(7)
エドワール四世の死から二十日程が過ぎていた。
その間に国王の葬儀と新国王の即位式が執り行なわれた。
アンジェリーヌは国王が死んだその日から、一度もジャンと逢う時間を持てずにいた。
国を挙げての葬儀と即位式。
慌しい日々にジャンも自分の時間をほとんど持てずに過ごしていた。
アンジェリーヌはジャンに逢えないことを淋しいと思っていたわけではない。王族の背負う宿命に、ジャン達が辛い思いをしていないだろうかと案じていたのだ。
アンジェリーヌはジャン達を一瞬だけ垣間見ることが出来た。
リュシアンの、いや新国王シャルロ二世の即位式でのこと。宮殿のバルコニーにジャンとリュシアンが姿を見せた時だ。
大勢の人ごみの僅かな隙間から見え隠れする二人の姿をアンジェリーヌは必死に目で追った。
歓喜に湧く国民の声に答えるように、笑顔で手を挙げるシャルロ二世。その隣で兄を見守るジャン。
表に出さないようにしてはいるが、普段の二人を知るアンジェリーヌの目には彼らの疲れている様子が映っていた。
何か力になりたい。
そう思っても今は逢う時間すら持てないのが現実だった。
一方無事即位式を済ませた宮廷では一つの事が大臣達の間で話し合われていた。
新国王の妻、王妃に誰を迎えるか―――だ。
「タグネット王国の王女はどうですか? 歳も陛下とつりあっていますし」
「いや、陛下には公爵の娘がよいのでは? 陛下のご生母は他国の貴族の方。アランテルとの絆を確固たるものにするためにも公爵の娘から選んでみてはいかがでしょう?」
「陛下はこのアランテルの方。国との絆はもはや確かめなくとも心配ないのでは?」
「そうだ。それよりも他国の王族から王妃を迎えた方がよい。その方が何かと国のためにもなるはずだ」
大臣達の討論は続いていた。
その中にイレールの姿もあった。彼は父ギョームの隣に座っていた。この問題が解決したら、ギョームはイレールに宰相を譲ろうと決めていた。
イレールは席の一番端に座るマルシーナ伯爵をチラッと見る。
(この様子ではあの男は口を挟めまい)
リュシアンはアンジェリーヌ以外の女性なら誰とでも結婚する決意をしていた。
今もしマルシーナ伯爵がアンジェリーヌのことを言い出せば、リュシアンの願いが危ういものとなる。
だが気の弱いマルシーナ伯爵がこの状況で意見出来るとはイレールには思えなかった。
いっこうに話の結論がつかない状態が続いていた。
すると伯爵の一人がそれまで無言だった一人の男に話を向ける。
「カロンヌ公爵はどのようにお考えですか?」
その声に一斉にカロンヌ公爵に視線が集まった。
―――グレゴワール・レ・カロンヌ。
十五代国王を祖父に持ち、先々代の十六代国王の弟を父に持つ、王族に最も近い血筋の公爵家の家長。アランテル国民ならば知らぬ者はいない貴族中の大貴族だ。彼の言動は国王に匹敵するほどの影響力があった。
カロンヌ公爵は表情を少しも崩さず、落ち着き払った態度で自分の意見を語り出す。
「私はやはり国王の血筋を考えると、少しでも王家に近い血を……と思う。皆が知っている通り、私は元々長子の神の血より正妃の子の王子を国王にすべきと思っていたからな。だが国が定めた規則なのだからそれは仕方のないことだが、だからこそせめて王妃は公爵家から出した方がよいと思う。まあもし……」
カロンヌ公爵は少し嘲るような笑みを浮かべた。
「もし紅の女神がいるのであれば話は別だがな。もっともそんな存在が本当にいるのかどうか、神の血の力があるのかどうかですら、今生きている者は誰も知らぬことだ」
彼はこの世に紅の女神など存在しないとでもいうような口調で言った。
紅の女神という言葉が出たことに、イレールはこれ以上話を伸ばすのは良くないと思った。
「父上、カロンヌ公爵もあのように言っておいでなのですから、王妃は公爵家のご息女ということでいいですね?」
「……そうだな」
まとまり掛けたその時。
「あ…あのう」
遠慮しがちに俯いていたマルシーナ伯爵が言葉を発した。
イレールはまずい……と思った。マルシーナ伯爵の口を閉ざそうと彼を睨みつける。
だがマルシーナ伯爵は震えながらも口を開いた。
「イレール殿、私はやはり黙っていることは出来ません。シャルロ二世陛下の妃には紅の女神がなるべきです」
イレールを恐れの眼差しで見ながら、マルシーナ伯爵は一気に言い放った。
