(19)
「兄上、アンジェリーヌは?」
息を切らしジャンが部屋に姿を現した。
「ジャンか。……こちらへ来なさい」
リュシアンはジャンをアンジェリーヌの枕元へと促す。
「…………アンジェリーヌ」
ジャンは彼女の名を呟いた。浅い呼吸を苦しそうに繰り返している痛々しい姿に胸が締め付けられた。
皆ただ彼女を見守ることしか出来なかった。
だが再び奇跡は起きた。彼女が目を開けたのだ。
「アンジェリーヌ!」
アンジェリーヌは今の状態を確かめるように瞬きを数回繰り返した。
「リュシアン…ジャン……フレデリック」
覗き込む三人の顔を見つめ呟いた。
アンジェリーヌは知る。生きていたことを。だが残された時間は僅かだということを。
「アンジェリーヌ、ジャンと二人だけにしてあげるから心のままに彼に想いを伝えなさい。もうそなたは王妃というしがらみから解き放たれたのだ。一人の女性に戻っていいのだよ。……さあ皆退出しなさい」
リュシアンはそう彼女に告げると皆を促した。
「兄上、何故俺にこの時をくれるんだ?」
彼女の最期を託す兄にジャンは驚きを隠せなかった。
「私達は二人の時間を……家族の時間をたくさん共に過ごしてきた。そして別れの言葉も語り合った。しかしお前達はこの十数年互いの胸の内を打ち明けることなく過ごしてきた。この時間でその時を取り戻しなさい」
リュシアンは告げた。十数年前の恋人だった頃に戻れと。何のしがらみもなく想いを告げなさいと。
「兄上、……感謝する」
リュシアンの優しさにジャンは言った。
「リュシアン……」
弱々しくアンジェリーヌが呼び掛けた。
「何だい?」
「……私を愛してくれて、幸せにしてくれて……ありがとう。それからフレデリックにも……」
「母上!」
「……フレデリック、母はいつまでもあなたを見守っています。あなた達の幸せを願っていますよ」
「母上……母…上」
フレデリックは泣きながら何度も母を呼んだ。そんな息子の肩を抱き、リュシアンはジャンを見た。
「後は頼んだぞ」
リュシアンの言葉にジャンはしっかり頷いた。そうしてジャンとアンジェリーヌを残し、皆退出して行った。
* * *
「陛下、何故あなた様までがあの場から離れられたのです。殿下一人を残されたのは、まだあのお二人の仲が続いていたということですか!? 陛下はそれを知っておられたのですか!? もしそうなら王太子殿下と王女は本当に陛下のお子なのですか!?」
今回の戦いを見届ける役目を受け持ったシャンバリエ伯爵が陛下の退出を納得出来ないという口調で言った。その言葉にリュシアンは怒りを込めて彼を睨みつける。
「その言葉、王妃への……王族への侮辱と受け取るぞ。命を削ってまで国に身を捧げたアンジェリーヌにこれ以上何を望む? かつてあの二人の仲を引き裂いたのはそなた達ではないか! アンジェリーヌは王妃として私の妻として尽くしてくれた。ジャンも国のためを思って臣下へと身を引いた。それ以来あの二人は王族と臣下としてだけ接してきたのだ。このひとときを国の犠牲となった二人に捧げようとして何がいけないのだ。それに間違いなく王太子と王女は私の血を分けた子だ。その証拠に王太子の額には神の血がある。王女にしても、私を愛してくれた王妃が姦通など犯すはずはない!」
厳しく言い放ったリュシアンにシャンバリエ伯爵の顔色は青くなり、言葉が過ぎたことを頭を垂れ謝罪した。己の首が飛ぶ心地だった。
「私が許可するまで誰一人この部屋へは立ち入るな。何があっても入ることを一切禁ずる」
リュシアンはそう言い残し、フレデリックを連れて隣の部屋へ入って行った。
無言で椅子に腰掛け机の上で組んだ手に額を乗せ怒りを沈めようとしているリュシアンに、息子のフレデリックが戸惑いながら近づく。
「父上……私は、私達は本当に父上の子なのですね?」
恐る恐る確かめるようにフレデリックは口を開いた。息子からの意外な言葉に、リュシアンは驚き息子を見つめた。
