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(3)

 モンシェルジュリーの森の湖には小さな滝がある。


 三メートル程の低い段差から降り注いでくる水は水浴びをするには調度よいものだ。


 アルフレード、いやジャンは時々そこで水浴びをする。今日も彼はそこにいた。


「アンジェリーヌ、今日は遅かったな」


 アンジェリーヌが来たことに気づいたジャンは、彼女に向かって片手を上げ自分の居場所を知らせる。


 アンジェリーヌも手を上げそれに応えた。


 だがいつもの元気はなかった。


 遅くなったのは別に用事があったからではない。行くかどうか直前まで迷い続けていたからだった。


『王族だからもう逢えないなどと思わないで欲しい』


 リュシアンの言葉を何度も繰り返し思い浮かべた。


 しかしアンジェリーヌにとって王族は別世界の存在。


 逢えるわけがない。もう逢わない方が互いのためだと何度も思った。


 それでも森へ来たのは、もしかしたら人違いかもしれないと思ったからだ。


 リュシアンの話を信じていないわけではない。万が一という一縷の望みを捨て切れなかったのだ。


 アンジェリーヌはほとりからジャンを見つめる。


 彼のいつもと変わらない様子からすると、恐らくリュシアンから話は聞いていないのだろう。


(アルフレードが本当の名前だったら……。ジャンという名ではなかったら……、王族ではなかったら……)


 アンジェリーヌはもしかしたらという僅かな期待を抱く。


 でもどう確かめたらいいのか分からない。


 直接聞く勇気もない


 面と向かって肯定されるのが怖かった。


 アンジェリーヌは傍に脱ぎ捨てられてあるジャンの服を手に取り、そっとたたみ始める。


 上質な服。王族ならば当たり前の衣装。


(……間違いであって欲しい)


 王族でない証拠を探そうとするたび、それを肯定する物ばかりが目に付いてしまう。


 アンジェリーヌは剣を手にした。


 彼がいつも持ち歩いている物だ。


 鞘の細工もアンジェリーヌが今まで目にしたもののどれよりも細かく丁寧な物である。かなり腕の立つ細工師の手によるものなのだろう。


 アンジェリーヌは深呼吸した後、目を閉じ、震える手で剣をそっと鞘から抜く。


 アンジェリーヌは剣のあることに気づいた。


 貴族が持ち歩いている自分専用の剣には、通常剣身の付け根の金属部分に家紋が彫られているのだ。


 アンジェリーヌは祈る気持ちで目を開けた。


(………っ!)


 アンジェリーヌは言葉を失った。


 彫られていたのは鷹に二本の剣が組み合わさった紋章。


 ―――王家の紋章だった。


「アンジェリーヌ、どうした?」


 ジャンが湖から上がってアンジェリーヌに声を掛けた。


 一縷の望みを打ち砕かれたアンジェリーヌにはジャンの声が届いていなかった。


 アンジェリーヌはもはや疑う余地のない現実に愕然としてしまっていた。


 彼女の座っている足元には、鞘から抜けかかったジャンの剣が転がっている。


 ジャンはアンジェリーヌの様子が気になりながらも、手早く服を着た。


「アンジェリーヌ?」


 ジャンは身動き一つしない彼女の肩に手を掛け呼びかけるが、やはり反応がない。


 ジャンの目に剣が映る。


 抜けかかった剣に見える王家の紋章。


 ジャンはようやくアンジェリーヌが何を知り動けなくなってしまったのかを悟った。


 ジャンは剣を拾い、自分の腰に挿す。


 アンジェリーヌは自分の視界から消えた剣を探すように視線を動かすと、神妙な面持ちで立っているジャンと目が合った。


「ジャン……殿…下」


 恋をしてはいけない相手。


 実るはずのない恋の相手。


(もう逢ってはいけない!)


