(2)
それからというもの二人は互いの都合のいい日があると、決まってモンシェルジュリーの森の湖のほとりで逢っていた。
いつも束の間の短い時間でしかないが、そのひとときを過ごすことを二人は心待ちにしていた。
もう改めて想いを口にするまでもなく、惹かれ合っていることを互いが感じ取っていた。
アンジェリーヌは今まで湖へ来るのは絵を描くのが第一の目的だった。
しかし今では絵を描くためというより、アルフレードに逢うために変わっていた。
絵を描いていないわけではない。
アルフレードに逢う前と逢った後、絵は描いている。
だが以前よりは描き上げるペースが落ちていた。
ロドリグもアンジェリーヌの異変に絵を通してそれとなく察していた。
以前のアンジェリーヌの絵とは違う、感情がさらに豊かになった絵。
異性を愛しその想いがほとばしるような、見るものの胸にすら誰かを愛したいと思わせる。それが今のアンジェリーヌの絵である。
アンジェリーヌはいつしか胸の石のことをアルフレードになら話してもいいと思うようになっていた。そしてロドリグも娘の前にその存在が現れたことを漠然と感じ取っていた。
今日もアンジェリーヌとアルフレードは湖で逢っていた。
もう何も相手に気を遣う必要のない二人は、木漏れ日を浴びながらひとときの時間がもたらす幸福に身を委ねていた。
アルフレードはアンジェリーヌの膝枕で寝息をたてて昼寝をしている。
休息中の軍神の眠りを守るように、アンジェリーヌは満ち足りた顔をして眠る彼の表情を見つめていた。
何をするわけでもない。ただアルフレードがここにいてくれる。それだけでアンジェリーヌは幸せになれた。
「………んっ」
アルフレードが目を覚まそうとしている。
アンジェリーヌはそっと彼の髪を撫でた。
瞳を開けたアルフレードは、何度か瞬きをした後アンジェリーヌを見つめ、胸を撫で下ろしたように笑った。
「いつの間にか眠ってたんだな」
「おはよう。……時間、まだよかった?」
「ああ。今日は夜に用があるくらいだから」
「よかった」
アンジェリーヌは安心して息を吐いた。
あまりに気持ちよさそうに眠っているアルフレードを無理に起こすのは忍びなかった。
しかしもし何か用事があったとしたら、彼は寝過ごしたことになってしまう。
アンジェリーヌはそれを心配していたのだ。
「アンジェリーヌ」
アンジェリーヌを見つめていたアルフレードが不意に彼女の名を呼んだ。
呼びかけに応じアンジェリーヌが声を出そうとした時、アルフレードの片手が彼女の首筋に伸びてきた。と同時にアルフレードが身を起こし、アンジェリーヌの頭を後頭部から引き寄せた。
アルフレードの唇がアンジェリーヌのそれに優しく触れる。
一瞬の出来事にアンジェリーヌはされるがまま、ただ目を見開くばかりだった。
アルフレードは完全に体を起こすと、驚いて固まっているアンジェリーヌの頬にそっと触れた。
「初めて……だったんだな。キスの時は目を閉じるもんだぜ」
初々しい反応を返してきたアンジェリーヌに、アルフレードはさらに愛しさを募らせた。
アンジェリーヌは気恥ずかしさから俯きそうになる。
「アンジェリーヌ、……俺を見て」
アルフレードの囁きかけてくる声に、アンジェリーヌは抵抗する術もなく言われるがままに彼を見つめた。
泣きそうになるくらい、アンジェリーヌの胸の内はアルフレードへの想いで溢れていた。
アルフレードがアンジェリーヌの肩を引き寄せる。
思わず体を固めるアンジェリーヌの緊張を解すように、アルフレードが彼女の額や瞼に優しく口付けていく。
アンジェリーヌは次にアルフレードと目を合わせた時、自然と瞳を閉じた。
それに応えアルフレードはもう一度、今度は想いを確かめ合うかのように長い口付けをした。
二人は思った。
ずっと二人の生がある限り、永遠にこの想いは、この幸福は終わりはしない……と。
* * *
「アンジェリーヌ、出掛けるから準備しなさい。きちんと正装するのだぞ」
朝食後、ロドリグが言った。
「正装? どこに出掛けるの?」
一応貴族なのだから舞踏会や祝宴に出席できるようなドレスは、身だしなみ程度には持っている。
だがこの前袖を通したのは一体何ヶ月前のことだろうか。
アンジェリーヌにはそれほど縁のない服装だ。
「宮殿だ。仕事の依頼があって呼ばれたんだよ」