「いつか貴族達の噂話を耳にしました。かつて母上が叔父上と愛し合っていたのだと。その仲が密かに続いていて、私とオルガが本当は父上でなく叔父上の子ではないかという……。父上と叔父上は双子だから父上に似ているということは叔父上にも似ているということ。神の血があっても私の心はどこか不安に思っていました。信じようとしてもその不安は消し去れなかった。そして今、父上は叔父上に母上を譲られた。叔父上と母上は今でも愛し合っておられるのですか? 母上は父上よりも叔父上を愛しておられたのですか?」
心に燻っていた不安をフレデリックは初めて打ち明けた。貴族達の心無い噂話に胸を痛め打ち消そうとしてきた息子の気持ちを思い、リュシアンは真実を話そうと思った。かつて自分達三人に起こった出来事を―――。
「フレデリック、お前ももう十二歳。元服もした。お前を大人とみなし、私達の過去を話そう」
リュシアンはそう言って静かに語り出した。
アンジェリーヌとジャンが愛し合い婚約までした仲だったこと。彼女が紅の女神と分かり婚約は破棄され神の血である自分の妻とされてしまったこと。結婚した当初は二人を思い、いつか二人を元に戻そうと彼女に触れなかったこと。それが彼女の父の事件をきっかけにジャンが臣下に身を落とし、彼女が自分に心を開き愛し合うようになっていたことを。
「私は彼女と結婚した時、彼女の心を思い、もう一生自分の子を持つことはないだろうと思った。神の血が絶えようと彼女を不幸にはしたくなかった。だがお前達が生まれた。それがどういうことか分かるか?」
フレデリックは返事に戸惑った。だが父が何を伝えようとしているのかは自ずと感じていた。
「彼女は一人の男として私を愛し、私と共に生きていってくれることを選んでくれた。私に血を分けた家族を与えてくれたのは彼女が私を愛してくれたからなのだ。お前達は正真正銘私の子なのだよ」
リュシアンの切なげに微笑むその瞳から涙が零れ落ちた。改めて彼女が与えてくれたものの大きさを思い知ったのだった。
「父上……」
フレデリックは父の胸の内を思い、その肩にそっと両手を添えた。そんな息子の頭をリュシアンは愛しく撫でた。
「フレデリック、お前もいつか本当に人を愛した時、私達の心を理解出来るだろう。……本気で人を愛したらその想いは簡単には消えない。だが惜しみない愛がまた別の愛を生むこともあるのだと。それが私と彼女との愛だ。そして最初の愛もまた色褪せることなく心に残るのだということを。……それが彼女とジャンの愛なのだよ。私との愛はこの十数年育まれてきた。だがジャンとの愛は十数年前で時が止まってしまったまま。だから……」
「だから父上は叔父上に時を譲られたのですね。母上の二つの愛を満たし、心安らかに旅立てるように……」
「そしてジャンの心の時を動かすために……」
フレデリックは思う。自分もいつか父のように叔父のように、己の何もかもを犠牲にしてもいいと思えるほど人を愛する時が来るのだろうかと。
それほどの愛を羨ましくもあり、その苦悩を思うと切なくも感じるのだった。
* * *
アンジェリーヌは瞳を閉じふっと呼吸すると、再び瞳を開けジャンを見た。
「……夢を見たわ。あの森で過ごした日々の。……懐かしかった」
愛しそうに呟いたアンジェリーヌを、ジャンは優しい眼差しで見つめ返す。
「モンシェルジュリーは今もあの頃の景色のままだ。まるで時を止めたようにいつも俺を迎えてくれる。……俺の心と同じ、時の流れを知らない」
ジャンの心の時は止まったまま。幸せの絶頂で摘み取られた想いを捨てることも忘れ去ることもせず、思い出と共に胸に大切に抱き続けてきた。
それ故ジャンにとってもモンシェルジュリーの森は失うことの出来ない大切な場所であり、唯一心を曝け出せる場所でもあった。
ジャンと同じ想いを心の奥にしまいこんでいたアンジェリーヌは懐かしそうにジャンの瞳を見つめた。
