの」
迷い続けながら言葉を発したアンジェリーヌの思いをジャンは受けとめる。
「分かった。……俺を選んでくれることを願ってるよ」
「ありがとう、ジャン」
迷ったままどちらかを選んでもきっと後悔する。
そう思ったアンジェリーヌは二本の道の一本、どちらへ足を向けるのかまだ見えぬ未来を思案しつつも、もう後ろを振り返ることは許されないのだと心に刻み付けるのだった。
ジャンを残し、アンジェリーヌはリュシアンの私室を退出した。
考えなければならない重大なことがあるのは分かっていた。しかしあまりに衝撃的なことばかりで、アンジェリーヌの心は正直掻き乱され、心の整理をつけようとすることでまだ一杯一杯だった。
(もっと心を落ち着かせてから考えなければ。私とジャン、その周りの人々の一生に関わることなのだから)
アンジェリーヌは回廊を歩いていた足を止め、一度深く呼吸した。
「アンジェリーヌ、少し話がある」
後ろから声を掛けられ驚いて振り返ると、イレールが普段より心なしか硬い表情で立っていた。
「イレール……様?」
あまり表に感情を出さないイレールの僅かばかりの変化が、アンジェリーヌの心に不安をよぎらせる。
イレールは立ち尽くすアンジェリーヌを促すと、宮殿内にある自分の利用している宰相の執務室へ招いた。
アンジェリーヌを部屋へ入れると、イレールは静かにその扉を閉じた。
振り返ったアンジェリーヌにイレールも向き直る。
「あの……お話って」
アンジェリーヌの握り合わせた手には力が入っていた。
(もうこれ以上何も起こらないで)
今でさえ受け止めきれない状態で更に何かあったとしたら、もう正気でいることも出来なくなってしまう気すらした。
イレールはアンジェリーヌの緊張している様を見つつも、厳しい眼差しで彼女の目の前に立った。
「アンジェリーヌ、そなたは真の意味で陛下の妻になって欲しい。……いや、なる以外もう手段がないのだ。ジャン殿下とのことはきっぱり諦めて欲しい」
(真の妻に……)
イレールの言葉が鋭くアンジェリーヌの胸に突き刺さる。
彼が何を言っているのか、その意味は分かっている。頭では分かってはいても心がそれを拒んでいた。
「陛下はそなたとジャン殿下を一緒にさせたいと思って今回あのようにおっしゃったが、王妃となった者の再婚など周りが許すはずがない。強引に陛下がそれを行えば、陛下と家臣との間に深い溝が生じてしまう。だからといってジャン殿下との密会を続けていたら、陛下と殿下の間に諍いが起こるやもしれない。そしてそれを利用しようとする貴族の輩も出るだろう。……アンジェリーヌ、ジャン殿下のことだ。きっと二人で国を捨てて駆け落ちする覚悟をもしていると思うが、もしそのような話があっても決して頷かないで欲しい」
アンジェリーヌは目を見開いてイレールを見つめた。
ジャンの考えなどイレールにはお見通しだったのだ。
イレールはアンジェリーヌの反応から、すでにジャンが彼女にそれを告げていたことを知る。
「……二人が駆け落ちしたらどうなるか、よく考えたのか?」
イレールの諭すような言葉に、アンジェリーヌは戸惑い、微かに首を横に振った。
イレールはフッと一息吐いた。
「まずブランシェス家は反逆者の家族としてその地位を剥奪。はっきり言って命の保障すら危ういだろう。陛下は王妃となる者に逃げられたことで今より更に立場が弱くなってしまう。そしてそなた達には反逆者として追手が掛かるだろう。捕まれば二人ともまず死罪だ。殿下もそなたも想いが成就すれば本望かもしれないが、後に残される陛下の気持ちも考えて欲しい。自らの手で親愛なる弟と愛する女性に裁きを下さなければならない……その気持ちを」
イレールの言葉を聞いているうちに、アンジェリーヌは事の重大さを思い知り青ざめた。
家族も愛する人も、愛する人の家族さえも不幸に陥れてしまう。
(ジャンはそれを知っていて私を選んでくれたというの?)
ジャンの激しく深い愛に、アンジェリーヌは彼の望む答えを分かっていながらも、それを選べなくなっていた。
「陛下はそなたを愛している。愛しているからこそ、そなたの幸せを願い、あのようなことを言ったのだ。自分のことは二の次で、そなたと殿下を幸せにするにはどうすればいいのか、それを第一に考えていらっしゃる。そんな心優しい陛下の妻となれば、そなたはきっと幸せになれるはず。陛下ならそなたを幸福で包み込んでくれるはずだ。だからどうか王妃に……陛下の妻になって欲しい。陛下と共にこの国を支えていって欲しいのだ」
イレールの告白はアンジェリーヌの心に追い討ちを掛けた。
初めて知るリュシアンの心。
(陛下が……私を?)
自分のどこがジャンだけでなくリュシアンまでも惹きつけたのか、アンジェリーヌには疑問だった。
下級貴族で絵を描くことしか取り柄がない。美しく着飾ることも品の良い振る舞いも出来ない。それなのに何故、と。
しかしイレールの告白が真実ならば、リュシアンは自分の立場を顧みず、愛する者の幸福を願ったことになる。
(もし本当なら、陛下はどんな思いで私との結婚を……私に触れないと言ったというの?)
アンジェリーヌの心がリュシアンの優しさと切ない胸の内に締め付けられた。
ジャンの熱く激しい愛。
リュシアンの穏やかな慈しみに満ちた愛。
二人の男性の愛の狭間で、アンジェリーヌは迷い揺れ動く己の心を自分ではどうすることも出来ず、ただ目の前のイレールを無言で見つめるのだった。