「でもどうして私もなの? いつもお父様一人か一緒に行くのは弟子の人達でしょう?」
「……アンジェリーヌ、私はお前を後継ぎにと思っている。だからこれからはお前を連れて行く」
ロドリグの言葉に、アンジェリーヌは一瞬彼の言葉の意味を理解できなかった。
分かったと同時に事の重大さにも気づく。
「何を言ってるの、お父様! お父様には何人もお弟子さんがいるじゃない。それなのに何故私なの? 私は女よ。家を継ぐのは普通男の人のはずでしょう!?」
ロドリグは厳しい瞳でアンジェリーヌを見つめた。
「性別も血筋も関係ない。私はただお前の絵の才能を認めたから後継者にしたいのだ」
ロドリグの決意を知ったアンジェリーヌには、戸惑う気持ちの方が大きかった。
父親に自分の絵を認めてもらえたのは嬉しい。だがブランシェス家の後継者になる責任の重さを突き付けられ、それを簡単に受け入れられずにいた。
女の自分には無縁と思っていたブランシェス家の後継ぎ問題。
代々王家の肖像画を手懸けてきたその重圧を、アンジェリーヌは今初めて感じた気がした。
「私がブランシェス家を……継ぐの?」
アンジェリーヌは半信半疑の呟きを漏らした。
「アンジェリーヌ、今すぐ自覚を持てというのは無理なことだろう。これから少しずつ私の傍で学んでいきなさい。宮殿へ行くのも一つの勉強だ。あそこにはいくつも我が一族が描いてきた絵が残されている。それを見ることもお前のためになるだろう」
一族の築いてきたものの重さがロドリグの言葉からヒシヒシと伝わってきた。
アンジェリーヌはもはや後継者という道から反れるのを許されなくなったことを、漠然と感じ取ることで今は精一杯だった。
* * *
アンジェリーヌはホッと息を吐き、緊張の糸を解す。
今は宮殿の中心部、王宮の中にいる。
つい先程アンジェリーヌは生まれて初めてアランテルの国王、エドワール四世と対面したばかりだ。
ロドリグはエドワール四世から直々に絵を依頼された。
離宮を一軒建てたが、その中を彩る絵画を頼まれたのだ。
ロドリグは丁重に引き受けるとともに、自分の後継者としてアンジェリーヌをエドワール四世に紹介した。
ロドリグが娘を後継者に選んだと知ったエドワール四世は、ロドリグが娘可愛さで後継者にするような人物ではないということは分かっていた。
仕事熱心で厳しいロドリグが選んだ者なら間違いはないはずと確信があったから、エドワール四世はあえて何も反対しなかった。
アンジェリーヌの方はただ国王の威厳の畏れ多さに無言で父の後ろに控えているのがやっとだった。
ロドリグとエドワール四世の会話も覚えていないほどアンジェリーヌは緊張してしまっていたのだ。
謁見の間を出てやっとその緊張も徐々に治まっていく。
ロドリグは宮殿へ来た機会にアンジェリーヌに宮廷内を案内する。
天井を彩る絵も昔ブランシェス家が手懸けたものだとロドリグは教える。
代々王家の肖像画は当代を除いては肖像画の間に入れられて見ることは叶わなかったが、宮廷のあちこちに飾られていた絵画はアンジェリーヌにも感嘆の溜息をつかせた。
そして改めて宮廷画家として存在してきたブランシェス家の重みを感じずにはいられなかった。
(本当に私が……引き継ぐの? ……継げるの?)
今のアンジェリーヌにはその自信などあるはずもなかった。
アンジェリーヌはロドリグの後ろをついて歩きながら、先祖の描いた数々の絵に圧倒されるばかりだった。
ふとロドリグが急に立ち止まった。
それに気づいたアンジェリーヌもロドリグにぶつかる一歩手前で止まる。
ロドリグは前から歩いてくる人物に道を譲るようにして脇にずれ、丁寧に敬意を込めて頭を下げた。
それを見たアンジェリーヌもロドリグと同じようにお辞儀しようとした時、その前からやってきた人物を見て思わず声を上げる。
「アルフレード!? どうしてここに?」
いつもモンシェルジュリーの森で逢う彼と思わぬところで再会しアンジェリーヌは驚いた。
「アンジェリーヌ、控えなさい! 王族にむやみに私達の方から声を掛けることは礼儀に反するのだぞ」
「王……族?」
「そうだ。それにこの方はアルフレードという名ではない。この方はリュシアン王太子殿下だ」
ロドリグに叱咤されアンジェリーヌは茫然となる。
(アルフレードが王族? ……王太子殿下?)