「……初めてあなたに逢った時、軍神が舞い降りてきたのかと思ったわ。その神々しさと話した時の飾りのない様子、そして強引なほど一途な感情。それを隠すことなく心のままにぶつけてくるあなたに惹かれていったの」
息を切らしながら話し掛けてくる彼女の髪をジャンはそっと撫でた。
「俺も出逢った時のこと今でもよく覚えているよ。お前を初めて目にした時、妖精が迷い込んだのかと思った。幻か現実か分からない思いでお前に近づき、絵を見て現実なんだと知った。あの絵のこと覚えているよ。森や湖……自然を愛する純粋な思いに溢れていた。この娘の心もこの自然のように澄んでいるのだと感じて惹かれた。王家の自分の置かれた立場を息苦しく思っていた時だっただけに、尚更お前の存在が俺に安らぎを与えてくれた」
「そんな想いを裏切った私を……恨んでる?」
アンジェリーヌの瞳が切なげに揺れた。
「えっ……?」
彼女の言葉をジャンは一瞬呑み込めなかった。
「あなたがずっと私を想っていてくれたこと……私ずっと感じていたわ。それを嬉しいとさえ感じていたの。あなたの手を離した私一人が幸せな家族を……愛する夫を得て、あなたはずっと淋しい思いを抱えてきたというのに……」
ジャンは首を横に振って否定した。
「恨んでいるとか出逢わなければよかったなんて思いは全くない。確かに結ばれることのない愛を抱き続けることが苦しくなかったわけじゃない。でもただお前がこの地上に生きていてくれるだけで俺の愛は報われていたんだ。もう一度生まれ変わって同じ人生を歩んだとしても後悔はないと思えるほど、俺はお前と出逢えて良かったと思っている」
真っ直ぐに注がれるジャンの視線にアンジェリーヌは彼の想いの深さを知った。彼女の瞳に涙が滲んだ。
「私も……。苦しくて涙したことが幾度もあったけれど後悔はしてないわ。素敵な二人の男性に愛され、愛することが出来て……。私は本当に幸せだったわ。たとえ生まれ変わってあなたと結ばれることのなかったこの人生と同じ道を歩もうと、あなたと出逢えるのなら私はもう一度この世に生を受けたいとさえ思っているわ」
アンジェリーヌはずっと心に抱き続けてきた、二度と言うまいと思ってきた言葉をそっと告げる。
「愛しているわ……ジャン」
何度も言いかけて呑み込んできた想い。ジャンを再び自分に縛り付けてしまうかもしれないという思いが一瞬よぎったが、それにも増して彼の心に本心で応えたかった。最期の時だからこそ彼の想いにまっさらな心で応えたかったのだ。
「俺も愛している。俺の心は永遠にお前のものだ」
「ありがとう………ジャン」
彼の変わらない愛をアンジェリーヌは素直に嬉しく感じた。
―――その時。
「コホ、ゴホッ!」
アンジェリーヌは咽るように咳き込み、再び大量の血が口から溢れ出た。
「アンジェリーヌ!!」
ジャンは咄嗟にアンジェリーヌをその胸に抱き起こした。
アンジェリーヌは遠退く意識を手放すまいと必死にジャンに手を差し伸べる。ジャンは抱きかかえた逆の手で、その震える手を強く握り締めた。
「アンジェリーヌ、アンジェリーヌ!」
彼の必死な呼び掛けと握り締める手の強さを感じながら、アンジェリーヌはその時が来たことを感じた。
「ジャ……ン、私を…抱いていて。このまま……あなたの胸の中で………眠りた……い」
そう言ったアンジェリーヌの瞳の端から涙が零れ落ちた。
ジャンは彼女の希望に応えようと、彼女を抱く腕に力を込めた。心の中では逝かないでくれと懸命に叫んでいた。
アンジェリーヌは瞳も意識も霞む中、ジャンの顔を必死で見つめる。しかしもはやジャンが悲愴に満ちた表情で自分を見つめていることすら分からないほど朦朧としていた。
混濁する意識の中、朧げに見えるジャンの顔に昔の姿が重なっていた。
「アル…フ……レー…ド」
彼女の呟いた声に、ジャンは彼女の心が出逢った頃に戻っているのだと思った。
「俺はここにいる。アルフレードはここにいる!」