 アンジェリーヌは胸に痛みを抱えたまま、ジャンの前から逃げ出すように走り出した。


「アンジェリーヌ!!」


 急に逃げ去ろうとした彼女に、ジャンは叫び追いかける。


 男性の、しかも軍神のようなジャンの足に叶うはずもなく、アンジェリーヌはすぐさま追いつかれてしまう。


 ジャンはアンジェリーヌの片方の二の腕を掴んで引き寄せた。


 アンジェリーヌは嫌がおうでもジャンの方を向いてしまい、引かれた勢いでそのまま彼の胸に飛び込む形になってしまった。


 アンジェリーヌはすぐさま身を起こし逃げようとするが、その前に素早くジャンの腕によって抱き締められてしまった。


「は、離して下さい!」


 アンジェリーヌは取り乱れていた。


 心に強く残るジャンへの想い。決して実るはずのない恋。


 その苦しみから逃れたいのに、こうして引き止められてしまう。


 アンジェリーヌの瞳からは涙がいく粒も零れ落ちていた。


「離し……て…下……さい」


 アンジェリーヌはジャンの胸の中で泣き崩れた。


 ジャンはアンジェリーヌを抱いたまま、その場に座り込む。


「私のことは……忘れてください。……今までのこと……なかったことに……して……下さい」


 アンジェリーヌの弱々しい涙声に、ジャンは彼女を抱く腕にさらに力を込める。


「俺は一人の人間としてお前を愛した。それだけだ」


「でも身分が違いすぎます。あなたは王族。私は……私……は……」


 アンジェリーヌはジャンの顔を見ることが出来なかった。


「俺に畏まらなくていい。身分なんて気にする必要ない。どのみち俺の血筋は次の代には王族を離れ公爵になるんだしな」


 確かに王を継がなかった王子の子供は王族ではなく貴族の公爵を名乗ることになるのが仕来り。


「でも今のあなたは紛れもなくこの国の第二王子。もし万が一王太子殿下に何かあった時はあなたが王位を継ぐ宿命。そのような方ともうお逢いしていいはずがありません」


「アンジェリーヌ、俺に敬語を使うな」


 ジャンは決して自分の顔を見ようとしないアンジェリーヌの髪に顔を埋めた。


「俺は確かに第二王子だが王位継承順位は三番目。まず王位が回ってくることはない」


「なぜ三番目なのです? 第二王子なのに……」


「まあ聞け。……俺と兄のリュシアンの母は正妻ではなく愛人だったんだ。正妻の子は第三王子のカミーユただ一人。本当は血筋からいってカミーユが王太子なんだが、とある理由で長男が王太子ってことになっている。血筋はどうでもね。……で次からは歳よりも血筋で順番が決まるってわけさ」


 それでも王子であることには変わらない。


 アンジェリーヌはジャンの話を聞いてもなお、もう逢うべきではないという思いを翻さなかった。


(あの頃に戻りたい。ただ毎日絵を描いて過ごしていた出逢う前の日々に……戻りたい)


 ジャンと出逢う前、恋をする前に時が戻って欲しい。


 アンジェリーヌはジャンの胸の中で声を押し殺すようにして再び泣き始めた。


(この恋を忘れるにはどうしたらいいの?)


 なす術のない胸の苦しみに、アンジェリーヌはただ涙を流すしかなかった。


「……アンジェリーヌ」


 ジャンは腕を解くと、アンジェリーヌの頬を両手で包み強引に自分の方へ向けた。


 アンジェリーヌは彼の放つ瞳の力に逃れる術を失って見つめるしかなかった。


「俺はたとえお前が平民でも敵国の者だとしてもお前を愛し続ける。俺の一生を懸けて愛し抜く。……お前に聞きたい。王族や貴族の身分は考えずに一人の男としての俺をどう思っている? きちんとお前の本心を聞かせてくれ!」


 アンジェリーヌを真っ直ぐに貫くジャンの瞳。


 その瞳に魅入られたアンジェリーヌの瞳からは涙が溢れ頬を伝って流れ落ちていった。


 真剣なジャンの瞳を前に、どうして彼への想いを隠すことができよう。


「愛……して…います」


 アンジェリーヌが震えながらも言葉にしたのは、紛れもない彼女の心だった。


 アンジェリーヌは嘘を口にする事が出来なかった。


 もう後のことなど何も考えられなかった。


 ―――ジャンを一人の男性として愛している。


 ただその真実があるだけ。


 ジャンはやっとアンジェリーヌが心を開いてくれたことに安堵したように笑みを浮かべそっと彼女に接吻した。


「その一言が聞きたかった。その一言があればもう恐れるものなど何もない」


 ジャンはアンジェリーヌを抱き締め、はっきり告げた。


 これでよかったのかどうかアンジェリーヌには分からない。ただ自分にもそしてジャンに対しても想いを偽ることが出来なかった。


 アンジェリーヌはしばらくジャンの温もりに浸っていた。


「アンジェリーヌ」


 彼女の耳元でジャンは彼女の名を愛しそうに囁いた。


「結婚しよう」


 ジャンの思いがけない一言に、アンジェリーヌは驚いて預けていた体を起こした。


「何て顔をしているんだ。意外なことでもないだろう?」


「いくらなんでも無理……」


「無理ではないさ」


 あまりに堂々としているジャンに、アンジェリーヌは戸惑いを隠しきれない。


 愛している。


 愛されている。


 それだけでアンジェリーヌは充分だった。身分を考えれば充分過ぎるほどだった。


 この先たとえ愛人という存在になってしまっても構わない。ジャンが愛してさえくれれば他に何も望まない。


 ジャンの想いを受け入れたアンジェリーヌは漠然とだがそう思っていた。


 アンジェリーヌは俯いた。


「無理よ。……公に結婚するなんて、そんなこと国が許すはずないわ」


「俺が国王を説得する。もしどうしても許しをもらえないようなら、俺が王家を出る」


 ジャンのとんでもない決意に、アンジェリーヌは彼を凝視する。


 よもやジャンが王家を捨てようとしているとは思ってもみなかった。


(そんなこと、させられないわ)


「私のために王家を出るだなんて、そんなことしないで。私は今のままで充分幸せだから」


 思い留まらせようと縋るように見つめてくるアンジェリーヌに、ジャンは首を横に振る。


「俺がお前を妻にしたいんだ。お前と結婚できないようなら、他の誰とも結婚しない。一生一人身の方がマシだ。お前と一緒になれないのなら王家に何の未練もないさ」


「ジャン……殿下」


 アンジェリーヌはジャンの決意に胸を打たれ呟いた。


 ジャンが苦笑する。


「殿下はやめてくれ。ジャンでいい」


「でもあなたは王子……」


「身分のことは口にするな。お前の前では一人の男でいさせてくれ」


 アンジェリーヌは真っ直ぐに想いをぶつけてくるジャンに、自分も同じように応えていきたいと思い始めていた。


 このまますんなり事が進むはずがない。だがジャンだけでなく、彼と一緒になって自分も困難に立ち向かって行こうとアンジェリーヌは思うようになっていた。


「アンジェリーヌ、もう一度改めて申し込む。俺の妻になって欲しい」


 ジャンの再度のプロポーズに、アンジェリーヌは今度は深く頷いた。


「はい、ジャン。私のただ一人の……夫」


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