アンジェリーヌの頭の中は混乱していた。
「ブランシェス男爵、もうよい」
リュシアンはロドリグを宥めるとアンジェリーヌをじっと見つめてきた。
彼を思わず見つめ返したアンジェリーヌはあることに気づく。
額飾りに振りかかる栗色の髪はアルフレードと同じ色だか、彼のはアルフレードのくせのある髪と違い真っ直ぐで幾分アルフレードより長かった。
そしてはっきりした違いは瞳の色。
アルフレードは右が灰色、左が琥珀色だった。だが今この目の前にいる者の瞳は右が琥珀色、左が灰色だったのだ。
醸し出す雰囲気は、軍神と思ったアルフレードに対して、この者はすべてを統べる全能神の神々しさを放っていた。
(アルフレードじゃ……ない)
顔の創り・姿はアルフレードそのものなのに、よく見ると別人だったのだ。
「アンジェリーヌと申したな」
リュシアンは茫然と立ち尽くしているアンジェリーヌに声を掛けた。
「私はこの国の王太子、リュシアン・ジュリオ・デュ・シャルロ・サンルブランだ」
「は、はい。失礼しました。人違いをしてしまいました」
アンジェリーヌは声を掛けられ、我に返り頭を下げた。
「いや、……あながち人違いではないのだよ」
リュシアンの優しい言葉にアンジェリーヌは思わずまたリュシアンを直視する。
言葉の意味が理解できずにいるアンジェリーヌを諭すように、リュシアンは穏やかに彼女を見た。
「アルフレードは私の双子の弟なのだよ」
「双子の……弟?」
「そう」
アンジェリーヌは消化しきれない頭の中で色々考える。
アランテル王国には三人の王子がいる。その一人目と二人目が双子。それは国民なら誰でも知っていることだ。
だがアンジェリーヌはその名を王太子がリュシアン、第二王子がジャンと聞いていた。
アルフレードという名ではない。
「でもアルフレードはリジェーロ王国の子爵の血筋と言っていました。王族などと一言も……」
信じられない思いでアンジェリーヌは呟いた。
「私達の母はリジェーロの子爵の娘だったそうだよ。私達が三歳の時病死してしまって、母の記憶はほとんどないけれどね。アルフレードの本当の名はジャン。ジャン・アルフレード・ドゥ・サンルブラン。私のジュリオという名もジャンのアルフレードという名も、母方のリジェーロ人としての名前だよ」
リュシアンの告白に、アンジェリーヌは腰が抜けるようにしてその場に座り込んでしまった。
(アルフレードの名はジャン。ジャン・アルフレード・ドゥ・サンルブラン。……この国の第二王子)
今まで普通に逢い話し、そして恋をした相手が雲の上の人物だと突き付けられ、アンジェリーヌは自分の想いの持っていく場所を失い、闇の中にさ迷ってしまった気がした。
リュシアンはアンジェリーヌに手を差し伸べ、ショックを隠しきれない彼女を力づけるように見つめる。
「弟はきっとそなたと対等でいたかったのだろう。もし本当の身分を明かせば、そなたはきっと逢ってくれなくなる。そう思ったからそなたには素性を隠したのだと私は思っている。弟はそうまでしてそなたに逢いたかった。……弟は私と違ってまだ自由のある身。そなたとのこともきっと悪いようにはしないはずだよ。弟の真っ直ぐな気性がきっと身分の差を何とかしてくれるから。だからそなたも弟が王族だからもう逢えないなどと思わないで欲しい」
リュシアンの励ます言葉は嬉しかった。
だが今まで通り何もなかったかのようにアルフレード、いやジャンに逢えるはずはなかった。
自分は貴族といえど貴族の中でも最下級。
ジャンは貴族の上の王族。
身分を忘れて逢えるわけがない。
リュシアンは落胆の色を隠しきれないアンジェリーヌに心残りな思いを抱いたまま去って行った。
(澄んだ真っ直ぐな瞳をしたいい娘だったな。あの娘はきっと翼を広げてどんな所へも飛び立って行ける子だろう)
リュシアンは胸の中で呟いた。
自分は王太子という名の籠の中の鳥。アンジェリーヌの持つ翼がリュシアンには羨ましかった。
出逢った瞬間に自分を真っ直ぐ見つめてきた少女。彼女の持つ内に秘めた可能性が、リュシアンの瞳には眩しく映ったのだった。