ジャンはアンジェリーヌの手を握り締めたその手を、自分の頬につけて言った。
ジャンの温もりを感じたのか、アンジェリーヌは安心したように微笑んだ。
「私は…還るわ……あの森に。私達の…愛した……モンシェルジュリーの…森に。……あの森から…皆の幸せ……祈ってる……わ」
アンジェリーヌの瞳は閉ざされ、力を失ったその体はジャンの腕に更なる重みを与えた。腕に伝わるそのズシリとした重みに、ジャンは彼女の魂が逝ってしまったことを悟る。
覚悟はしていた。今この現状も理解している。だが襲ってくる悲しみは計り知れなく深かった。
ジャンの唇は震え、その瞳からは涙が溢れ、頬を伝っていく。
「…………っ……っ」
堪えようとしても堪えられない嗚咽が漏れる。ジャンはアンジェリーヌの亡骸を両腕でしっかりと抱き締めた。
「アンジェリ―――ヌ!!」
天に届けとばかりに、ジャンは悲痛な叫び声をあげた。
それからしばらくジャンはアンジェリーヌを抱き締めたまま、ただひたすら心を押さえることなく、たがが外れたように声をあげ泣き続けたのだった。
* * *
「アンジェリ―――ヌ!!」
砦中に響き渡ったジャンの声は、隣の部屋にいたリュシアンとフレデリックにももちろん届いた。
「母上!」
父に支えられるようにその肩に身を預けていたフレデリックは、立ち上がって母の許に駆け付けようとした。
「待ちなさいフレデリック。まだ行ってはならない!」
リュシアンがすぐさま引き留める。
「何故です父上!? 母上が……母上が……」
「分かっている。アンジェリーヌが旅立ったのだと……。でもまだ隣の部屋へ入ってはならない」
その時廊下を足早に歩く足音が微かにリュシアンの耳に届いた。それを聞いたリュシアンは急いで部屋を出て隣室の扉の前へと向かう。フレデリックも戸惑いながら父の後に続いた。
「陛下、もう待てません。入室の許可を!」
シャンバリエ伯爵がリュシアンに迫った。
「ならぬ。まだ入ってはならぬ!」
「せめて医師だけでも!」
リュシアンは頑なに拒んだ。
「アンジェリーヌは……王妃は永久の眠りについたのだ。急いで医師に診せる必要はない」
「ならば陛下ご自身でご確認を!」
リュシアンは静かに首を横に振ると口を開く。
「ジャンの嘆きが治まるまで私は待つ。弟は今の姿を誰にも見せたくないだろうから」
フレデリックはなぜ先程留められたかようやく悟った。
「ならば尚更殿下の身が心配ではないのですか!?」
伯爵はジャンが自ら命を絶つのではないかと危惧した。
「その心配はない。ジャンは本来の自分を取り戻したのだ。……忘れたわけではあるまい。アンジェリーヌと別れてから自分の心を押さえ隠すようになってはいたが、ジャンは元々心のままに動く気性の激しい性格だということを……。間違ったことを嫌う弟が、嘆きこそすれ、命を絶つことはありえない」
聞こえてくるジャンの泣き声を聞きながら、リュシアンの言葉にもう誰も意見を言う者はいなかった。
どのくらいの時間が経過しただろう。ジャンの声が次第に治まり、しばらく経った時、不意に扉が開いた。
姿を現したジャンは憔悴しきっており、まだ涙の乾ききらない瞳は充血していた。
声を掛けるのを躊躇うほどだった。ただ一人その様子を悟っていたリュシアンだけがジャンに近寄り声を掛ける。
「アンジェリーヌは……穏やかに逝ったか?」
ジャンは一度だけ頷くと耐えきれないようにリュシアンの肩に頭を預け、無言で泣き出した。
リュシアンはジャンの頭を抱き、己も静かに涙を流すのだった。
* * *
イレールに事後処理を任せ、リュシアン達はすぐに宮殿に戻り、王妃の葬儀の準備に追われた。
―――そして本葬を明日に控えた夜。
宮殿内の教会でリュシアンはアンジェリーヌの棺を見守るように座っていた。そこへジャンが入って来てリュシアンの隣に腰を降ろす。
「ジャン……か。お前も彼女との最後の夜を過ごしに来たのか?」