マルシーナ伯爵の発言に周りがどよめく。
「紅の女神がいるというのか!?」
「イレール殿は前からご存知だったのか!?」
イレールは唇を噛み締めた。
リュシアンに口止めされた上、多数の大臣の前で発言できるような男ではないと判断していた。
だが彼は紅の女神の存在を黙って見過すことこそ神の意に沿わぬことだと恐れを抱いた。カロンヌ公爵の発言がそれを後押ししたのだ。
イレールは彼のその心理を見抜けなかったことを悔やんだ。
「イレール、本当か?」
ギョームの鋭い眼差しに、イレールは誤魔化そうにも、いつものように父には見抜かれてしまうと感じて頷いた。
「それは誰だ?」
「宮廷画家ブランシェス男爵の娘アンジェリーヌです。ですが彼女は既にジャン殿下の婚約者。もうすぐ王家の一員になる身です。前国王の許しも頂いています。必要な時は陛下を助けると陛下と約束も交わしています。もしジャン殿下の熱望される彼女を妃に選んだら、それこそジャン殿下と陛下との間で諍いが起きることになります。ですからアンジェリーヌだけは妃の候補から外して頂きたい」
イレールは言った後、大臣達を見渡した。
(納得……するか?)
だがイレールは感じていた。状況が厳しいことを。
「前国王はアンジェリーヌが紅の女神と知っていて、ジャン殿下との結婚を承諾したのか?」
口を開いたのはギョームだった。
「いえ前国王はご存知ありませんでした。アンジェリーヌが紅の女神だと分かったのは前国王の許しを頂いた直後です。マルシーナ伯爵が目撃したのは初めて陛下の神の力が現れた時のこと。そこに居合わせた女性がアンジェリーヌだけだったことで、紅の女神が彼女と分かったのです」
「前国王が紅の女神を知らなかったのなら、その婚約はなしにすべきだ」
一人の大臣が発した言葉を機に、大臣達がざわめき出す。
紅の女神であるアンジェリーヌを妃に。
話は一気にその方向へ流れ出した。
イレールが一番不安に思っていたことが起こってしまった。
リュシアン達は大臣達の紅の女神に対する意識を軽く見ていたのだろう。
奇跡的な出逢いがなければ神の血の力は無いに等しい。そしてその神の血の力を手に入れたのなら、何を犠牲にしようと国を守るために手放す真似は決してしない。
紅の女神を王妃という檻に閉じ込めてしまうことで、それを成し遂げようとしているのだ。大臣達にとって紅の女神は王家の一員という立場だけでなく、王妃として存在することに意義があるのだ。
「男爵の娘をどうやって王妃に迎えるのだ?」
イレールの思いとは裏腹に、どんどん話は進んでいってしまっていた。
「確かに男爵程度の身分で王妃となると民衆も納得すまい」
「……では一度公爵の養女にしてから嫁がせるという手はいかがでしょう?」
「おお、その手段があったか!」
イレールはどうにかして大臣達の考えを変えようと思うが方法が見つからない。
つい少し前まで互いに意見を譲らなかった大臣達が、今は一致団結して語り合っている。もはや紅の女神を妃にする以外のことは皆眼中になかった。
「イレール、お前が陛下とジャン殿下を説得しなさい。幼い頃から共に過ごしてきたお前の口から伝えた方が、お二人とも納得せざるを得ないだろう」
「父上、陛下はともかくあのジャン殿下を説得できるとお思いですか!? 殿下の気性は父上もご存知のはずです。アンジェリーヌを妻に出来ないとなれば殿下は彼女を連れ去るか、もしかしたら王家へ復讐するかもしれませんよ!」
「お前なら出来る筈だ」
ギョームのはっきり断言した言葉に、イレールはもう後戻り出来ないことを悟ったのだった。
* * *
「陛下、まずいことになりました」
イレールはその足でリュシアンのいる政務の間に向かい、重々しい口を開いた。
リュシアンは書類に目を通すのを止めイレールを見る。リュシアンの目にはイレールの姿が心なしか青ざめている様にも見えた。
「……何かあったのか?」
深刻な話であることに違いない。
リュシアンもまた自然と声が低くなった。
「陛下の妃が……アンジェリーヌに決まりました」
彼女の名を聞いたとたん、リュシアンは机を叩いて立ち上がった。
「どういうことだイレール!? 私はアンジェリーヌ以外でと言ったではないか!!」