「ああ。明日には埋葬されてしまうんだ。彼女の姿をこの瞳に焼き付けておこうと思って……な」
ジャンは言って立ち上がると、アンジェリーヌの棺に近づき彼女の顔を見つめた。
安らかに眠る彼女を見つめ、ポツリと呟くようにジャンは口を開く。
「アンジェリーヌは本当にこの最期を望んでいたのだろうか……?」
「……ジャン?」
「本当は少しでも長く生きたかったんじゃないだろうか……?」
自問するように暗い声で問いかけるジャンに、リュシアンは立ち上がりジャンの肩を励ますようにポンと叩いた。
「……愚問だな。彼女を失った悲しみに、後悔するお前の気持ちはよく分かる。だが彼女のこの顔を見れば分かることだろう?」
「でももし俺があの時彼女を止めていれば、戦地へ行くことも紅の女神の責任を果たすこともなく、もっと生きられたんだ。俺はあの時、王妃としてでなく彼女の意思で選んだことだからと言った。……今になって本当にそれが彼女の意思だったのか、俺にはそうだと言える自信がない。分かった気になっていただけかもしれない!」
ジャンは苦悩していた。戦場へ行くと告げたアンジェリーヌの本心は止めて欲しかったのかもしれない。自分に止めて欲しかったのかもしれない……と。
「もう己を責めるのはよせ、ジャン。私はあの時、お前が彼女の心を一番理解しているのだと知って、心のどこかで悔しさを感じたよ。ずっと一緒にいた私よりも、離れて見つめていたお前の方が彼女の心を見抜いていた。……その判断が正しかったのだとよく分かったよ。彼女の一生は短かった。けれど彼女はその限られた命を一生懸命生き抜いたのだ。……見なさい。彼女の顔に後悔の色が見えるか?」
諭すようにリュシアンはジャンに言った。
もっと何か出来たのかもしれない。何か間違っていたのかもしれない。そのジャンの思いは痛いほどよく分かっていた。
だがアンジェリーヌはそんな風に自分達を苦しめたくはないはずだとも思った。
「しばらく彼女と二人にしてあげるから、彼女と話してみるといい。お前なら言葉はなくとも、彼女の本当の思いを理解できるはずだ」
リュシアンはそう言い残し教会から出て行こうとした。
「兄上!」
ジャンは振り返りリュシアンを呼び止める。リュシアンは静かに振り返った。
「兄上に一つ頼みがある」
「何だ?」
「アンジェリーヌの髪を一房、俺にくれないか?」
リュシアンは快くジャンの申し出を承諾した。ずっと彼女と一緒にいたい思いから髪が欲しいと言ったのだと思ったのだった。
リュシアンが出て行くと、ジャンは棺の中で眠るアンジェリーヌの頬にそっと触れた。
「アンジェリーヌ、……お前は本当にこれで満足だったのか? ……俺がしたことは間違いじゃなかったのだな?」
彼女の安らかな顔は満ち足りていた。頬に触れた手に温もりさえ感じられるほどに穏やかな表情をしていた。
「そうだな。お前はこれだと決めこんだら、それを貫き通す性格だったな。王家へ嫁ぐと決まってから最後の絵を描くまで、本当に一度も絵筆を持たなかったし……。外見からじゃ分からないお前のその強情なところ、分かっていたはずだったのにな。お前は精一杯生きたんだな……。俺、情けないほど弱気になっているんだな………」
ジャンは苦笑した。彼女を失ったことが予想以上に己に影響を与えているのだと、改めて思い知ったからだ。
ジャンはアンジェリーヌの髪を一房手にし、懐から短剣を取り出すと、ゆっくりと切り離した。そしてそれを紙に包み、大事に胸元へしまい込んだ。
「アンジェリーヌ……愛している。今までも………そしてこの先もずっと俺の命が尽きようと…………愛している」
ジャンは身を屈め、そっとアンジェリーヌに別れの口付けをした。
リュシアンと結婚すると告げられ、強引に唇を奪った時以来の接吻。
ジャンは彼女の唇にそっと指で触れながら、色々な過去を思い出した。そして愛しさが募り、溢れ出る涙が止まらなかったのだった。