「申し訳ございません。私の考えが浅はかでした。よもやマルシーナ伯爵があの場で発言するとは……。マルシーナ伯爵の発言で紅の女神を妃に……と決まってしまいました。私一人の力では大臣達を説き伏すことが出来ませんでした。申し訳ございません」
リュシアンが歩き出す。
「どこへ行かれます?」
「私が大臣達に直接断ってくる」
普段は物静かなリュシアンが強い口調で言った。
「なりません!」
イレールはリュシアンの前に立ちはだかる。
「今のあなた様の立場は国王とはいえまだその地位に就いて間もない身。重臣達に意見すれば宮廷内に多くの敵を作ることになります。そうなれば政務もやり辛くなりますし、第一陛下のお立場を更に弱くするでしょう。陛下はただでさえ御生母の事で肩身の狭い思いをされていますのに、これ以上家臣との隔たりを広げるようなことをなさってはいけません!」
「ではどうしろというのだ!」
「アンジェリーヌを妻に……王妃になさいませ」
「………何?」
リュシアンは眉をひそめた。
イレールからこの言葉を告げられるとは思ってもみなかったのだ。
「もはや紅の女神を王妃にする以外、大臣達を納得させる術はございません。ジャン殿下のことは私が何とか説得致します」
イレールが言うのだから本当にもうそれしか方法がないのだろうとリュシアンは思うが、弟を、そして想いを寄せるアンジェリーヌの幸せを願っていたリュシアンの心は、それでも何か手段があるのではないかと模索せずにはいられなかった。
「……私には出来ぬ。あの二人は本当に愛し合っている。それを引き裂くことなど私には出来ぬ!」
リュシアンの苦しく吐き出すような言葉に、イレールはなおも告げる。
「陛下のお優しさは私も重々知っております。その上で申し上げます。アンジェリーヌを陛下の妻に。……陛下ならアンジェリーヌを幸せに出来ます」
イレールの言葉に、リュシアンは彼の見据えるような眼差しを見返す。
アンジェリーヌを幸せに出来る。
イレールが何故そう断言できるのか、疑問の瞳を彼に投げかけていた。
「幼き頃よりお仕えしてきた私に、陛下のお心が見抜けないとお思いですか? ……陛下もまた、殿下と同様にアンジェリーヌに心を奪われておいでなのは分かっております。陛下のその想いがあれば、アンジェリーヌの心を満たしてやれるはずです」
イレールに心を見抜かれていたと知ったリュシアンは、改めて彼の洞察力に脱帽する。そしてその彼の言う通り、アンジェリーヌを王妃にする以外方法がないことを認めるしかなかった。
「国王とはいえ、……無力なものだな」
今の自分には臣下を一蹴する力などない。臣下に支えられて国王の地位にいるのだ。
神の血を持っていなければ。
彼女が紅の女神でなかったら。
母の身分がもっと高貴であったならば。
思えば思うほど、力のなさを痛感する。
アンジェリーヌの翼をもぐことになってしまったリュシアンは、己に対して憤りさえ抱いた。
「自分の力をお悔やみであれば立派な国王になって下さい。陛下が力をつければ臣下もおのずとついて参ります。私も陛下の手足となりお助け致します。もう二度と陛下が辛い決断をせずに済みますよう尽くします」
イレールの言葉にリュシアンは黙って頷いた。
自分達が強くなるしかない。臣下に文句の一つも言わせないよう、国を正しき道へ動かせるようにならなければならない。
それは決して独裁政治にするという意味ではない。
反対する者がでないような政策を打ち出していくということ。誰もが認める方法で国を導いていくということだ。
誰かの不幸の上に成り立つ平和など本当の平和とはいえない。不幸に陥れられたその者にだけ平和が訪れないようなことがあってはならない。
理想論かもしれない。けれども理想に近づこうとすることは決して無駄ではないのだ。
リュシアンはアンジェリーヌの身に起こった不幸を、このまま不幸で終わらせまいと心に誓った。
「では私はこれからジャン殿下を説得して参ります」
イレールが踵を返す。
「待てイレール」
リュシアンが呼び止めた。
「ジャンには私の口から言う。……ジャンとアンジェリーヌ、二人を私の許へ呼んでくれ」
イレールが意外そうな表情をリュシアンに向けた。
「私がジャンを説得する。……私から言わなければならない。アンジェリーヌを妻とする私の口から言うべきだ」
リュシアンの決意にイレールは彼に任せることを承諾し、自分は補佐に回ろうと思った。
静まり返った部屋は、嵐の前の静けさを漂わせていた。